経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
セミが鳴いている
毛布の布団を蹴飛ばした
私の形は色と立体でできている、それ以上でもそれ以下でもない
私の精神は何色?どんな面?そう問いかけたって私は何も言わない、形は抓れば変わったりするのに
だから、抽象画は苦手だった
起きてスマホをいじる。SNSで、人の世界を垣間見た気分に酔う。それは私ではないのに、私は共感という行動のフリをして私自身だと勘違いする
国語の授業を思い出した。小学生の時、登場人物の気持ちになれって言われてたっけ。私はそれが得意で、嫌いだったはず。登場人物の気持ちは理解できるけれど、共感、は難しい
私の唯一性はそれだろう。私は理解を共感と日々履き違えることで何とか生きて何とか人間と笑い合っている。だから、私は唯一性を重視できなかった。私はたしかに私だ。でも、形、精神、記憶の全てが同じ誰かが居た時に自分は唯一だ、と言い張れるわけではない
私は唯一になれない。それが怖い訳じゃない。それが不安な訳でもない。ただ、それだけ。自己の唯一性というのは大切、らしい。私にはそれへの共感ができなかった。私たちの個性なんてものは複製され、また複製し尽くされるべきであるのに、どうして唯一無二でありたい、なんて思えるんだろう
だから、それが少し、羨ましい
黒くなった画面に私の顔が映る。嫌いだ。私の顔、ではなく、鏡や画面に映る自分のような何かが。同じ形をして、同じタイミングで動く
あ、これが自己唯一性への渇望、なんだなぁ。
唯一性って大事だよね。そう言えるようになった。私は唯一性に向ける気持ち、を理解した。だから共感できる。本当はそう思ってなくても
死んでいるみたい
言葉が苦手だ。言葉は重い、らしいから。私にとっては、視界内のあなたの瞬き、あなたの口の開き方、あなたの食事風景が映っている方が大切で重いのに。この”あなた”は誰でもない。強いて言えば、私以外の生命へ
私は嘘つき。共感というものに嘘をついてるから。分かる、は本当は分かっていない。理解しているだけ。水槽の中のエイをひとりで眺めているように、それにはたしかに壁がある。その代わりとして絵を描いた。あなたはこう笑う。あなたはこの時、こんなこと言うのかな。あなたがこうだったらいいのに。クレヨンで塗られる知らない女の子に、あなたを乗せた。私の手はあなたの色でいっぱいになって、それが嬉しくって、もう色も乗りやしない緑に染まったドレスにクレヨンを乗せた
言葉は精神で、絵は形。私は形をなぞることで精神を理解し、また共感できたフリをする
だから、抽象画が苦手
だって、言葉で表せれるようなものを、形にしてまで、なにがしたいの?
自分の中身を絵にするのは尊いらしい。私のような空っぽには分からない感覚だ。空っぽではないよ、とよく言われるけれど、私はきっと空っぽに近い。抽象画が苦手じゃなくて、言葉も苦手じゃない、あなたたちより、きっと。これは、嫉妬?
羨ましい。あなたは、形にできるような精神を持っているんだ。誇ればいいのに、それを、形にすることしかできないなんて顔しているのが、憎らしい
あなたの瞳、あなたの微笑み、あなたの楽しそうな声は生きている。私はそれがとても、嬉しい
だから私は死んでいるみたい
空も灰をかき集めれば形や色になる。なんて、そんな幻想は手から零れ落ちてしまった
困った、作りたい/描きたい形がない!
完全に借り物な型に色を乗せる私は、自分の型をお気に入りにできていたり、自分の型と向き合えているあなたより、死んでいるみたいだった。どれだけ完璧にやっても、美しくないんだ。私は唯一ではない。私は唯一にはなれない。複製された私は、ツギハギ。ツギハギでも集まれば唯一だよなんて言葉、精神は、私には甘ったるすぎてどうも食べられなかった。甘い、甘い、そう思いたかった、そう感じたかった、甘さをどこまでも喜びたかったのに。私は、上手く食べきれない。これも唯一?それとも。ただの、なにもない、がある?
