経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

過去の経験を消したい

傷つく言葉を言われた時、その人の顔を見た時、辛い気持ちになった時、これまでの人生で、自分に起こった辛い出来事が全てフラッシュバックします。子供の頃のいじめの経験、社会人になってからの上司からの言葉、友達の何気ない言葉、楽しく生きているはずなのに、一つのきっかけでまた全てが思い出されてしんどくなります。自己肯定感が低くなり自分なんてと思ってしまったり、家族など当たりやすい人にあたってしまったり、自分が嫌になります。皆さんは、どうやって乗り越えているのですか。

子供の頃いじめがありました。一番仲がよかった友達に合わないと言われました。地味だから。あなたといても楽しくないと言われました。いまでは普通に話すこともできます。でも、この経験があってから自分が気を遣っているのもわかるし、間違いなく一番の親友ではなくなってしまいました。

社会人になり、飲み会がありました。くじで席を決め、隣になった上司にあなたはおとなしいからつまらない。と言われました。さらに障害のある方に関わる仕事を今後したいと伝えると偽善だね、と言われました。自然に涙がこぼれて席をたちました。すると上司が追いかけてきて、わたしのせいだと思われるからそうゆうのやめてくれない?と言われました。でも、もう目が腫れてしまっていたので、先に帰りました。自分の性格のことは自分が一番わかっています。おとなしいと言われるのもわかるけど、それなりに努力もしているのに何もかも否定され、つらくなりました。

友達の結婚式で、人と関わる仕事をしていることを話すとあなたなめられてない?と一言。悪気もなく、素直に出た一言だと思うのですがわたしにとっては、忘れられない一言になりました。言い返せなかった自分もくやしかった。

他にもいくつか辛かった出来事は、ありますが、何かのきっかけでいつもこれらがフラッシュバックして、しんどくなります。自分を変えたいのにこの経験が邪魔をして、どんどん自信がなくなっていく。失敗すると余計にへこむ。どうしたら自分に自信がつくのか、強く生きていけるのか知りたいです。

感想1

さまざまな過去の記憶があなたのなかにとても明確に記録、保存され、そしてそれが不意に鮮明に蘇ってくる様子を想像しています。いじめや様々なしんどい体験は、それ自体があなたに降りかかったとても理不尽なことだと思うし、読んでいて、それがあなたにとって大きなダメージになったのだと感じました。
また、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざがありますが、あなたの場合は喉元をすぎても、何度も何度も、その熱さが蘇ってしまうのだろうと思いました。
それはおそらく「記憶力」と呼ばれるような能力にも近い部分なのかなとも思うのですが逆にいうと「忘れる」が難しいことで多大な苦労をしてきたのだろうと思いました。
記憶、そして想起ということ、あるいはもっとその前の何かを感じ、知覚するということの体験は、実は人によってかなり多様であると私は感じています。それを経験談から教えてもらうことも多いです。
私はむしろ覚えていなければいけないことも忘れてしまって周りの人に怒られたり、自分が困ってしまったり…ということが多く、どちらかというと記憶力が弱いタイプなので、あなたの大変さをそのまま実感できているわけではないのですが、そのしんどさを教えてもらっている感じがしています。
辛いことに限らずその日に起こったことや見た物などが不意に蘇ってきて、現実世界の知覚がわからなくなってしまう、という人の話を聞いたことがあります。
鮮明であればあるほど、その体験や出来事と現在の距離をとることは難しくなってしまうかもしれないと思います。「自分を変えたいのにこの経験が邪魔をして」と書いてあるので、引き戻されるような感覚があるのかなと思いました。
私は無理に自信を持つ必要もないと思うし、強く生きていく必要も別にないと思います。苦しかった出来事の事実自体は変わらなくても、あなたが苦しい過去を思い出した時、それでもあなたは過去のその場所にいるわけではないので、そこにいる現在のあなたが少しでも楽に過ごせたらいいな…と思いました。投稿ありがとうございました。

感想2

投稿ありがとうございます。

あなたがこれまで多くの傷を負ってきたことが伝わってきました。言葉は人と人が出会い関わる中で、日常的に使用される(ことが多い)ものであるにも関わらず、どうしてこうも人を傷つけるのだろうかとも考えさせられました。

あなたが書くように、傷つく言葉をかけた相手は「悪気もなく」ともすると善意からのものもあったかもしれないと考えます。その言葉は何気ないものと認識され、発したことすら忘れられている可能性もあるかもしれません(とはいえ、特に上司の方の言動はひどい!と率直に思い、傷つくのも当然だと思いました)。それで言うと、私自身も何気なくかけた言葉・善意の言葉によって、誰かを知らぬうちに傷つけてきたのかもしれないという反省も浮かんできます(傷ついた経験も思い出されますが…)。

このように考えながらあなたの投稿を読むと、大事なことは善意であろうとなんであろうと、あなたが確かに傷ついたという事実があって、その傷がケアされることなのかなと感じました。また、言葉そのものよりも否定されたことや尊重されなかったこと、そして、相手があなたより(権)力を持った立場である、あるいは同調圧力の強い状況であったがために、あなたの気持ちを封じられたことがあなたを傷つけたのかもしれないとも感じています。
こうした辛さは「自信」をつけ「強く」なることで「乗り越える」物語がよく語られるように思いますが、私としては「自信」も「強さ」も自分の力だけで身につけるものではなく(そもそもあいまいなものな気もしています)安心できる環境に身を置くことで自然と養われるものなのかなと感じています。また「乗り越える」というよりも苦しさとともに生きていく支えを見つけていくということのようにも思っているので、そのためには(あなたの傷ついた経験を振り返ると)対等な立場であなたが尊重され、安心して気持ちを語れるつながりや場がもしかしたら必要なのかもしれないと私は感じました。ここがもしそのひとつとなりうるようであれば、よければまた書きに来てもらえたらと思います。

一覧へ戻る