経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人間失格

自分の人生を振り返ると、まず浮かぶのは「間違いが多かった」という感覚だ。

正しい選択を積み重ねて現在にたどり着いたとは、とても言えない。むしろ、その時々で選択を誤り、失敗し、周囲から否定され、そのたびに自分の何が悪かったのかを考え続けてきた。

物心ついた頃から、自分の人生は自分だけのものではなかった。

小学2年生の夏、生家を離れた。その時点で、小学校受験を経て入った学校から公立校へ転校することになった。

その後も環境は安定せず、進学や就職、人間関係など、人生の節目で何度も判断を迫られた。そして振り返れば、「あのとき別の選択をしていれば」と思うことばかりが残っている。

学生時代の20年、その後の20年。合わせて約40年。

その40年を振り返っても、自分が何かを成し遂げたという実感はほとんどない。

最後に実家を離れてから、およそ7年になる。

その間、手取り収入が月20万円を超えた月は一度もない。

日本で一人暮らしを続けていくことを考えれば、決して余裕のある金額ではない。働いても生活を十分に安定させられない。その事実を、自分は長い間「自分にはそれだけの価値しかない」という意味に受け取ってきた。

前職は派遣事務だった。

最初の3か月、派遣先のオフィスで働いていた頃は、特に大きな問題もなく過ごしていた。

しかし、サテライトオフィスへ移ってから状況が変わった。

最初の1か月ほどは、10畳ほどの広い部屋にデスクとノートパソコンが一つあるだけだった。

その後、人が増えた。

そこからは、自分の行動の一つ一つに文句をつけられるように感じるようになり、昼休みも職場に居続けることが苦しくなった。公園へ行って、そこで寝るしかないような日々を半年ほど過ごした。

