のびアート

仮想の繋がりは世界を網羅し、現実の存在は現在の空白にしかない。
自由を目指した未来は、果てに神々しい光を予感させるが、それは現実にどういう形を取る?
本物の愛情はアスファルトの下にしか存在しないかもしれないが、全体を塞がれていて出られない。
プラザの噴水の虚偽は世界全体がそうだったから気づけなかったのか。
夢を見ているのでは無いことは知っているが、マトリックスは共感できる。
明るくて楽しいものは必要だが、それだけに満足することはできない。
どういう時代に生きているのかを示してくれそうなのは、東西の文学者で彼らは果てを目指しているので、民主主義と相入れることができない。
しかしこの文章もそこからの発信なので、説得力は何もない。

時代

感想1

強い閉塞感の中、情報だけは海のようにたくさんあり、その中で作中主体はひたすら考え続けてきたのだろうと思いました。ただスマホの先のサーバーはどこかに物理的に存在し、スマホをつつくばかりの指の他にも私には足の裏があり、それが触れるシーツがあり、ふくらはぎがあり、それが感じる痛みがあり、動き続けている体があることに、ふと立ち返る瞬間があります。この時代は、1000年後から見たらどんな時代なのでしょう。私たちは今同時代に何を共有しているのか……と考えています。

感想2

歴史家E.H.カーは、「過去の光に照らして初めて私たちは現在をよく理解することができる」と言ったが、集団の中に埋没しているとき、その集団の全体像が見えないように、現代の中で生きている私たちが、「現代」という時代を把握するのは困難なことであると思う。愛情、文化、現実感、快楽など、存在を感じつつ不確かなものばかりに囲まれる私たちである。これが過去となったとき、また新しい「現代」を生きる私たちは、はじめて当時を時代という流れのうちの一区画として認識できるのかも、というようなことを考えてみた。

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