経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

他人軸で生きてきた自分が憎い

26歳女です。

今の年齢になって、自分の人生を自分のために生きられていなかったことに気付き、絶望して何度も死にたくなっています。

私は子供の頃から周りが喜ぶことを選んできました。

中学生時代は学年テストでいい結果を出すこと、そうすれば親が喜ぶし親もそれを望んできたから。

高校受験は県内でもかなり上位の公立の高校に頑張って合格しました、親が喜ぶし親も遠回しにそれを望んでいる感じだったから。

大学も自宅から通える国立のほどほどな学部に合格しました、 。「お金がないから家から通える範囲にしてほしい、あと行きたいって言ってた学部は将来お金にならないよね?」と言われたから、本当は一人暮らしもしたかったし、行きたい学部も別の学部だったけど。

そして大企業に就職しました、いいところに就職していい人を捕まえて子供を産んで幸せになりなさいと言われたから、親にも親戚にも。

でも途中で自分のやりたいことを突き進んだ人たちが楽しそうにしているのをみて、自分が自分の人生を歩めていないことにようやく気づきました。
そこからすぐにメンタルを崩し適応障害、不安障害、パニック障害になりました。休職もして正社員も辞めました。

今は少し落ち着いてきましたが、アルバイトでどうにか生きています。

でも親が憎いわけではないです、親は好きです。だからこそ、ここで親に従うことを選択した過去の自分が憎いです。嫌いです。あくまでも私の選択です。じぶんが死んでしまえとも思います。でもそれをすると親が悲しむのでできません。でもここで結局ここでも親のため、他人軸になっていることに絶望するのです。
だから親には相談したくないです、無意識に他人軸を選んでしまう気がするから。

どうしたらよかったんでしょう、そしてこれからどうしたらいいんでしょう、やりたかった仕事や勉強は、正直年齢的にもう厳しいです(演劇系)
家族も子供もいつかは欲しいけど、今のまま子供を持ってしまったら自由に生きる子供への嫉妬心でおかしくなってしまうと思います。そんな不幸には子供になってほしくないです。

こんな漠然とした絶望と不安感に苛まれて、とても死にたくなって眠れず泣くことしかできなかったので投稿しました、少しスッキリしました。
ここまで読んでくださった方ありがとうございました。貴重なお時間をすみません。

みなさんも幸せに楽しく過ごせますように。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。

「子どもの頃から周りが喜ぶことを選んできました」との言葉に、(こんな言い方をするのはどうなのかと迷いつつ)察しがよく、しっかり者として評価されてきたあなたの姿を想像しました。
どこかに隠れて潜んでいる本音に気づきながらも、周囲が期待する方向へと舵を取り、結果を残されてきたのですかね。そして「自分の人生」というお題が突然目の前に現れた瞬間、信じてきたものや歩いてきた道がガラガラと崩れ落ちるような、大きなショックと混乱の中にいたのではないかと想像しています。前にも進めず後ろにも戻れない不安の中に佇む時間は、なかなかに苦しかったのではないかと想像しています。

あなたは「あくまでも私の選択です」と書いてくれましたが、ご自身を責める姿がなんだかとても苦しそうで、勝手ながら心配になっています。私は、あなたのせいではなく、目の前にある選択肢を選ばざるを得なかった環境に身を置かれていたのではないかと感じています。ですが、親御さんを大切に思っている気持ちもまたあなたの気持ちであって、簡単に否定したくないなと感じているところです。

社会の中には「〜であるべき」「〜しなきゃいけない」という価値観が至るところに陰を潜めていて、私たちはいつもその影響に晒されながら生きていることを感じています。いい成績をとること、いい会社に就職すること、いい人生を送ること・・。こうして書いてみると、「いい」って誰の基準なんだろう?と考えてしまいます。人が何に楽しみや幸せを感じるのか、本当は千差万別なのに、そのかたちや姿がフォーマットのように今も語られて続けていることは、苦しみを生み出す根源のようにも感じています。

