大人になり、去年の末に親が私にやってきたことは身体的精神的虐待だと気づきました。そのことを両親に伝えてこれからはよい関係を結ぼうと試みたところ精神的におかしくなったと両親は考えてある朝突然タクシーに詰め込まれてどこへ行くかも知らされずに精神病院に連れて行かれました。
そこから私は病気ではないと先生もソーシャルワーカーさんも断言したのですが親は認めず、2ヶ月半入院して一人暮らしを始めました。
今まで習い事のバイオリンや美術大学や研究生への進学をすべて決められ自由に服選ぶことや勉強をすること遊ぶこともままなりませんでした。私の気持ちを返してほしいと思います。家族仲は悪く、仲良くなろうと沢山の努力や我慢をしました。親の気持ちを優先して生活してきました。何の仕打ち何だろ、私のやってたことは何だったんだろ、私の気持ちを返してほしい時間を返してほしい希望を夢を返してと強く思います。
精神病院に入院してしまったことで決まっていた就職もなくなり、ましてやバイトとして普通に雇用されることも難しくなり生活保護を受けることも視野に入ってきました。
私の望みは安くても好きな服をきてお腹いっぱい食べて安心して暮らすことなのに私の人生はいちどもそのことが叶いません。
生きていることは何の罰なのかと思います。何をしたら許してもらえるのか、私の望みが叶えられるのか、よくわかりません。一人暮らしで仕事が無いと部屋に籠もってしまうことがほとんどです。誰にも会えない少しの雑談もできないましてや買い物も気が引ける。少しの自由を求めだけでこんなに辛い思いをしなければならないことなのかなと思います。この年で親に完全に養ってもらって自由気ままに生きたいわけではありません。少し無理してでもお金に余裕があって気持ちの落ち着く場所と暮らしがしたいのです。
もっと早く気づけばもっと早く自分のしたいことをやってみてればもっと早くもっと早くと悔やんでばかりです。悔やんでばかりで、何ににもならいことはわかっているのに悔やんで悔やんで親を恨んで周りの人私を仲間外れにした人達を羨ましがっていったい自分は何がほしいのかわかりません。安心できる居場所が欲しかっただけなのにそんなのはこれからの人生で手に入れられそうにありません。なぜ生まれてきてなぜこれから生きていくのかわかりません。何か“答え”が欲しいと思ってしまいます。心のぐらぐらとした悲しみや怒りを何とか落ちつけてくれる“答え”が欲しいです。それは死ぬまで満たされないのかもしれないのになぜ私は生きていなくては行けないのでしょうか。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
虐待に気づくということ
感想2
大人になって行動範囲が広がり、人間関係や文献、ネットから情報収集が可能になり、自分の受けてきた扱いが普通と見做されないということに気づく瞬間があったんだろうかと想像していました。子どものうちは自分の家が全てでそれが標準だと思い込むほかなかった、というか他の家のことは見えてこないから疑いすらしなかったということが往々にしてあると思います。子どもであった当時のあなたは、親の様子を窺いながら、その言うことを聞きながら一生懸命生きてきたということが伝わってきたし、それは確かなことだったと思いました。
最初のうちは、あなたも「気づいたのならこれからは改善しよう」という前向きな気持ちでいたのだろうと思いました。自分に対する扱いが不当なことだと両親に伝えるときも、思い切りが要ったと思うし、しかしその言葉を受け止められるどころかさらに酷い仕打ちをされてしまったのは、あなたの心をさらに追い詰めたと思います。
今まで自分の人生を抑圧してきたものに気づいた瞬間が私にもあるのですが、それに対して「今気づけて良かった」という安堵より、もう過ぎてしまったどうしようもないこと、確かに理不尽な扱いだったが、それが起きて影響されてしまったことは今更変えられないと認識したショックの方が大きかったです。いっそ気づかなければよかった、これが普通だと思い込んでいれば良かったと今でもたまに思ってしまうことがあります。でもそれは傍から見て溺れて息ができない状態なのに、自分ではどうしてこんなに苦しいのか分からないまま水底へ沈んでいくようなものなのかもしれません。濃霧に包まれていた不当な扱いに「気づいた、良かった」で終わることではないし、これから先もこの気づいたものを背負いながら生きていかなければならないのも理不尽だと思います。「どうしてみんなみたいになれなかったの?」というぐるぐるでトゲトゲの気持ちが体内を駆け巡る不快感は、まるで遅効性の毒のように感じます。