ミンミン鳴いてるあの子たち、一週間で死んでいく。みんなに忘れられ死んでいく。殻だけ残して死んでいく。殻も潰され死んでいく
今は夏じゃないのに、私は言葉の意味、の乗せ方をこれしか知らない。私の精神は、物語性を持って、誰かに消費されていくのが一番いい。怖くない、不安じゃない、唯一、じゃない。でも唯一。私はこれを誰にも言えない。その代わり、文字、にした
感想1
私はどちらかというと、どうしようもなく唯一である自分が最初にあって(特別とか優れているとかではなく、どこまでいっても私は私であることから逃れられないという感覚)、しかたなく、どのように引き受けるかというところから出発して生きてきたように思うので、あなたが見てきた他の人たちの「唯一無二でありたい」感覚やそれに対するあなたの視点を興味深く感じながら、でもその感覚が存在するのも頷ける感覚になりながら読みました。あなたの文章を受けて、私なりに思い巡らせたことを書いてみます。
文章から、あなたはさまざまな刺激や情報を受け取ったときに、それがざっくり取捨選択されて受け取られるのではなく、もっと緻密な感じの受け取り方をしているのかなぁと思いました。それは価値をどのように置くか、なにを大切だと感じるかということももちろん関係してくると思いますが、そもそも多くの人はどうやら刺激をかなり自動で取捨選択していて、そのこと自体に気づいていないことが多いようだと最近私は思っています。
私は脳がマイノリティらしいので、マジョリティとされる人たちの観察をずっとしているのですが、そうすると、そもそも見えているものや受け取っているもの、気にしていることが私とはかなり違うことに驚くことがあります。
あなたは自分を「共感というものに嘘をついてる」と書いていて、たしかにその表現や感覚は正しいとも言えるのかなと思うのですが、それはそもそも厳密であることをあなたが大切にする人だからという部分もあるのかなとも思いました。というのも、多くの人が「共感」だと思っているものがどれだけ本当に「共感」なのかは疑わしいと個人的には思っているからです。(真の共感がなんたるかもむずかしいところですが……)
という私は、逆に自分自身は世の中の平均よりも勝手に共感しやすい(もうすこし正確に言えば、共感したという感覚になりやすい)ほうだと思っていて、他の人のエピソードや想像上の悲しみや怒りに、すぐに泣き、すぐに震え、とにかく反応してしまいがちです。でも、それはどんなエピソード、どんな相手にというわけでもなく、自分の感じやすい・感じにくいがあるようだとも思います。私はそれに振り回されてきた感じがあるので、ずっと考えてきたのですが、それは比喩で言えば、私の体がなんらかの振動の感知システムを備えていて、振動として感知してしまったものが勝手に自分に反映されてしまうという感じなのかなと思っています。よくいろんな実験のセンサーとかも別のなにかを受け取っちゃったり誤作動をしていると思うのですが、そんな感じで、本当になにかをそのまま読み取っていることなんてないようにも思います。
私の中では、人間はそれぞれがそれぞれの外部刺激の受容センサーと受容システムを持っていて、それがそれぞれの認識となっているイメージでいます。そのセンサーも受容システムも、一人一人大なり小なり違うと思うのですが、マジョリティタイプとそうでないタイプはたしかにあるのかなと思います。そんなわけで、たしかに世の中には適度な「共感」をうまいことやっていそうな人たちが多いのかなと思いつつ、それって本当に、そんなに「共感」なのか……と疑問も感じています。
「空っぽ」についても、似たような感覚を持ちました。つまり、人間の中身というものへの定義が、世の中ではもっと雑なんじゃないかなということです。そのことを考えていて、あなたは言葉にならない、明確に自分に認識されないものはすぱっと「ない」と感じるのかなとも想像したのですが、どうでしょう。
私自身は個人的に自分をかなり言語優位人間だと思っているのですが、一方では、言葉が表せるものはごく一部だという感覚もあります。言葉にもならず形や絵のような表現にもならない、明確には観測できないけれど、なにかあるかもしれない。そういうことを私自身もなかったことにしてしまいがちなのですが、観測されないこととないことは別であることを、最近噛みしめるようにしていているところで、あなたはどんなふうに感じ、とらえているのか聞いてみたくなりました。
ミンミンゼミだけではなく、私たちの生きているこの体ですら、細胞のレベルで言えばいつも死んでは生まれることをくり返しています。死ねば体は分解されますし、体の一部であった水分はいつかはどこかの川の一部となるかもしれない。じゃあこの「私」という意識はなに?と呆然とする気持ちになることもありますが、意識を「個」だと考える認識をいちど取り外してみれば、消費という資本主義的な概念より以前から、地球上で生命は使い使われながら物質として流転しているのだと思います。そう思うと、そんなに死と生に距離があるようにも思えないのです。
こういうスケールを想像すると、私は途方もない恐ろしさも感じるし、一方では存在しているだけで、すでになにか途方もないうつくしいものの一部であるという、安らぎのような感覚にもなります。
