もう受けなくなって久しいカウンセリングでよく聞かれたことに、
死にたいと思うのはどんな時か、というものがあり、答えに窮した。
気分が落ち込んだ時ですといえば、
では気分が落ち込むのはなぜか、と返される。
実際はそんな単純なやり取りではないのだろう。こちらの機微を伺いつつ、慎重に探っていただいたのかもしれない。だけど、覚えているのはそれだけ。
なぜいつもその問いを投げかけられるのか。考えて、咀嚼した結果私は、生きることにも理由がいるのでは?と考え、それを探すようになった。
「人生」の中に、「世界」の中に、それらしきものは見当たらなかった。
だから私は死にたいのか。生きてる人たちが持ってると思われる、人生の意味とか理由とかないから。
ところが……生きることに意味や理由などそもそも必要ないらしい!あれ!?おかしいな。
どうやら私はずっと何かを履き違えていたっぽい、ということを、最近ようやく得心しようとしている。
私がやっていたのは、単純化した論理を使って死にたさを正当なものだと言いつけてやりたいだけの、悪質な意趣返しと思考の放棄ではないか。
「あなたたちが言ったとおりにしたのに、良くならないじゃないか!」という、責任の押し付け。
だが、長年(そんな長くもないけど)考えてもはや精神的支柱と成り果てた、「理由探し」、「理由のない死にたさ」、「人生への興味の欠如」は、今更取り除こうとすれば激しい自己否定となって私を傷つける。
それを客観的に見るなら、後悔であったり、自分の非を認めたくない防衛機制であったりするのだろうか。
疲れた。何も考えたくない。すべての責任(大した責任も負っていないくせに)から逃れたい。無知蒙昧にして怠惰かつ幼稚な欲求に抗うことができないし、抗うだけの価値も、興味も、この人生とそれを取り囲む世界には見出だせない。
人生が思い通りにならないことなんて承知しているし、
何も、すべての他者は人生に満足していて希望にあふれはつらつと日々を生きていて羨ましい!などとは思っていない。
それは間違った思い込みで、そんなふうに考えてはいけない!と律しようとしている。
認知のゆがみという概念からできる限り自分を客観視したいと思う。
いや、私は実際ゆがんでいるのだ。思い込みが激しくて、自意識過剰で、自己中心的で、すぐ自己保身に走り、被害者意識ばかりが強く、他者を慮る能力に欠け、怠け者で、自分だけが悲劇に見舞われていると勘違いしていて、環境に甘えていて、迷惑ばかりかけて感謝することをしないのだ。
そんな人間だからいなくなったって構わないじゃないか。
やはり私は死にたくて、死ぬべきなのだ。
というわけで死にたいのです!と誰かに伝えたら一体どうなるのだろう?どうにもならないだろう。少なくとも私(または、自分こそ正義だと信じて疑わない屁理屈こねこね職人)が納得する返答はこないだろう。私は否定されたくないのだ。
否定されようと受け入れて何かしらの糧にするのが理想的か。そんな気力もない。「死にたい」と打ち明けられることはその人にとって少なからずストレスだろうし、他者にストレスを与えてまで自分の考えをわかってもらいたいというのは、私がそれをすることは、ひどい傲慢だと思う。私は何の価値も提供できないのに他者にこれ以上の負担をかけてはいけないと思う。ああ、こういうことを言うと、他者にこの価値観を適用しているという印象を与えかねない。私がひどい言葉を使うとき、それは私にのみ適用されるものでなければならない。これだって醜い自己保身なのだ。気遣いでも何でもなくて私は加害者ではありませんと言いたいだけの。
「私」がなにをしたいのか私にもわからない。
死にたいことを、ただ、死にたいというだけの意味で。私にあるのはそれだけだということを、これを見ているだれかには、覚えててほしかったりする……のかな。
感想1
死にたいと言うと、そのまま受け止められるでなく、どうしたの?なにがあったの?理由は?などとあれこれ聞かれがちな気がします。まあでもたしかに、たとえばしんどいとか疲れたとかをこぼしたときにも、どうしたのと聞かれがちではあるのかもと思うと、寄り添うためにもっと背景を知りたいという気持ちになるのも自然なのかも……とも思ったりしつつ、聞かれても困るんですけどという気持ちにもなりつつ……自分の経験を振り返りながらあなたの文章を読んでいました。
