経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

責任者

自分は最近強まっている良くない感情がどこから来るものなのか、何故そう思っているのかそれすらも分かっています。ですがそれを辞めて幸せになりたいなどは1ミリも思いませんしこの先自分が簡単に幸せになれる道が出来るとしても行きたくありません。理由としては自分が嫌いだからです、自己嫌悪で苦しんで居るのではなくそうなる理由も自分で理解しています、理由を簡単に言えば身内の関係性です。自分には弟が居て弟が小学生になってから自分よりも覚えも才能も弟の方が秀ていました。自分が小学四年生になってからは弟の方が褒められることも多くなりました、それは傍から見れば普通ぐらいの範疇だったかもしれません、ですがその頃の自分は母親からの承認と母親が自分の世界でした。その日から母親から言われる先に産まれたものとしての在り方についてや弟との違いを指摘される度に弟を妬んでいました。自分がその日から学習を頑張っても弟には負けるので母親はそれを見ることは無く「産まれた時に全部弟に置いてきちゃったもんね」という母親の中のノリの言葉が出来ました。それ以外にも色々言われた気がしますが基本的に家庭内に味方はあまりおらず父親はあまり干渉しなかったです。その時から自分はどう足掻いても弟よりもお前は劣っていて全部弟にいい所も置いてきて今のお前には何も無く指摘される部分は足りないと言われたような気持ちになりました、小学五年生、六年生の頃に小学生の時は2回。中学2年生3年生の時にと何回か命を諦め掛けたのですが何に対しても考えれる事が身についたような自分は諦めた先にある痛みを想像したら怖くなりました、今は自分を引き摺ってるまましたくもない事も世間に合わせて過ごして普通に過ごしながら毎日自分を嫌っています。昔は弟を嫌い母親からの承認を求めましたが今は何もありません、今は自身の判断だけで動いています。なので自分自身を知って理解する事が出来て明るい方向に捉えるのではなく正しさと間違いを自分に置ける様になってから自分は弟に置いてきた訳でもなく初めから何も無かっただけでそれは弟のせいでも無いしここまで育ててくれている親に高望みしすぎているだけの自分が居ました。自分が変われば今までも周りの状態は良くなり、自分の本音を隠せば周りは接し易く、自分が世界で1番自分が嫌いになると人に優しく出来るようになり。弟に責任はないと理解すれば弟を大切にできる、ですが今後また自分自身が嫌いになり変わるしか状態が良くならないのだとすれば自分はそれを乗り越えれる程強くありません、なので次が来るのはあったとしても自分は乗り越えたいとは思えません。次もしもその時が来るなら自分は引き摺っていた過去の物を捨てれるかもしれないので、見てくださっている人には自分の在り方は人として人生に対し無責任ですか?親の在り方を無責任と嫌う自分も親と変わり無く人から見えるのであれば自分はどうすれば正解だったのか分からないです。

感想1

日常的に自分と弟を比較されることの繰り返しで、あなたの中に自己嫌悪が深く植え付けられたような感じを覚えました。この根深い自己嫌悪は「良くない感情」の発生源で、その由来も分かってはいる一方、対処が難しいことも分かっているからこそ、あなたを苦悩させる厄介なものなんだろうなと思いました。
子どもの頃の世界は、せいぜい家庭と学校の、ごく身近な人で完結する狭いものだと思いますが、その中で繰り返し比較されていつも劣位に置かれ、自分そのものを見てもらえなかった経験を、どうにかしてあなた自身で納得しようともがいていたのではないかと想像しています。子どもは、人々とやりとりをするなかで、自分の存在を認めて受け入れてもらうことを繰り返すことで「自分はここにいて良い」という安心感や「自分は大事にされるべき人間だ」という自己肯定感を獲得していくものらしいのですが、あなたがいちばんあなた自身を見てほしかった母親にそれをされなかったことは、あなたの世界に底知れないダメージを与えたのではないかと思います。
私は、母親から承認を求めようとすることを高望みだとは思いませんでしたし、存在を認めてくれないどころか無下に扱ってくる人に嫌いな気持ちが向いたり、いつも引き合いに出される対象を憎らしく思ってしまうことは当然だと感じました。