自分の人生について立ち止まって振り返ること、向き合うことは怖いことだと私は思います。そんな中で巻き起こる絶望や不安は、死にたいと思う気持ちを抱くことは何らおかしくないことだと思います。どうしたらよかったのか、この先どうすればいいのかという問いに、私自身も戸惑いを覚えつつ、「好きなことをやるために仕事をしている」と真っ直ぐな目で語った友人のことを思い出しています。そんな考え方もあるんだなと思った瞬間でした。
今は先々のことを考える中で、自分の人生を生きることへの希望と恐怖が入り混じった、一歩を踏み出したいけど足が出ないような複雑な感情があるように想像しています。

気持ちを整理したり、どこかに吐き出すことで少しでも楽になる瞬間に、この場所が何かのお役に立てればと思っています。よかったらまたお話を聞かせて下さい。

感想2

あなたの経験談を読みました。親の期待を感じながら、それに応えることを一生懸命にやってきたのかなと思います。その選択は、本当はあなたの希望や思いとは別のところにあったことが多いのかなと思うのですが、その当時は、期待に応える選択以外の選び方があることすら知らなかったのかもしれないと想像しました。
子どもにとって親が示す価値観や、言葉や態度で示す期待や「こうあるべき」というモデルはとても大きな影響を与えるものだと思います。でもその中で生きていても、当然あなたの親とあなたは別の人なので、あなた自身の中には別の思いが芽生えるのは当然だと思います。でも、自分で選ぶ機会があまり得られなかったら、どうしたらいいのか、どうしたらよかったのかわからなくなるのも自然だと感じました。

と言っても、他人軸と自分軸はきれいに二つに分かれるものではないような気もします。また、選択にはお金やタイミング、場所や時代、法律や制度、世の中の流行など、本当にさまざまな要素が含まれると思うので、単純に自分軸であれば自分の希望通りになるというものでもないとは思います。ただ、あなたのショックは、希望通りの結果になるかというと以前に、まず、自分で選んでこられていなかったことへの気づきの中にあったのかなと思いました。

また、もしそうだとしたら、これからでも、あなたにとってなにが望ましいか、なにをしてみたいか、試してみたいか…ということを少しずつ探すことも一つのやり方なのかなぁと思いました。選択というのも、大きなものもあれば小さなものもあるように思います。
仕事や進路みたいなものはどちらかといえば大きな選択で、付随する変化も大きいだけに、ハードルが高くなることもあるのかなと思います。それとは逆に、生活の中に日々ある無数の選択も存在すると思います。
私は調子が悪い時には、自分がなにを食べたいか、食べられるかわからなくなってしまうことがあります。なにをしたらいいかわからなくなって、ぼんやりスマホを眺めている間に一日が終わることもあります。そういう時は、最低限体を維持しながら休むのがいいのかなとは思いつつ、なにも選べない自分に焦ることがあります。
自分がなにをおいしいと思うのか、なにを口にしたいのか。身につける服はどのような着心地の、どのようなものがいいか。それは日によって違うのか。どんな情報に触れたいか、なにと距離を置きたいか。どんな過ごし方だと疲れて、どんなふうだと楽なのか……。そういうことも、もしかしたら小さすぎると感じるかもしれませんが、実はさまざまな選択肢があるように思いますし、考えてみるとすぐにはわからないことも多いかもしれません。私自身は、最近そういう感覚をなるべく無視しない練習をしているような気がします。あなたの感覚はあなたのものなので、それは節目の選択だけでなく、まず小さな日々の選択肢を前にした時に、耳を傾けてみるのもいいのかなと思いました。……いろいろ書いてしまいましたが、的外れだったらすみません。
あなたの親への思いも、あなたが自分の願いを聞き届けたいという思いもなくす必要はないし、絶望ですらあなたのものだと思います。その中であなたに、苦しさだけではない過ごし方が見つかることを願っています。
あなたの感覚や思いを教えてくれてありがとうございました。

お返事1

経験談を読んでいただき、そして感想をいただきありがとうございます。

自分の気持ちを文字に起こして少し落ち着いていたのですが、
感想を読みより一層自分の気持ちに正直になることができました。
本当にありがとうございます。
この先進んでいくときに、またつらくなった時に読み返し、力にさせていただきます。

私の経験談が誰かのお役に立てば、幸いです。

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