のびアート

たしかに週にいくどかはベランダに出ていたのだから、そのたびそのたびに見ていたはずだ。 だけど私はベランダに置かれたすべてのものへの興味をうしなっていたからそれらに機械的にみずをやることはあったとしても、なにも見てはいなかったのだろう。今日がその日であったのは、私の脳がしずかで、かわりに 私の脚がさかさかと動こうとする日であったから。私の足はベランダに向かい、私の目は私とうまくつながっていた。雨にさらされたまま堆積した枯れ葉をひろい、溶けたリトープスを鉢からぬいて ごみ袋にいれたとき、視界の端からなにか見知らぬかたちがせまってきていることに私ははじめて気づいた。 それは無数に伸びたミントだった。ベランダの隅の、さして大きくもない素焼きの鉢に、何年も前に植えたあのミントの茎がベランダの鉢と鉢をめぐるように、伸びているのだった。ミントは増殖し見たものを石に変えるおんなのあのへびの髪のようにベランダを駆けまわり、 あるいは踊っていた。
静止して見えることと踊っていることは矛盾せず両立する。ただそのような速度で、ミントは踊っているのだった。
細く長くゆらめくように伸びるミントに私は手を伸ばしていた。差し出された手に、いまさらこたえるように。ずいぶんとひさしぶりに触れたミントの枝先はローズマリーの鉢を乗りこえて伸びあがり、そこでしりしりと乾燥していた。ローズマリーは迷惑そうにむらさきの花をつけている。私はミントの茎をつかむとかるく引き、もう一方の手ににぎったはさみで根元から切り落とした。ぱち ぱち ぱ り つちんと伸びすぎた茎をつぎつぎ切ってゆく。触れるだけで、小さく丸まった茶色の葉を落とした茎も、まだあおい茎も切る。「切り戻しは植物の健康のために必要」とにんげんがいうから、植物よりはにんげんに近い私ははさみを使うけれど、しかしはたして植物はどのように命なのだろうか。鉢の中にみちと生えたミントは下のほうから若い芽を出していた。
みずみずしい、なまのにおいがする。それら
すべてを合わせひとつの命だろうか
それとも
この指に触れて落ちた
その一葉がひとつであったのか。

すくなくともここでしずかに踊っていたものはもういないのだが、それにもかかわらず私の足はむずむずとして、動きまわろうとしている。

ダンスパートナー

作品にまつわる質問

制作環境や画材などについて教えてください。

制作環境: ベッド
画材: iPhone(すぐに熱くなる)

感想1

巷で「ミントテロ」呼ばわりされるほどのミントの凄まじい繁殖力を思い出しました。あっという間に地面を侵食し、しなやかにたくましく伸びるあの緑が脳裏に浮かんできます。擬人化された植物たちの、無いはずの顔色や表情が、彼ら特有の匂いとともに伝わってくるようでした。いのち、たしかに、どこからどこまでが命なのでしょう。葉っぱや枝は、植物にとっての何なのかなと思いました。爪?髪の毛?それとも手足のようなもの?そんな風にしてみると、はてまた人間の命は、爪や毛の先の隅々まで入り込んでいるものなのか?と考えが広がりました。

感想2

心地よい言葉のリズムと、しんとしたベランダの雰囲気、爽やかな匂いが伝わってくるように読みました。日常をこんな風に切り取ると、当たり前に見過ごされている事象や景色に、何かしら意味があるような気がしてきます。知らない間に根を伸ばしたミントを「踊っている」と表現していることに、あなたのセンスを感じました。私もアパートの室内に観葉植物をいくつか置いているのですが、見ているようで見ていない感覚は、思わず共感してしまったところでした。

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