カウンセリングを受けにいったのは、その当時あなたの中にあなたの状態を楽にしたり、自分を理解したりしたい気持ちがあったのかなぁと想像していました。私もカウンセリングを何度か受けたことはありますが、役にたつ考え方や見方を教えてもらえることはあると感じつつ、それで自分の状況がすべて解決するかというとそんなに簡単じゃないとも感じます。そこで何度も理由を聞かれる中で「生きることにも理由がいるのでは?」という発想の転換は興味深く感じました。「生きる理由」とか「生きがい」みたいなものは、世の中に必須ではないけれど、しんどいときの支えにしている人はすくなからずいるのかなぁと思ったりもします。でも、一方で、死にたい理由にしても生きる理由にしても、私たち人間がその時々で口にすることが、本当にその背景にあるすべてであることはほとんどないような気もしています。というか、背景と、どのような思考回路を辿ったかということと、自分の中でフォーカスされていること、案外気づいていないけれど影響を受けている要素……などはそれぞれかなり違うことだけど、一緒くたに扱われてしまうことも多い気がします。
読んでいて、あなたは本当だったら理性的にありたい感覚がある人なのかなと思いました。自分に対して常につっこみを入れ続けるような感覚は私も結構あり、無限ループの様相になることも多いのですが、あなたもそういう果てしない言語の自己批判の中にいて、それに疲れ果てているのかなと想像していました。世の中には「努力しろ」「感情的になるな」「働け」みたいな勝手な命令がものすごく多いから、無自覚のうちに疲れさせられてしまう気がします。
あなたの文章を読んでいると、あなたは「自分こそ正義だと信じて疑わない」という人のようには感じなくて、どちらかというと、自分にとっての納得する感覚を大事にする人なんだなと感じました。他の人の言葉をそのまま自分に当てはめて納得したくない、できないから、人の言葉から着想を得たとしても、自分が納得できる理由や考え方を見つけたいという要素もあるのかなと考えています。それはむずかしく、かつ世の中で軽視されていることだとも思うのですが、個人的には大事なことだとも感じています。(……いろいろ勝手に想像して書いていてすみません。)
私もそこそこ長く「死にたい」と思って生きてきて、周りにも希死念慮と生きてきた人が少なくないので、しんどさや希死念慮について、自分ごととして率直に話し合う経験が世の中でわりと多い方だと思うのですが、当たり前のことながら、「死にたい」の内実も感じるシチュエーションもさまざまだなぁと思います。そしてそもそも希死念慮を率直に、悪いことみたいにじゃなく、普通のこととして話せる場所がすくなすぎることを感じています。
私の場合は、以前は無理をしているのに気づかなかったので「急に死にたくなった」と思うことばっかりだったのですが、最近はもうすこし、自分の調子とかニュアンスの違いに気づくことも増えてきた気がします。その中で、たとえば寝不足、痛み、フラッシュバック、気候変化、「普通こうだよね」みたいな人の発言がぐるぐるしてたなどなどの、自分的につらいシチュエーションと、平均8時間睡眠ができているとちょっと安定する、食事と水分補給、人混みになるべくいかない、インターネットで傷ついたらとりあえずメモ帳に書き出す……などの自分的なケア方法を少しずつたくわえることで、自分の思考の意味不明さがほんのすこしだけ下がってきたようにも思います。だからといって死にたいがなくなるわけでもないし、すべて解明されるでもないのですが、そう感じながら生きている自分がいるってことには、受け入れたというか、ある意味諦めがついた部分もあるのかな……と今あなたの投稿を見ながら考えていました。
あなたが感じてきた死にたいと、私の死にたいもまったく同じではないと思うのですが、どこかしら似ている要素もあるのかもしれない、と思います。そのどちらもただ死にたいのまま、そこにあっていいと思うし、死にたいと思いながら生きてきたあなたがそこにいることを、この経験談から教えてもらったことをありがたく思います。