その視野を経てまた個人について考えてみると、それでも意味があるかもわからない、ないかもしれないのに思考してしまうこと、私がじたばたと生きていること、あなたが生きて感じてきたさまざまなこと……、そういう一つ一つが、私にはなぜだかすごく大事で尊いことのように思えてならないのでした。
感想1
私はどちらかというと、どうしようもなく唯一である自分が最初にあって(特別とか優れているとかではなく、どこまでいっても私は私であることから逃れられないという感覚)、しかたなく、どのように引き受けるかというところから出発して生きてきたように思うので、あなたが見てきた他の人たちの「唯一無二でありたい」感覚やそれに対するあなたの視点を興味深く感じながら、でもその感覚が存在するのも頷ける感覚になりながら読みました。あなたの文章を受けて、私なりに思い巡らせたことを書いてみます。
文章から、あなたはさまざまな刺激や情報を受け取ったときに、それがざっくり取捨選択されて受け取られるのではなく、もっと緻密な感じの受け取り方をしているのかなぁと思いました。それは価値をどのように置くか、なにを大切だと感じるかということももちろん関係してくると思いますが、そもそも多くの人はどうやら刺激をかなり自動で取捨選択していて、そのこと自体に気づいていないことが多いようだと最近私は思っています。
私は脳がマイノリティらしいので、マジョリティとされる人たちの観察をずっとしているのですが、そうすると、そもそも見えているものや受け取っているもの、気にしていることが私とはかなり違うことに驚くことがあります。
あなたは自分を「共感というものに嘘をついてる」と書いていて、たしかにその表現や感覚は正しいとも言えるのかなと思うのですが、それはそもそも厳密であることをあなたが大切にする人だからという部分もあるのかなとも思いました。というのも、多くの人が「共感」だと思っているものがどれだけ本当に「共感」なのかは疑わしいと個人的には思っているからです。(真の共感がなんたるかもむずかしいところですが……)
という私は、逆に自分自身は世の中の平均よりも勝手に共感しやすい(もうすこし正確に言えば、共感したという感覚になりやすい)ほうだと思っていて、他の人のエピソードや想像上の悲しみや怒りに、すぐに泣き、すぐに震え、とにかく反応してしまいがちです。でも、それはどんなエピソード、どんな相手にというわけでもなく、自分の感じやすい・感じにくいがあるようだとも思います。私はそれに振り回されてきた感じがあるので、ずっと考えてきたのですが、それは比喩で言えば、私の体がなんらかの振動の感知システムを備えていて、振動として感知してしまったものが勝手に自分に反映されてしまうという感じなのかなと思っています。よくいろんな実験のセンサーとかも別のなにかを受け取っちゃったり誤作動をしていると思うのですが、そんな感じで、本当になにかをそのまま読み取っていることなんてないようにも思います。
私の中では、人間はそれぞれがそれぞれの外部刺激の受容センサーと受容システムを持っていて、それがそれぞれの認識となっているイメージでいます。そのセンサーも受容システムも、一人一人大なり小なり違うと思うのですが、マジョリティタイプとそうでないタイプはたしかにあるのかなと思います。そんなわけで、たしかに世の中には適度な「共感」をうまいことやっていそうな人たちが多いのかなと思いつつ、それって本当に、そんなに「共感」なのか……と疑問も感じています。
「空っぽ」についても、似たような感覚を持ちました。つまり、人間の中身というものへの定義が、世の中ではもっと雑なんじゃないかなということです。そのことを考えていて、あなたは言葉にならない、明確に自分に認識されないものはすぱっと「ない」と感じるのかなとも想像したのですが、どうでしょう。
私自身は個人的に自分をかなり言語優位人間だと思っているのですが、一方では、言葉が表せるものはごく一部だという感覚もあります。言葉にもならず形や絵のような表現にもならない、明確には観測できないけれど、なにかあるかもしれない。そういうことを私自身もなかったことにしてしまいがちなのですが、観測されないこととないことは別であることを、最近噛みしめるようにしていているところで、あなたはどんなふうに感じ、とらえているのか聞いてみたくなりました。
ミンミンゼミだけではなく、私たちの生きているこの体ですら、細胞のレベルで言えばいつも死んでは生まれることをくり返しています。死ねば体は分解されますし、体の一部であった水分はいつかはどこかの川の一部となるかもしれない。じゃあこの「私」という意識はなに?と呆然とする気持ちになることもありますが、意識を「個」だと考える認識をいちど取り外してみれば、消費という資本主義的な概念より以前から、地球上で生命は使い使われながら物質として流転しているのだと思います。そう思うと、そんなに死と生に距離があるようにも思えないのです。
こういうスケールを想像すると、私は途方もない恐ろしさも感じるし、一方では存在しているだけで、すでになにか途方もないうつくしいものの一部であるという、安らぎのような感覚にもなります。
その視野を経てまた個人について考えてみると、それでも意味があるかもわからない、ないかもしれないのに思考してしまうこと、私がじたばたと生きていること、あなたが生きて感じてきたさまざまなこと……、そういう一つ一つが、私にはなぜだかすごく大事で尊いことのように思えてならないのでした。