経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

もし、私と同じ様な人がいて悩んでいたら、私の話が参考になれば良いと思います。

私は自分が変だと思ってる。
私自身は、簡単に言うと4つでできてる。
頭と感情と体と希死念慮。
普通の人はこの辺曖昧らしい。
感情だけで動く人も体が先に考えずに動く人もいるらしい。
でも私は全部バラバラ。
私の体は不器用で、私の感情は人には寄り添えない。
頭は完璧主義者で、希死念慮は左隣で存在してる。
こいつが希死念慮というものと知ったのは最近で、物心ついた時から存在してる単なるノイズと解釈してる。
完璧主義の頭、すなわち脳の存在で生まれたんだと思う。
私の体は完璧主義の脳に対して、とっても不器用なため、忘れ物もするし、水も溢す、普通の人が出来ること基本うまくいかない。大人になってからもそんな感じ。気を張ってないんだね!と他人に言われるがどんなに注意しても溢すのだからそんなことはない。

感情は心と呼ぼうか。私には人に寄り添う感情がない。だから冷たい人と呼ばれる。無表情もよくある。そもそも人がどう思っているか分からない。でも私には知的な脳がある。
この脳は長年の分析でほぼ人間に寄り添える感情パターンを作り出した。私はそのパターンを認識して、表情を動かして人に寄り添っている。

ちなみに本当の感情の方は表の作り出したのと全く違う感情の時がある。
その感情を出すと、8割の人は怒るのでそれはしまっておく。
だからわたしはとってもうまい演技派だと思う。

ちなみに自分の感情もよくわからない。でも脳さんがまたまた完璧主義なロジックを作り上げた。だから私は感じたものをパターンに入れてそこから自分の感情を分析する。
悲しい、楽しい、嬉しい、辛いなど。そうしないと感情が疎かにされて希死念慮が膨らむ。
自分の感情が分からないというストレスは希死念慮を膨らませて私はどうしようもできない人間だと思わせてくる。

希死念慮は小さい時からある。ただこいつは言うだけで何もしない。小学生や中学生の時や高校の時は操られそうになってた。
私の自己評価をすごく下げてくる奴だ。でもこいつは基本手が出せない。
私は頭と感情と体と希死念慮が全部バラバラで存在してるから、一般的に曖昧と言われる箇所が完全に切り離されてるので、希死念慮はただの独り言で終わる。
朝、基本1番に目覚めるのは希死念慮だけど、長年で身につけた技によってそいつは封印される。
朝、私は自分にこう言う。
「おはよ!自分」
これにより他の部位が目覚めて希死念慮はいなくなる。これが毎日の日課。
この魔法の言葉は希死念慮に乗っ取られる前に自己に意識を戻す感じ。
でも、疲れすぎると頭も体も感情も疲れて、封印しきれずに希死念慮が爆発する。
そして、私は何回かここにきている。だからよく疲れすぎて落ち込む。長年そんなのを繰り返している。
希死念慮が膨らんでるのは危ないと思うかもだが、私の頭と体と感情が疲れて何もしたくないーになってるので希死念慮は独り言して私を自己否定して下げまくるノイズになる。

希死念慮が膨らんで頭と体と感情が元気なら動く元気あるのだが、希死念慮は優先順位最下位なのでほぼ危険はない。
一生こいつとの戦いは繰り広げられるのでこの先は分からないのは事実ではある。
でも、こいつも自分のなくてはならない一部だと思う。
私はこの4すくみでどうやら保ってる。

同じ人がいたらとても生きづらいと思う。でも私と同じ希死念慮なら何もしないでずっとあなたを見ているだけだから楽にはならないけど、一生いて辛いだろうけど、それが自分と思えるようにいつかどうにか足掻きながらきっと自分が形成される。

