友人たちには、自分に発達障害があることも、障害者雇用で働いてることも話してない。
みんな私が普通だと思ってるし、私もせめて一見は普通に見えるようにと努力してきた結果だとは思うけど、障害者雇用で、毎日フルタイムで働くことができない私は、周りの同い年くらいの大人たちと比べたら貰える給料も少なくて、その中でやりくりしながら自立している。
以前友人の誕生パーティーで、みんなお店で買った物を友人にプレゼントしている中、私だけ手作りの米粉のパウンドケーキを持ってきた。友人は小麦をあまり摂りたくないと言っていたから、米粉ならと思って。そのときは友人も喜んでくれていたけど、数日後、「お前はいつもほんとにケチだ」と言われた。
友人は笑っていて、愛あるいじりのつもりだったんだと思う。
確かに、みんながワインやシャンパンを持ってきている中、私だけ米粉のパウンドケーキだったから、少し浮いてるなとは思った。
でも、小麦を避けている友人のために自分なりに、自分の出せるお金の範囲で、いつも仲良くしてもらっているし、気持ちを込めて渡したつもりだった。
それを皮切りに、周りの他の友人たちからも「ケチ」とか「タダ飯ぐらい」と言われた。でも、みんな私を嫌っているわけではないのは分かっていた。みんな、ちょっとした冗談で言っているだけで、その後も遊びに誘ってくれたりしていた。私もその場では笑って受け取った。
でも、日に日に「ケチ」という言葉のショックが大きくなり、友人たちに遊びに誘われても行かなくなってしまった。
心配して連絡をくれる友人もいたけど、気持ちが沈んで、楽しく遊べる気にはなれなかった。
私は重度のASDとして生まれて、20歳になるまでまともに人と会話もできない状態から、必死に、一見健常者に見えるところまで頑張ってきました。
でも、頑張って頑張って、マイナス100から0まで登ったとしても、周りの同い年の大人たちはプラス100まで進んでいる。人は私がどれだけ訓練してきたかは知らないから、私は人から見たら、ただの「0」の人間なんだと、痛感してしまったんだと思う。
いつまでたっても周りに追いつけない。どんな努力も訓練も、人の目に見えなければ無いのと同じ。
今までの苦労はなんだったのか、なるべく人に迷惑かけまいと生きてきた、今まではなんだったんだろうか。
人並みになれなければ、どれだけ頑張ろうと意味は無いんだと思い知りました。
それからの私は、酷く冷たい人間になってしまった気がします。今は人に気を遣う気力が出ないのです。
訓練で身につけた口角のあげ方も忘れてしまいました。
普通の人は何も考えず、自然と口角が上がるのかもしれませんが、私は「どういう場合に口角を上げ、笑顔を作るべきか」を20歳過ぎて自力で学んできました。
でも、それらも全て、意味の無いことでした。
だって口角を上げるなんて、普通は当たり前にできることで、努力して身につけることではないから、それが出来るようになったところで、マイナス100が0になるだけなんです。
普通に見えるようになったところで、それは他人から見たらただの「普通」で、そこに努力や苦労を見ることはない。
私がどんなに学習を繰り返し、常に人の顔色を伺い、場の空気を考え、表情を考え作ってきたか、そんなこと、他人にはどうでもいいことなんです。
人と会話もできない、人が何を言ってるかもよく分からない、この世界のことも何もわからない、その状態から、学習と訓練を繰り返し、なんとか自立し、30代後半まで生きてきました。
ただ、周りの同い年の人たちのようには、私は一生なれない。
それは、他人から見たら「なんの努力もしてない人」と同じなんです。
「ケチ」と言われたあの日から、常に虚しく、孤独で、真っ黒な気持ちがずっと続いています。
私は、他人が見たら「ケチ」なんです。
じゃあもういい、もう、頑張るのは疲れた。
それでもまだ、生きるのをやめられないし、自分が出来ることを探してしまう。
ASDの私には、人間のことはさっぱりわかりません。人間の真似事をするために、脳の勉強をしてきました。
人間はどういうときに喜び、どういうときに悲しむのか、感覚ではなく、ロジカルで理解し、人間関係のトラブルもほとんどなく生きれるようになりました。
脳のことを知ったことで、人間はなんとも面白く、憎めない生き物だということも知ってしまいました。
