まずは閲覧ありがとうございます。
可笑しい話、拙い部分等々あるかと思いますがよければ見ていってくださいませ。
結論から言えば、私は恵まれています。なのに、それが苦しく感じられてしまっています。
この時点で嫌悪感を抱いた人はすぐに前の画面に戻りましょう。この話がずっと続きますので。
自分で言うのはためらいますが、私は親や友人に恵まれ、上手くいかないこともありつつ現在まで来ています。
成長過程では否定されること、アドバイスなど全般へのトラウマもどきが生成されたり、死恐怖症を患ったりと決して楽だったというわけではない、というのも思っています。
ですが、自分は恵まれているという意識は前からありました。
私の周りには苦しんでいる人が多く、毒親、いじめ、その他希死念慮や様々な精神障害に悩まされている人が今よく関わる人の大半を占めています。
友達は日々辛さをどうにか紛らわせ、重荷に苦しみながら生きています。その断片が、交流しているうちによく見えてきます。
どうしてか、それを見ると死にたくなってしまうのです。
もちろん自分も辛い、とか思うことはあります。ただ、友達のそれと私のそれは同音異義語。とてつもなく大きな差がある…と思ってしまうのです。
いじめも毒親もなくて、明確な生きづらさの指標もなく、死にたいーつらいーだの言いながら布団でぬくぬくして、親にご飯を食わせてもらってる奴が、一体何様だよ、と。そう自分に言ってしまうわけです。
辛いのは辛いでいい。比べる必要はない。相談させてもらった人に何回もかけてもらった言葉です。でも私の心は何故かそれを信じられないみたいです。
「恵まれている罪悪感」ってやつなんだと思います。
友人達の、自分には想像もつかないような生きづらさの中で生まれる言葉を見ると、自分がいかに恵まれているのかを実感してしまいます。
こんなに恵まれてるのに嘆いていてごめんなさい。
こんなに恵まれてるのに死にたくなってごめんなさい。
あなたたちの気持ちも知らないほどに楽してて、ごめんなさい。
そんな気持ちになって、謝ってしまいます。別に私が謝ろうと解決することではないのですがね。
自分は今高校生なのですが、トラウマもどきが尾を引いて教室にほとんど行けていません。それで不安になって色々と検索をかけて見たりするんですが結局ダメージをもらってしまいます。
「突然動けなくなった。味がしない。吐き気がする。息が苦しくなる。起き上がれない。」
そこには自分より辛いことを示す反応が並んでいるのですから。私には身体症状がほとんどないので、また恵まれていることを実感してしまうのです。
自傷して血がいっぱい流れれば許されるだろうか。どれだけ自分を傷つければ許されるだろうか。ある友達にとって生きることが罪なら、私にとっては恵まれていることが罪なのです…とか考えます。愚かな話ですよね。でも実際意識としてはそんな感じです。
これも恵まれている罪悪感の特徴かもしれませんが、自分だって辛いと認めてほしくもなってしまいます。「私だって辛いの!」と「私ごときが辛いだなんておこがましいんだよ!」がぶつかってます。
調べてみれば「こういう考え方がいいよ」とか出てくるんですけど、実践しようとはあまり思えません。ほかのつらさについても同様です。
辛いのは苦しいけど、辛さがなくなってしまうのもまた怖いのです。たぶん、もっと辛くなくなったら、それこそ周りの人の苦しさに押しつぶされてしまうでしょうからね。
数年の間ちゃんと泣けてないんですけど、こんなことばっかり考えてたらそろそろまた泣けるようになるかもしれませんね。涙に固執するのもまた、それが辛さを表す指標だと思ってるから…だと思います。
色々書きすぎましたね。そろそろお暇したいと思います。
閲覧ありがとうございました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。
とても共感しながら読ませていただきました。個人的な話で申し訳ないのですが、私もまさに同じように「こんなに恵まれているのに辛いと思っても良いんだろうか」と考えていたからです。
人によって辛さの許容量は違うし、表面化されていない苦しさや生きづらさがあるかもしれない。私も辛いのは辛いで良いと思います。
これまでも決して楽ではなかったというのも本心だと思います。
でも心がそう思いきれなかったりするのですよね…。「恵まれている罪悪感」という表現に、なるほどと思いました。(同時に罪悪感を感じるのはなぜだろう?そもそも恵まれているってどういうことなのだろう?と色々考えたくなりました)
あなたの辛さはあなたのものだと思います。私は率直な自分の辛さを発信できるところが死にトリの良さだと思うので、またこういった気持ちを話しにきていただけたら嬉しいです。