経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

罪の意識と希死念慮

わたしは統合失調症で精神障害2級です。病気になった理由は複合的なものだと思うので、1つだけを挙げることは出来ませんが、今思えば中学時代のいじめが、事の発端のような気がしています。初めて暴言を吐かれたのは中学1年生の冬頃だったと思います。当時好きだった男子に言われた、「誰がお前なんて好きになるか、ブス」という一言は、何が起こったのか理解が追いつかないくらい衝撃的なものでした。その日から、毎日「ブス」「死ね」「キモい」「ウザい」「菌が移る」などと言われていました。クラスに頼れる友達もおらず、先生は「子ども同士の問題だから」と見て見ぬふりをし、親には相談できませんでした。独りぼっちでした。親に相談出来なかったのは、「わたしがいじめられている理由は、わたしが醜いせいだ」と勘違いしていたからです。そんな理由でいじめられていると親が知ったら、産んでやったのに贅沢言うなと怒られるかもしれないと思い言えませんでした。わたしは毎日泣いていましたが、ある日クラスメイトに「被害者面すんな、お前が悪い」と言われ、理由を聞くとクラスメイトのAちゃんの名前が挙がりました。わたしがまだいじめられていなかった頃、廊下を歩いていた折に、Aちゃんが好意を寄せていた先輩が遠くを歩いているのを見かけて、先輩の部活の背番号を言うことで、Aちゃんを呼ぼうとしました。すると、それを見ていた他のクラスの男子が、Aちゃんはあの先輩が好きなんだと悟って、冷やかすようになったらしいのです。Aちゃんはわたしに復讐するために、わたしを含めた仲良し4人組でやっていた交換ノートをクラス中に見せました。当然、わたしが好きだった男子もそれを見ました。こうして、わたしはあの日「誰がお前なんて好きになるか、ブス」と言われる羽目になったのです。毎日複数人に「死ね」と言われていると、だんだん本当に死んでしまったほうが、みんなが喜ぶんじゃないか、と思うようになります。その上、全てを知ったわたしは、結局自分が悪かったのだと罪の意識に苛まれ、「やはり自分は死んだほうがいい人間だったんだ」と考えるようになりました。他のクラスの友人はわたしがクラスでそんな扱いをされているとは知らなかったようで、何かの折に「いじめって、いじめられる方が悪いよね」と笑いました。(全てのいじめに言えることではないとは思いますが、わたしの件に関しては)「やっぱり全てわたしが悪い。」そう思い、死にたくなりました。わたしが人生で犯した罪はこれだけではありません。わたしは中学時代、クラスメイトの男子を馬に似ていると笑って傷付けたり、他人のファッションを冷笑したりしていました。短大に通っていた頃は、同じクラスの女子が自分でカットしたウィッグを被って来ていたのを見て「下手だね」と言って傷付けてしまいました。今から2年程前、わたしは自分がセクシャルマイノリティであるという自覚はほとんどありませんでしたが、同じ会社の歳下の同性を好きになってしまい、わたしはセクハラ発言を何度もしてしまいました。彼女ははっきりと嫌とは言わなかったですが、今思えばわたしのほうが歳上だったし、怖くて言い出せなかったのだと思います。今思い出せる大きなものだけでもこれだけありますが、生きれば生きるほど、人を傷付けてしまった経験はどんどん増えていき、罪の意識はどんどん強くなり、決して消えません。どんどんしんどくなって、死んでしまいたくなります。これからもきっと、同じように過ちを繰り返してしまうんだろうと思います。生まれながらにして良い人間では無かったからこそ、良い人間でいられるように自分を戒めて努力してきましたが、結局26歳になっても良い人間にはなれていません。良い人間になるための努力はほぼ毎回自己否定の段階を踏みます。どういうことかというと、生きていると自然と「なんであの人はあぁなんだろう」とか余計なことを言いたくなりますが、まずはそう思う自分を否定しなければならないということです。「そんな失礼なこと、考えてはいけない。」そうやって自然に発生した考えを否定して生き続けるのはとてもしんどくて、これからもそれを続けていかなければならないと思うと途方もなく、良い人間になるより死んだほうが早いと思います。「自分はこんなに悪い人間だ。だから死んでしまった方が良い。」こう考えるのと同時に、わたしは他人に傷付けられた経験もとても多く、「生きるってこんなに辛く苦しく、社会は怖い場所だ。」とも思い、一層希死念慮は深まるばかりです。統合失調症で仕事も出来ず、将来への不安や金銭的不安もありますが、死にたくなる理由や具合が悪くなる理由で何より大きいのは罪の意識だと思います。自分が生きていてはいけないような気がします。もう自分を否定するのに疲れました。とは言え、二度と誰のことも傷付けたくありません。楽しそうに生きている人は、どうしてあんなに楽しそうなんでしょうか。人の痛みがわからず、鈍感だからでしょうか。わたしは、幸せにはなりたいですが、他者を踏みにじることはもうしたくないんです。