だからどうしても、なかなかこの世を手放す気にはなれないし、人間も捨てたものではないことも知識として知っています。
だからまだ生きている。
本当の本当に絶望するその日まで、生きようと思う。
周りから見たら、ただの鈍臭い人間かもしれないけど。
感想1
常に気苦労と戸惑いを感じながら、なんとかここまでやってきたことが伝わりました。「普通」を頑張って演じるには、いつも周囲の様子をつぶさに窺い、たくさんの知識を収集する必要があったと思います。「当たり前」とされているものを持っている人・「当たり前」にすんなり馴染める人は経験しない過重な負担を、あなたはずっと背負わされてきたのだと思いました。
今、あなたが脱力している状態にあるのは、今までの疲労に加えて、今回のお友達のことで受けたショックによるものであって、あなたそのものが「酷く冷たい人間」に変化してしまったわけではないと感じます。今まで頑張ってやってきたことが報われないように感じたとき、私だってきっととても心が傷ついて、やる気も何もかも無くしてしまうと思います。
あなたはあなたなりに、本当に友人のことを考え、自分に出来る範囲の誠意を尽くした行動をしたということがよく分かりました。私自身いじられて嫌な思いをしたてきたというのもあるとは思うのですが、どんな状況・関係性であれ人をいじって楽しむようなコミュニケーションは、あまりよろしくないかも…と私は感じてしまいます。それに、事情を何も知らなくても、どうしてあなたがそのプレゼントを贈ったのかについて、ほんの少しでも想像力を働かせてほしかったなあという気持ちになってしまいました。
「普通」にならなければ生きていけないような感覚を覚えさせ、そうなれと強いるような雰囲気が世の中になければ、あなたはどれだけ楽だったろうかと考えずにはいられません。もし、あなたがあなたの個性を隠さず、矯正しようとしなくても安心して生きられる社会であって、ご友人があなたの特性や経済状況を知っていたら、あんなことを言っただろうかと考えてしまいます。友人たちも、あなたをこんなに深く傷つけてしまったことはおそらく知らないと思うし、それは本人たちにとっても不本意なことだろうと想像しています。
私も「当たり前」とされている感覚の中でどうしても理解できないことがあって、それを習得するためにたくさんの時間と気力と体力をとかしています。習得といっても、その感覚を自分のものとして獲得したのではなく、その感覚についての一般的(と思われる)な機序をインストールして、演じ方を覚えたというだけです。四六時中「演じている」ので気が休まらないし、疲れたり、たまにボロが出たりするたび、生きる気力がなくなってしまいます。
その人の背景に何があるかは考慮せず、今、表面上見えるものだけで全てを判断されてしまうのは、何というか、本当に冷酷だと思います。「普通」の基準が勝手に引かれていて、それに到達できていない人は「この基準に合わせろ」とばっさり切り捨てるような社会だと私は感じます。しかし、人間の感覚や能力には本来グラデーションがあるため、変わるべきは基準に合わせられない個人ではなく、社会で一律化されている基準の方ではないかと私は疑問に思っています。
そうそう、最後の方の「人間はなんとも面白く、憎めない生き物」という気持ち、とてもよく分かるなと思いました。私も土台にそういう感覚があって、なんか、うっすら人間に好印象を持っています。それだから、自分という個体を含めてこの生き物のことをなかなか見捨てられないし、どれだけ人間関係で嫌な目に遭っても絶望し切れないんだなと改めて思いました。
人間、おもしろいですよね。脳のことも含め、言動そのものが興味深いです。こんなに珍妙な生き物、他にいないと思います。だから、この生き物たちのことをもっと知りたいし、できればこの生き物たちと一緒に楽しく仲良く過ごしたいという願いがあります。人同士がどうしたら仲良くなれるかについては難問ですが、まずは人同士がお互いを知りあうことが重要ではないかと考えています。それにはこの場も有用だと思っていて、今日もこうして他の人の人生を読んでいます。あなたとも、生きづらさや人の面白さについて、もっと語り合いたいなという気持ちです。また気が向いたらアクセスしにきてください。