大学のカウンセラーさんや友人、パートナーとはなすと、あなたの辛さはあなただけのせいじゃないとか、環境にも理由があるとか、「あなたはうまくやっている、だからあなたはおかしくない」といわれるのですが、わたしはなにとも関係がないところで辛くなっているのです。じぶんは頭もこころもおかしいのだという感覚があるのですが、それすら周りに否定されてしまいます。
はじめて死にたいと思ったのは幼稚園の年中のときでした。消えたい、いなくなりたいと漠然と思い、映画「千と千尋の神隠し」で神さまの世界に迷い込んで怯えている千尋が「消えろ、消えろ」といっていると、ほんとうに姿が透明になっていくシーンをよく真似していました。
怪我の手当てをしてもらっているときに「血がたくさん出ると死んじゃうよ」と言われたのを覚えて、ささくれを剥いて血を出して死のうとして、よく叱られて「痒かったから、剥けてるのが気になったから」と言い訳していました。
そのうち皮膚むしり症のようになって、手指の皮膚がめくれて出る血くらいでは死なないとわかっている今でもその癖があります。
そういうはじめのきっかけは覚えていても、どうして消えたかったのか、死にたかったのかということは覚えていません。幼稚園のころの記憶だからとはいえ、その頃は家族も友だちもみんなやさしいと感じていたし、わがままをいって叱られたりはしても、そんなに世界に不満はなかったはずでした。
ただ記憶に残っているのは、切り離されたという感覚でした。
まだ赤ちゃんで母のおっぱいを飲むというとき、ふと、まるで「いま、突然」母のおっぱいを差し出されたような「えっ」と引く感覚があり、それでおっぱいを吐き出してしまったという経験があります。それがほんとうの記憶なのか、それとも母に「あなたはわたしのおっぱいを吐き出してニヤリと笑ったんだ」と何度も何度も母に語られて作ってしまった偽の記憶なのかはわかりませんが、たしかにそういう感覚が残っています。
ほかに、幼稚園から帰ろうと母と手を繋いで歩いているとき、漠然と「いま隣を歩いている母は知らないひとなのかもしれない」というぼんやりした不安があったことも覚えています。
そういった誰にでもなく切り離された感覚の原体験や原風景が、幼い頃からぼんやりと不安に、死にたくさせるのかなと考えたこともあります。
いまも地続きに、漠然とした虚しさや寂しさ、なにをしてもうまくいかないという感覚があります。
それはいじめの経験や、それに抵抗しようとして問題を起こしたこと、学校のなかでも弟と比べても成績がよくないこと、一度賞を取ったきり小説が書けなくなったこと、父の躁鬱と過食と脳卒中や、母の介護うつと幼児退行でいつまでも何回も昔のはなしばかりして、「死んだおばあちゃんのところにいきたい」とばかりいっていることも、それで何度伝えても病院に行ってもらえず、わたし自身も病院に行かせてもらえないこと、大学に友だちがいないこと、自殺に失敗したこと、バイトもボランティアもできないことも、その場では辛くても関係ないような気がしてしまいます。
そして、それでも不登校にはならなかったしなれなかったことも、じぶんの作品が褒められたり、賞をとれたり、辛くても大学に通えていて留年もせず、「なんだかんだうまくやれてる」ということもまた、わたしの幸せや「うまくいく」感覚にはなにも関係がないような気がしています。
毎日がぼんやりとして苦しく、何度も同じことを繰り返して失敗しているような感覚で苦しいです。毎日死にたくて動けず、それなのに怒られたくない一心で動けてしまうし、日に日に聴力が落ちて、理解力も思考力も落ちて、家族やゼミのひと、教授にはなにをいっても「なにいってるかわからない」と一蹴され、好きだったこともできず、歩くだけでもフラフラしてしまいます。
それでも家族には「栄養不足のせい、スマホばかりやっているせい」に見え、友人やパートナーには「家庭環境や病気のせい」にみえてしまいます。わたしはどちらとも関係なく、ただずっと「気がつくように」虚しく死にたいのですが、とはいえなにをいってもうまくいかなかったし、誰も殺してくれるわけではないので、まあ気付かれなくてもいいか……と最近は思い始めています。
最近は、そもそも死にたいというのは当たり前のことかもしれないなと思います。
Twitterで「死にたい」と検索すると、1分に2、3件は「死にたい」ツイートが更新されています。もちろん文脈があるし、ぜんぶが同じ死にたいではないけれど、みんな死にたいんだなあ、当たり前なんだなあ、環境や病気や選択が間違っているせいの苦しさなら誰かが助けてくれたりしても、生きることの苦しさは当たり前だからだれも助けてくれないんだなあとぼーっとしてしまいます。
ほんとうに死にたい人は既に自殺している、とは思いませんが、少なくともわたしは自力で死ぬために頑張ることがまだできるし、もう成人を迎えたから親の子どもでいつづける必要もありません。苦しい苦しい家族やみんなのお金や時間を搾取しつづけているのに、他人を不幸にしてまでも、わたしは幸せではありません。
それがずっと虚しくて苦しいです。はやく、はやく死にたいです。ほんとうはなにもしたくありません。パートナーのおなかにかえりたいとよく思います。わたしがわたしのままでわたしでなくなれたら、どれほど幸せだろうと思います。
おかしいはずなのに、あまりにも「当たり前」すぎてだれにもおかしいとはいってもらえず、気が遠くなります。ぼんやりと切り離されて寂しく、虚しいです。
感想1
周囲から見える状況や想定されることとは関係がないもっと根底の虚しさについて想像しながら読ませていただきました。経験談の後半で語られている、いじめを受けたことやご家族にケアが必要な状況は、十分に辛いことだけれどもそれよりもなによりも切り離されて虚しい感じがずっと物心つくかつかない頃から朧げにあり続けるんですね。あなたの赤ちゃんの頃の記憶は母親さんが教えてくれたエピソードとは違ったリアルさを感じましたし、母親さんとの間に感じとっていた離れている感覚はリアルで、あなたが確かに感じ取っていたものなのでしょうね。わたしはあなたの考えていることがおかしいというよりも独特な感覚(もしくはひとが感じ取りにくい感覚や感度)を持っているのかな…と思いました。
そしてその記憶や感覚はあなたが育ってくる過程に少なからず影響してきたのかもしれません。“なにとも関係なく”という表現がすごく印象に残りました。ご家族や周囲のひととの物理的なつながりや周りから評価されるようなできごと、日々の色々…それらあなたを取り巻く事象とは関係のない(それ以前の)寂しさや孤独感のようなものが生きる気力の源泉に強く影響しているようなイメージをしました。気力が枯渇しそうなのだとしたら動けなくなっているのも無理はないですし、一方で周囲のひとたちからはそこまで想像は及ばずにあなたの目に見える行動だけで判断されるとさらに苦しさや孤独感は輪をかけて強くなりそうです。“わたしがわたしのままでわたしでなくなれたら”…何度も頭の中で繰り返してこの言葉の本当の意味を考えてみましたが、私の想像力が足りずうまくイメージできなかったので、あなたがイメージしたことを聞いてみたいなと思いました。まぁ気づかれなくてもいいか…そう思いながらもこの経験談を書いてくれたことで、私はあなたの根底を少しだけ知ることができたし、感想を通じて対話したような気持ちです。いまも日々苦しさを感じながら暮らしているのだと思いますから、良かったらこれからも死にトリに参加して欲しいと思います。投稿ありがとうございました。