これは懺悔のようなものになります。
不愉快になられるかもしれませんが、ご容赦ください。
私は今まで恵まれた環境に育ち、何かに不自由したことはなかったと思います。
素晴らしい両親と兄達を持ち、学生時代には部活に打ち込み、勉強においても塾に行かせてくれたのでそれなりに良い学校にも通わせてもらい、修士まで修了させてもらいました。人から見れば順風満帆だと思われるような人生だと思います。
だから将来は大物とは言わないまでも、両親や兄のように優しく愛に溢れ、尊敬され、普通に人を愛し愛される存在になれるのだと学生時代は思っていました。小さくても幸せな家庭を築けるものだと。
それが、環境の変化もありますが、ここ数年で友達もほとんどいなくなり、新しい場所でも仲の良い人が出来ず、どんどん孤独になってきています。
そうして、段々と人の心がわからず、愛することも愛されることもない不気味な化け物になりかけていると今は自覚しています。
それはきっと、私自身が他人に興味がなく、『他人から「自分自身」がどう映っているか』にしか興味がないからなのでしょう。
そんな傲慢で利己的で自己中心的な私を誰が愛するのでしょう。
両親や兄達、友人のように尊敬され、愛されることのない「普通」じゃない私はどうすればよいのでしょう。
そこで私は何かを変えるために、心理学の自己啓発本を読んだり、何かに挑戦したり、とにかく足掻くために、去年「30歳になるまでのあと3年で生きたい理由がみつからなければ、または人々や自分に認められなければ、愛されなければ死ぬ」と決めました。
それだけやってダメならきっともう救いはないのでしょう。
そこから既に1年経過していますが、まるで見つかる気配はありません。「普通」や理想の姿には全くもって近づけていません。
この暗くつらい絶望があと2年も続くと思うと明日にでも死にたいですが、決めた以上は無様にも這いずり回らなければと思います。
普通とはなんなのでしょうか。
友達を作って共通の趣味を楽しんだり、恋人とおでかけしたり、そんな誰にでもできる事が出来ない私はやはり出来損ないなのでしょうか。
なのに、出来ないことを認め、自分に精神疾患があることを把握するのが怖いのです。
それこそが、「普通」じゃなくなる気がしてしまうのです。この感情の根源はきっと心の中のどこかで疾患を持っている人を軽蔑しているからなのでしょう。
そういった意味で私は臆病で卑屈で、自尊心だけが大きい卑怯者なのです。そんな自分を許せませんし看過できません。
一方ではハンデを持っていても、何かに向かって努力したり、泥臭くても生きる目的を見出している全ての人を尊敬しています。私は生きる意味を見いだせていませんから。
「普通」にはなれない。
私は人間としての大事な何かが欠如している。
そのうちに自分の中の何かが壊れて、街中や職場等で人様に迷惑をかける前に死のう、そう思います。
皆、周りの人達は、もっとつらい環境で様々な悩みを抱えながらもそれでも立派に必死に頑張っているのにも関わらず、その一方で私は環境や周りに恵まれたのに何も出来ず、皆とは状況が違うのに、最も「普通」に近いのに、それでも弱音を吐き続ける、これこそ「甘え」なのだろうと思っています。
簡単に言ってしまったら怒られるかもしれませんが、私にはこの世が地獄に思えて堪りません。
このまま死んで地獄に落ちて、親愛なる尊敬すべき家族に会えなくなっても、人様に迷惑をかけ続けてこの世に居続けるよりはずっとマシかなと思います。地獄から皆が幸せに過ごすことを祈ることができればそれで良いのです。
こんなことを相談出来る人もいないし、真にわかってくれる人なんていないと諦めてるから、誰にも言うつもりもありません。
「死にたい」なんて言って、めんどくさい奴だとか、構ってちゃんだとか、そう思われたくないですし、迷惑も掛けたくないですし。
結局、誰にも期待していないし、期待もされたくないのかもしれません。
急に死んだらみんなびっくりするかもしれませんが、そこで初めて私がいない世界で私の気持ちを理解しようとしてくれたらちょっとだけ嬉しい気がします。
(駄文・長文となってしまい申し訳ありません。)
感想1
こんなはずでは無かったと、打ちひしがれているようなあなたを想像しました。家族からの影響もあり、年齢を重ね人生を歩んでいくことへの前向きな捉えがあったのかなと察します。いわゆる自分は理想的な幼少期を過ごしてきたにも関わらず、現在のご自身の状況を厳しく評価する気持ちから「懺悔」という言葉になったのかと理解しました。学校を卒業し就職などで新しい土地に引っ越しなどをされたのでしょうか、どのような環境変化があったのかはわかりませんが、社会人になってから新しい繋がりの場を持ったり人間関係を築くことは結構かなり至難の業と個人的には思っています。自分がここにいてもいなくても、周囲の人たちには何の関係も無いんだと思うと孤独や寂しさが自然と溢れてくるような気がします。
自分の持っている傲慢さや利己的な感情がコントロールできず、誰かを傷つけたのだとしたら、それは自分自身の凶器になるようにも思いますが、あなたは誰も傷つけてはいない。
尊敬され、愛されないことが「普通」じゃないと思う気持ちの出発点は、あなたのどこからやってくるものなのか聞いてみたいような気がしました。「私自身が他人に興味がなく、『他人から「自分自身」がどう映っているか』にしか興味がない」と書かれている一方で、他人に認められたり愛されたりする自分でいなければとそれを渇望しており、相反する気持ちがグルグルとあなたの中に渦巻きどのように収拾しようかと考えあぐね苦しくなっているように感じました。
孤独な状態が続き、誰かに認められたい愛されたいと望む気持ちが高まるにつれ、「誰にでもできることが自分にはできない」と、自分が「できる」「できない」という自己評価軸に戻ってきました。そしてついには自分自身のスティグマに触れ、やっぱり卑怯者で悪いやつだと自分自身に拳を向け、あなたの心は大騒ぎになっているそんな様子を感じます。何かや誰かへの軽蔑の眼差し、正義感や不義への敏感さは自分自身の何に触れるからなのでしょうか。あなたの中にある、「こうでなければならない」とか「こうあるべきだ」が、なんだか気になってくる思いです。
見えない誰かへの配慮をしつつ、自分の置かれている状況は「地獄」のようだと書かれており、少し安心したような気持ちです。自分の苦しさやしんどさは、誰かや何かと比べたり評価ではかられることではないと思っています。自分が苦しい時は、世界の中心で地獄を叫んでもいいじゃないかと、本当に個人的には思っています。自分の苦しさや痛みをそのまま素直に感じることから、自分が嫌じゃないことや心地の良い事、そして好きな時間、苦手なことなどゆっくりと自分を知っていくことも手かもしれません。その延長線上に誰かを知ったり、繋がることがあったりするのかもしれません。地獄とか死にたいとか、本当は誰もが持っている普通の気持ちが隠されているような世の中に居心地が悪いように感じることがあったりします。苦しすぎるほどジタバタとしているあなたに、共感する人たちは多いように感じます。投稿いただき、ありがとうございました。