ただ、変わらない現状に晒され続けて、なおも望みを持ち続けることはとても苦しいことだとも感じます。周囲の変化を待ち続けるより、責任の所在を自分にすることで、周囲に期待をするよりは、現状が変わる確率が高いように感じられることがあるのではないかと思います。
「自分の人生に責任を持て」というような言葉をあちこちで耳にすることがありますが、私はいまいち納得することができません。人間が自分の意思の下に自由に行動したとき、行動そのものや結果に対して、良いことも悪いことも全て引き受けて自分で対処することが、一般に言われている「責任」の意味だと私は受け取っていますが、これは人生に当てはめて良いのだろうかというところから懐疑的です。「自己責任」で全てを片付けるには、人生はあまりにも不自由と理不尽にまみれていて、ままならないものではないかと思うのです。
自分の存在を貶める言葉を日常的に投げかけられる環境は、まさか小さな頃のあなたが自分で望んで選んだものではないし、そこから自力で抜け出そうとするのは困難を極めると思います。それで肥大してしまった自己嫌悪も、そこから出てくる「良くない感情」も、あなたがあなた自身の責任として、一人で対処していくにはあまりにも重すぎるのではないかと私は感じてしまいます。さらに、育ちで傷ついてきた人の多さを考えると、それら全てを自己責任に帰して個人に対処させるのは、あまりに無謀だと思います。
自己嫌悪を取り崩していくのは容易なことではないと分かりつつ、「良くない感情」が起こる瞬間がなくなればいいなと願っています。言葉にして吐き出すことで少し気が紛れるかもしれません。またここを訪れてほしいという気持ちでいます。

感想2

比べられるのって、とくに「できないほう」と決められてしまうのって、すごく苦しいことだと私は感じます。とくにきょうだいがいると、比較は発生しやすくなってしまう気がします。でも本当は「たりない」とか「ない」とか勝手に決められていいことではないと私は思いました。また世の中は学校の成績がいいのがいいことだという価値観が強いと思います。(本当は学びにはいろいろなものがあって、学校の勉強はそのほんの一部なのですが……)だから、親でもそれに影響を受けて、いい悪い・できるできないのことを重要だと思ってしまうことも多そうです。「全部弟に置いてきちゃったもんね」というのは母親さんにとっては冗談だったとしても、ダメージを受けるのももっともな言葉だと感じました。そして、そういう言葉を聞いているうちに、自分自身でも、自分はだめだと刷り込みのように思い込んで、自己嫌悪がふくらむ流れがあったのかなと想像しました。私も親から言われたことを受け取って「自分はだめなんだ」と思い込んでいたのを思い出しています。

親に比べられるような状況を弟のせいだと思いたかったけれど、そうでもないと思うようになり、そうすると誰に、どこに責任があるのかわからなくなってしまった中で、自責の気持ちが強まっているところもあるのかなと思います。責任は100と0のようなことはなくて、とてもたくさんの要素がある気がします。子どもを育てる役割の親には責任はすくなからずあると私は思いましたが、もっと遡ると、社会が色々な価値観や決めつけを人に押し付けていることに問題があるようにも感じました。それから、本当ならあなたが困っていたり、苦しんでいたりするのを、学校や他の大人がサポートできたらよかったのかもしれないと思うと、世の中の大人の問題かもしれないとも思っています。ただなんにしても、あなたが苦しみながら考えてきたことについて、あなたが悪いということではないと思いました。一方で、あなたがあなたの人生の責任を持とうとするのは、あなた自身の人生をあなたなりに生きようという、あなたの主体性の意思のようにも感じました。でもそれが自分を潰してしまうほどの重さなら、投げ捨ててしまえればいいのだと(簡単ではないと思いつつも)私は感じます。
「自分が変われば」の「変わる」というのは、あなたが我慢して周りに合わせるということなのかな……と考えていました。一方では、そうではない形の「変わる」もあるんじゃないかと思いました。人間は日々変化するので、いろいろな可能性や、方向性がある気がします。
ここに書いてあるようなこと、あなたが自分を責めてしまうような気持ちを、だれかに相談できる機会はあるのだろうかと気になっています。あなたが巡らせてきた思考を共有するような投稿ありがとうございました。

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