その頃、自分は発達障害と診断された。

精神的に持たなくなり、結局1年ほどで退職した。

その後、生活保護で暮らし、障害者手帳を取得し、現在の仕事にたどり着いた。

現在も働いている。

しかし、自分がしていることを考えると、「社会に必要とされている」という実感はほとんどない。

事務的な雑用をこなし、誰かがやりたくないことを引き受ける。

仕事があるだけでもありがたいのかもしれない。

それでも、自分の中には「自分は何を生み出しているのだろう」という疑問が残り続ける。

趣味についても同じだった。

何かを始めても、周囲より上手くできない。

人間関係でも、行動でも、趣味でも、他人ならもっと簡単にできることが、自分にはできないように感じる。

何かをしようとすれば、「そんなことをする必要があるのか」と思う。

失敗すれば、「やはり自分には無理だった」と思う。

うまくいっても、「他人ならもっと上手くやる」と思う。

その結果、何かを始めること自体が怖くなった。

自分が参加したことで、むしろ周囲を悪化させているのではないか。

自分が仕事に関わることで、他の人の負担を増やしているのではないか。

自分が趣味に手を出したことで、その場を後退させているのではないか。

そんなことまで考えるようになった。

これまで、人間関係の中で責任を追及される経験も何度もあった。

自分に非があることなら、もちろん責任を負うべきだと思う。

しかし、自分には非がないと思う出来事まで、自分が悪いかのように扱われることもあった。

反論すれば、「他責だ」と言われる。

謝罪を求められる。

コミュニティから距離を置かれる。

相手側に大きな問題があったように見える出来事でも、自分が悪いという形で話が進み、最後には謝罪のようなものだけが残って終わることもあった。

そうした経験が積み重なると、「自分が悪いと認めなければならない」という感覚が強くなっていった。

少しでも自分を評価すると、「自惚れている」「自分に甘い」と言われる気がする。

自分の事情を説明すると、「言い訳」「他責」と言われる気がする。

誰かに何かを教えようとすれば、「偉そうだ」と思われる気がする。

意見を言えば、「うるさい」と思われる気がする。

そうして、自分について肯定的に考えることそのものを避けるようになった。

自分に甘くならないためには、他人より何倍も自分に厳しくならなければならない。

そうしなければ、また叩かれる。

その感覚がいつの間にか、自分の中のルールになった。

失敗は失敗。

間違いは間違い。

結果が出なければ意味がない。

努力しても結果が出なければ、努力していないのと同じ。

完璧にできなければ、結局はやり直しになる。

そんな考え方を繰り返しているうちに、「自分には何もない」という結論に近づいていった。

そして、その先にはさらに苦しい考えが待っていた。

「これだけ何もできないなら、自分が存在する意味は何なのだろう」

「自分がいない方が、周囲にとって良いのではないか」

「生きていること自体が、誰かの負担なのではないか」

そう考えるようになった。

自分の人生を他人が演じていたら、もっと明るい未来があったのではないか、と考えることもある。

自分ができることなら、他人は呼吸をするように簡単にできる。

自分には、それすらできない。

そんな比較を繰り返していると、自分が人間として最低のスペックしか持っていないように思えてくる。

そして、「人間失格」という言葉が、自分の人生を表す言葉として頭に浮かぶようになった。

ただ、ここまで書いておいても、自分自身でこの結論を完全に確定させることには、どこか違和感がある。

自分が失敗したこと。

収入が低かったこと。

人間関係で何度も躓いたこと。

仕事を辞めたこと。

生活を立て直せなかったこと。

趣味でも思うようにいかなかったこと。

これらは事実として存在する。

しかし、それらを全部足し合わせて、「だから存在そのものが無価値である」と言えるのかは分からない。

自分を少しでも評価すれば「甘え」と言われる。

だからといって、永遠に自分を罰し続けることが正しいとも思えない。

何かをすれば「無駄だった」と感じる。

何もしなければ「何もしていない」と感じる。

自分を大切にすれば「自分に甘い」と感じる。

自分を大切にしなければ、自分自身がどんどん壊れていく。

どちらに進んでも、自分を否定するところへ戻ってくる。

今、自分はその循環の中にいる。

将来の明るいビジョンがあるわけではない。

努力すれば報われるとも思えない。

自分のために何かをすることに、ほとんど利益を感じない。

それでも、今のところ自分から死ぬための行動を起こしているわけではない。

だから今は、「生きたい」と言うこともできないし、「死ぬ」と決めることもしていない。

ただ、判定を保留している。

40年間を振り返れば、間違いだらけだったと思う。

もっと違う選択ができたのではないか。

もっと上手く生きられたのではないか。

もっと普通にできたのではないか。

そう考えれば考えるほど、自分を責める材料はいくらでも出てくる。

けれど、それを何千回繰り返しても、過去は変わらない。

そして、どれだけ自分を罰しても、過去の失敗が消えるわけでもない。

「人間失格」という言葉を自分に貼り付けたところで、40年間の出来事が整理されるわけでもない。

だから今は、結論を出せないまま、この文章を書いている。

自分が何者なのかも、これからどうなるのかも分からない。

ただ少なくとも、自分の人生を「成功だった」と偽ることはできない。

同時に、「すべてが自分のせいだった」と言い切ることも、まだできない。

これは成功談ではない。

再起の物語でもない。

教訓を語れるほど、人生を克服したわけでもない。

ただ、40年間を振り返って、自分にはこう見えている。

間違えて、失敗して、否定されて、また間違えて。

そのたびに自分を責めて、責任を探して、さらに自分を責めて。

気がつけば、自分の存在そのものまで裁こうとしている。

それが今の自分である。

「人間失格」という言葉が正しいのかどうかも、まだ分からない。

ただ、そう思わずにはいられないところまで来てしまった。

今は、その判決を確定させずにいる。

それだけが、現在の自分に残っているものなのかもしれない。

感想1

文章を読んでいて、これまで何度も「自分が悪かったのではないか」と考え、自分自身を責め続けてきたことが強く伝わってきました。
特に印象に残ったのが、「少しでも自分を評価すると『自惚れている』『自分に甘い』と言われる気がする」「自分の事情を説明すると『言い訳』『他責』と言われる気がする」という部分です。少しでも自分を肯定したり、事情を話したりすることさえ怖くなってしまうほど、これまで周囲からの言葉に傷つき、悩んできたのかなと思いました。自分を守るために身につけた厳しさが、いつの間にか自分自身を苦しめるものになってしまったのではないかと感じました。
また、「何かを始めること自体が怖くなった」という言葉も心に残りました。
仕事や趣味、人との関わりの中で、「自分が関わることで誰かの負担になるのではないか」と考えてしまうのは、とても苦しく、つらいことだと思います。その怖さは、単に失敗への不安だけではなく、自分が関わること自体にまで責任を感じてしまうような重さにつながっているのだと感じました。
そして、「これだけ何もできないなら、自分が存在する意味は何なのだろう」「自分がいない方が、周囲にとって良いのではないか」という言葉からは、長い間、自分の価値を結果や周囲からの評価によって判断してきた苦しさが伝わってきました。
その一方で、最後の「『すべてが自分のせいだった』と言い切ることも、まだできない」という言葉が、とても心に残りました。
「人間失格」というタイトルはとても重い言葉ですが、最後まで読むと、それを最終的な判決として決めているわけではないのだと感じました。「今は、その判決を確定させずにいる」という言葉に、40年間の苦しさを抱えながらも、まだ答えを決めきっていない現在の姿が表れているように思いました。
成功談でも再起の物語でもないと書かれていましたが、40年間を振り返り、これまでの経験や今の気持ちをここまで言葉にされたことは、とても大きなことなのではないかと思います。
過去の失敗を無理に肯定する必要もなければ、すべてを自分のせいにしてしまう必要もないのではないかと、私は思います。
長くなりましたが、40年間の経験を言葉にしてくださってありがとうございました。