焦らなくていいから自分なりの付き合う方法をみつければ良い。こういう人もいると知ってもらえるといいと思って書いた。

これが誰かの支えになりますように。そして、私と共にこいつと戦っている人に届くといい。

感想1

あなたを作る4つの要素(頭と感情と体と希死念慮)全て一つ一つが自我を持っているようで、またそれをあなた自身が斜め上から俯瞰して見ているような描写はなぜだかとてもリアルで自分自身をどれだけ深く見つめ続けてきたのだろうと、考えながら読んでいました。
一番印象的だったのは、「こいつも自分のなくてはならない一部」という言葉です。希死念慮といえば、一般的には危険な言葉という認識や、簡単に人には言えないもの、そんな社会の雰囲気があるそんななかで、あなたはそれを完全に消すべきものとしてではなく、自分の一部として捉えながら付き合っているように私には感じられました。小中高の頃には、”乗っ取られそうになったりもしていた”と、長い時間をかけてきたことが伝わり、言葉にできるまでにどんな苦悩や時間があったのかと想像してしまいます。
とてもコミカルに書かれていますが、本当の感情はしまい込み、本来表現したい言葉や表情ではなく、“社会で適応できるパターン”を選択して過ごしているという部分から、あなたが人との関わり方もまた長い時間をかけて学んできたことが伝わってきました。世の中では「自然体でいよう」「ありのままでいい」と言われることがありますが、その“自然体”が分からない人もいるし、誰もがありのままを曝け出せるわけでもないと思うのです。私はありのままでなんていられません。だからこそあなたは、自分を観察し、分析し、自分なりの取扱説明書を作りながら生きてきたのではと思いました。もちろん苦しさはあったと思いますし、今もあるのだと思います。それでも、その存在を完全に切り離すのではなく、自分の一部として捉えながら生きていることに、あなたなりの強さを感じました。経験談をありがとうございました。

感想2

私も希死念慮を抱え、自分がいくつかの要素に分かれている感覚をもちながら生きているので、なんとなくわかるように思いながら読みました。自分なりの付き合い方を見つけるという落としどころも私の経験と近しく、勝手ながら同志を見つけた気持ちになっています。

自分の要素を4つに整理していること、他の人はこうらしいという観察・分析結果の積み重ねは、知的な脳を活用した、あなたがあなたなりにこの世界を生きのびる知恵なのだと私は感じました。私も知的な脳の力で他の苦手を補ってきた自覚がありますが、それまでには、「わかっているのに出来ない」「やるべきことがどんどんクリアになっていくのにパフォーマンスと体力が追い付かない」というもどかしさや、「人間の感情がわからない」「わからなくて怖い」という不安、自分を乗っ取るほどに膨らんだ希死念慮と手探りで付き合う日々など、色々な大変さがありました。だからあなたも今の境地にたどり着くまでに、たくさんの労力や苦難があったのではないかと想像しています。
また、そうやって物事を処理していると当然自分の感情は後回しになったり、社会生活では偽り隠されるので、それが続くと希死念慮が膨らんでくる感覚もとてもわかります。

せっかく(あくまで私の感覚ですが)似た部分がある人とこうやって経験談で巡り会ったので、ここからはあなたと比較しながら、私の分かれ方を書かせてもらおうと思います。今はあまり普段は意識しないですが、調子が悪かったときは分裂の感覚が強かったし、様々な個数やパターンで自分を分割していました。
私は簡単にいうと2つでてきていて、それは「私」と「わたし」です。「私」は端的にいえば思考で、社会生活をこなすための優秀なAIです。客観的でロジカルで、それゆえに多少冷徹な部分もあります。「わたし」は端的に言えば感情で、社会生活で表に出ることはなく、主観的で繊細で、現実を理解できず全てを観念で捉えている子どもです。その2つの関係性は今は良好で、保護者と子どもにかなり近いと思います。「私」が「わたし」の良さや感性を理解・尊重しつつも全面的に社会生活を担い、「わたし」は一人の時間や創作の時間で存在しています。
一つ明確に違うのは、私は「体」が独立した存在の感覚はありません。それはたぶん、私の体が比較的器用だからかな…?と、あなたの話を読んで思いました。体が不器用だったら、体も一つの分かれた存在として認識されていた気がします。

要素を分割して捉えるかは別として、人間の中にはさまざまな相反する指向や思いがあるのだろうと私は感じています。そして、生存戦略もきっとそれぞれなのだろうと思います。
でもどんな人も、自分の個性や感情までを蔑ろにしたら、たぶんどこかで限界がきます。今の世の中は無言の圧でも、社会制度としても、個人に多くの犠牲を強いていると私は感じるので、個人の工夫で付き合い方を探すだけでなく、社会そのものを変えていきたいと思っています。

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