感想1

投稿ありがとうございます。あなたの「罪の意識」についての記述を読んで、勝手な言い草だとは思いつつ、とてもわかる……という気持ちになりました。そのため、自分自身の中の罪の意識も振り返りつつ(かなり自分語りをしてしまいつつ)、あらためて、罪ってなんなんだろうなぁ、と考えています。

罪ってだれが決めるのでしょうか?あなたの文章を読んで、あなたは中学のいじめの中で「あなたが悪い」と周りから思わされてしまう、とても強烈な体験をしたのだと感じました。そしてその中では、その論理を引き受ける以外には、その状況を生き延びることもままならなかったのではないかと想像しています。私も人から言われてきたことを、自分の中でも再生産するように、自分に対して無意識に言い続けてしまうことがあります。その中で、今は周りに私を責める人はあまりいなくなっても、自分を責めることがやめられないようにも思っています。
「毎日複数人に「死ね」と言われていると、だんだん本当に死んでしまったほうが、みんなが喜ぶんじゃないか、と思うようになります。」という一文も、まさにそういうことが起こってしまうことがあると思いますし、言葉というのは使い方によっては、なんという暴力になるのだろう…と思いました。

「わたしが人生で犯した罪はこれだけではありません。」というところからの文章も含めて、懺悔や告解のようだと思いました。キリスト教では、自分の罪を告白し、許しを求めるというようなシステムがあると聞いたことがあります。罪というのは、人々の行動を、強い立場の人が判断して与えるものなのでしょうか。だから、罪は許されることが必要になるのでしょうか?
私の場合はキリスト教を信じているわけではなく、だれが決めたのかもわからないのに、罪の意識がずっとあります。(法律上の罪もありますが、それにはあたらないものでも罪だと感じています。)それは、私自身が「こういうふうに他者を傷つけたくない」「他者を蔑ろにしたくない」と感じていて、それなのに、その理想とはあまりにも違う自分を許容したくない、許せないということなのかなぁとも最近考えています。あなたの「罪」があなたにとってどういうものなのか、気になりました。

一方で、人が誰も傷つけずに生きるのは不可能だとも私は思っています。それは傷つけることを肯定する、という意味ではなく、傷つけあってしまうからこそ、なるべくそうしないように気をつけ続けるしかないし、考え続け、学び続けるしかないのではないか、ということです。「良い人間でいられるように自分を戒めて努力して」きたと書いてあったことからも、あなたにとって、ありたい自分の姿があるのだろうと思います。そしてそうであるために真面目な人なのだろうとも思います。ただ「良い人間」にも、達成点はない気がします。ただ、そうあろうと心がけ続け、ときにはそれすらできずに落ち込み、ときには……と生きていくことになるのだろうかと(半ば諦めの気持ちも含めて)思っています。
私も罪の意識に飲み込まれた時、消え去りたくなります。それは苦しくて死にたい時の希死念慮とはまた違う死にたさ、消えたさだと思っています。