今、理不尽に振り回されて、色んな感情が渦巻く混乱の中にいるあなたを感じています。まず、あなたの生活の安心安全が確立してほしい、あなたの望むライフスタイルが実現してほしいと思っています。胸の中で沸き上がったもの、後悔も羨望も、悲しみも怒りも全て、吐き出してほしいとも思います。気づいてしまったからには、もうきっと押し留めることは不可能だし、もう二度と理不尽な我慢を強いられないでほしいと心から思いました。また気持ちを吐き出したくなったら、ぜひいらしてください。
感想1
経験談を読ませてもらって、これまであなたの人生につらいけれど仕方ないと押さえつけていたこと、つらいと思うことすら諦めていたことがたくさんたくさんあったのだと思いました。それが当たり前でも仕方ないことでもなく虐待だった、不当なことだったとき気づくことは、ただひとつの事実ということを超えて、あなたの人生の世界観がひっくり返る事件だったのではないかと想像しました。そのときの、そしてそのあとの両親との関わりでの、あなたの心情を考えるだけでどれだけの戸惑いと苦しさがあっただろうと思うと同時に、やりきれない感覚になっています。
自分の意思で決めることは、人が一人の主体的な存在として生きるベースになる感覚だと思います。だから私は本当なら、家庭や、学校や、さまざまな場所で子どもの小さい時から自分で決める練習を重ねていくことがとても大事だと思っています。でも、むしろ大人が「決めてあげる」ことばかりで、そもそも子どもを意思があるものだと考えていないような姿勢も少なくないように感じています。
「私の気持ちを返してほしい」という言葉はもっともだと思いました。またこれまで意思を抑制されながらも、あなた自身の感覚を持ち続けてきたからこその言葉のようにも思いました。あなたの怒りは真っ当で、怒っていいと(もちろんどんな感情もだれの許可も必要ないのは、前提として)思いました。ただ同時に、強い怒りは焼かれるようや苦しさを伴うものだとも感じているので、あなたにこれ以上の苦しみを感じてほしくないという気持ちにもなっています。積み重ねてきた記憶があるだけに、だれに、なにに怒りを向けていいのかすら、むずかしくなる部分もあるのかなと思っています。
また、私は生活保護などの制度は私たちがもともと持っている当たり前の権利で、必要に応じてどんどん活用することは大切だと思っています。ただ、あなたはもともと仕事をしたい気持ちや、社会とつながりを持ちたいという意思を持っている人なのかなと思ったので、それが入院などの望まないことからむずかしくなってしまったことは、現実的な問題として立ち上がっているのだろうと思いました。苦しみながらも積み上げてきたものが不当に崩されてしまった感覚もあるのかなと感じました。
一方で「安くても好きな服をきてお腹いっぱい食べて安心して暮らす」というふうに、あなたがあなたの意思を言葉にしていることから、あなたの自分の心を知る力、そして表現する力の力強さを感じてもいます。この箇所に限らず文章全体から、意思を押し込められながらもあなた自身を殺さずに生き延びてきたということが感じられ、それは途方もないことだと思いました。
答えがほしいという感覚について、同じではないかもしれませんが、機能不全の家庭で育ち、親に怒りを向けつつ希死念慮とともに生きてきたものとして、私もわかる気がすると思っていました。なぜこんなにも苦しまねばならないのか、なぜこんなに苦しいのか、どうしたらここから逃れられるのか、私の人生はそういう問いとともにあるように思います。知りたい、だれでもいいから教えてほしいと願う中で、それは個人の問題でも家庭の中だけで解決すべき問題として孤立させられてしまうべきものではなく、世の中で同時多発的に起こり続けてきた、社会の仕組みの問題だとなのだと思うようになりました。日本社会には家父長制的な仕組みもトップダウン的な感覚も強く残り、それは家庭にも親から子へと反映されてしまっているように思います。同時に社会には資本主義という自分で自分を食い潰すような仕組みがとても強くなっていて、その中で私たちはお金と自由を切り離して生きることが困難な時代に生きているとも思います。その中で、それでも自由でいたいと思うことは、私たちの権利だし、もっとだれでも当たり前にそういられる世の中になってほしいと私は思っています。
それと同時に、個人の問題、あなた自身の問題であることも奪われてほしくないとも思っています。私は当然あなたと別の人で、別の経験をしてきたと思うのですが、仲間であるとも感じずにはいられませんでした。あなたが経験談としてあなたの切実な思いと経験を言葉にして、伝えてくれてとてもうれしく、そしてありがたく感じています。あなたがあなたの感性や感覚を殺さず、安全を感じて過ごせるような物理的な空間とリラックスできるような過ごし方が見つかって、好きな服とお腹いっぱいのごはんを食べられて、そしてそんな過ごし方がどこまでも増えてゆくことを願っています。私は頼りない一人の人間でしかありませんが、あなたがこれまで生きてきて、そこにいることを受け取りました。よかったら、また、ここにきてもらえたらうれしいです。