感想2

ずっと自分の無力感や自責に苦しめられて生きてきた40年間だったのかなと思いました。ずっと「自分が悪い」と責任を自分に押し込め、「自分には何もできない」と結論を出すことを繰り返してきたあなただけれど、不安定な環境の中、心無い言葉を何度も浴びせられながらも生き延びていくには、無力感と自責の檻に自分を閉じ込めておくことが自己防衛だったという面があったのかもしれないと考えたりしました。

「自分の人生は自分ものではなかった」から始まるエピソードの回想から、自分の人生をうまく舵取れない感覚がずっとあった人なのかなと思って読み始めました。さも自分だけの裁量で数々の選択を繰り返してきたかのように書かれてあって、その選択の責任を全て自分に帰しているように感じたけれど、私は人が取りうる選択肢って実は結構限られていて、一見自分の意志で選択しているように見えるものが、実は大分環境や周囲の影響によって左右されているのではないかと思うのです。あなたが過ごしていた不安定な環境の中で取れた選択、自分の特性に適合した環境の選択肢は、とてもじゃないけれど充実しているとは言えなかった気がしました。その中で、当時のあなたが選べた道を懸命につかんで生きていた、私はそんな状況を勝手にイメージしています。

気になったのは、あなたが周囲の人々にとても怯えている様子が多く出てきていることで、その気持ちを抱くようになったのは前職でのオフィスでの居心地の悪さや、自分に非が無いのにも関わらず責任を追及される経験などから来るものだと思うのですが、もしかしたら幼少期から他人から責められて怖い思いをすることが多かったのかなと感じました。自分にはどうしようもできない他者や環境の中に責任を見出すより、全てを自分のせいにして抱え込んでしまった方が面倒くさくないという感覚は私自身の中にもあって、癖になってしまったそれが自分の行動を制限しているように感じます。先ほど、無力感と自責の檻と表現したけれど、先手を打って全て自分のせいにして謝ってしまえば物事は長引かず、自分が守られる反面、本来自分のものではない責任も一緒に抱え込んでしまったり、自分で自分を監視するようになって、動きが不自由になってしまいます。それはやがて無力感と無価値観に繋がってしまう、その仕組みが私には感覚的に理解できるような気がしました。

あなたも疑っているけれど、ままならない人生を送っていること即ち存在の無価値であるとは、私は言えないと思います。さらにいえば、あなたの人生とその選択が誤りだったとも私は思いません。
他人の選択に対して、或いは過去の自分の選択に対して「間違いだった」と断罪するのは簡単なことだと思います。でも、そうしてしまうとき、選択の当事者が迫りくる選択に対して、自分の手持ちカードを確認しつつ、どれを出そうか戸惑いながらも一生懸命に生きているという視点がついつい抜け落ちてしまいがちだと思うのです。そして、その人に与えられた手札が必ずしも豊かであるとも限らないわけで、これはすべてが本人の責任だとは到底いえないのではないかと思う訳です。この選択肢の偏り、手札の数の是正は社会の責任にしてしまって良いと私は考えます。何にせよ自分一人ではどうでも出来ない問題は、社会という大きなものにぶん投げてしまったら楽になったりするし、正当なことだと思います。
自分や人生に対しての判定を保留するという決断は、実は容易なことではないと私は思いました。人間は不確実なものを怖がってすぐに結論を出したがったりするけど、「保留」の選択肢が浮かんでくるのはとても豊かなことだと私は感じました。(ネガティブ・ケイパビリティというらしいです。)
まだ続く人生、結論を出すことは勿体ないし、人生が終わったとしてもその価値を裁定する者は多分存在しないと私は見ています。願わくば、あなたのこの先の人生に、できるだけ多くのほっとする瞬間や楽しい瞬間が訪れますようにという気持ちでこれを書きました。

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