あなたがたくさん傷ついてきたこと、自分を責めながら律してきたことを読んでいて感じました。「他者を踏みにじることはもうしたくない」という気持ちにとても共感します。少しでも踏みにじることや蔑ろにすることを減らすためには、知らなければいけないことも考えなければいけないこともたくさんありそうです。そして「幸せになりたい」と同じ文の中にあるように、自分自身のことも踏みにじらず、蔑ろにしない方法がいいのかなぁと思います。よかったら、あなたともっと考えてみたいと思いました。

感想2

中学時代のいじめによって強く刷り込まれた、自分の行動や存在を否定する「癖(思考の癖ともいえるかもしれません)」が今もなお、投稿者さんを苦しめ続けているように想像しながら読みました。客観的に考えてみると、(いじめる側なりに)どんな理由があったとしても、相手の尊厳を踏みにじるようなことは言ってはいけないものだと私は思うので、「いじめられる方が悪い」という意見には平たく言えば賛同できません。しかし投稿者さんは、ご自身も他者を否定するような声掛けをしてしまったことがある、と書いてくださっていて、そのねじれが「罪の意識」という形で自己否定をさらに加速させているのかな…と感じました。
私が思ったのは、人は、自分が他者から尊重・肯定される経験を経て初めて、他者のことを尊重できるようになるのではないか、ということです。私自身も(きっと誰にとっても)「他者を尊重する」こと自体とても難しいと思うのですが、それでも「自分が尊重された経験」を手がかりにすることで、他者を重んじたり、境界を引いたりするのではないかと推測しています。そしてこれは「尊重」に限った話ではなく、要は自分が受けてきた(見てきた)扱いや態度が、自分が他者に向ける振る舞いに色濃く出るのではないか、と思っています。
そう考えると、投稿者さんは文中で「生まれながらにして良い人間ではない」と書いてくださっていましたが、持って生まれた気質というよりも、中学生という人格形成半ばのタイミングで、頭ごなしに繰り返し批判されたり、「自分が悪いのだ」とはっきりと感じさせられてしまったことが、自明の事実のようにあなたに深く刻み込まれたことで「罪の意識」を抱え、そのうえで(傷つけたい意思があるわけではおそらくないのに)他者との関わり方として、傷つけるような態度を取ってしまったりしたのかな…と感じました。

私の推測を書いてはみたのですが、「結局のところ自分が諸悪の根源だ」と思われてしまうのかもしれないと想像しつつ…投稿者さんが感じている罪の意識は、気質の域を超え、負のスパイラルに陥り、ある種トラウマのようなものとして心に深く根を張っているような気がしたので、こうして改めて言葉にして、自分の中だけにとどめ続けないのは、とても大切な行為だと思いました。また、今もし通院されているようでしたら、そこで話してみるのもいいのかもしれない、と感じました(罪の意識が不調に大きく影響しているだろうという部分からもですが、心理的な知識を活用してみるのも一つの手なのかなと感じた、というのが理由として大きいです)。死にトリという場が、自分を言葉で傷つける場所ではなく、自分の存在と行為、自分と他者の間に距離を取り、自分の気持ちを見つめるような場所として機能し、投稿者さんの荷物を軽くする助けになれたらいいなと、勝手ながら思いました。
投稿ありがとうございました。

お返事1

お忙しい中、感想ありがとうございます。抱えている問題を打ち明けられる場があり、それに意見をもらえる安心を思い出しました。とても心強く感じました。返信いたします。

感想1について
おっしゃるとおり、わたしの中で「他者を傷付けたくない」という理想があって、そうできなかったときのことを思い出して自分自身を許せなくなる、そういう意味で罪の意識があります。
わたしと同じ理由で消え去りたいと感じている人がいるとわかって心強いですし、「あなたともっと考えてみたいと思いました。」とも言ってくだすって、とても温かい気持ちになりました。ありがとうございます。

感想2について
こちらについても、思い当たるところがあります。間違ったコミュニケーションの在り方を学んでしまったせいで、他者と関わるときにその方法でしか関われなくなっていると思います。
病院で話してみるという発想がなかったので、今度試してみます。
ありがとうございました。

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