小中学生のころは大して勉強せずとも全教科で高成績を維持することができた。部活でも指折りの実力者だった。学級委員も合唱コンの指揮者もやった。第一志望の高校にも難なく合格した。自分は才能があって有能な人間だと思っていた。
高校入学後に根拠のない自信は打ち砕かれた。自分と同レベルの者はおろか、自分より上の人間なんてごまんといた。自分がなんて狭い世界にいたのだろうと思い知った。
だからその悔しさをバネに部活にも勉学にも精を出した。部活では誰よりも早く練習に行くのはもちろん自主練も全て参加した。定期テストでは学年で片手に入るほどの成績を維持した。
当時の自分は「生きるに値したい」「人間でありたい」という言葉をよく使っていた。それは「他人より優れるための努力を惜しむ人間は死ぬべきで、人間ではない」という意識の裏返しだった。本気でそう思っていた。
どんなに頑張っても決して満足は訪れない。誰かより秀でることができても、さらにその上が待ち構えている。目に映る他者全てを凌駕すべく進み続けた。ひとえに自分が生きていい保障を維持し続けるためだ。ただひたすら、死にたくなかった。
自分でもまともじゃなかったと思う。強迫観念に伴うストレスは常に蓄積しており、その反動が現れた。
有り体に言えば疑似恋愛である。自分の部活の部員に器用に何でもこなす同性の友人がいて、彼女に対する尊敬と劣等感がやがて狂愛的な思慕になってしまった。
それから生活の全てが彼女を中心に回るようになった。彼女に振り向いてほしい一心で、中学生以来ずっとポニーテールだった髪をばっさり切ってショートカットにし、化粧も始めた。彼女のSNS投稿は全てスクリーンショットし、彼女の好きなアニメや漫画、ゲームも始めた。そして何より彼女に勝ちたくて勉強をして頑張った。高校より塾を優先している彼女は、定期テストの順位は私より遥かに下だったが、大学入試対策における実力は彼女が圧倒的だった。それでもどうにかして勝って、彼女に自分を意識してほしい。その一心で志望校の目星を付けていった。本当に好きだと思いこんでいた。
そんな調子が一年ほど続いた。しかし、急にいろいろなことができなくなっていった。小テストで満点が取れなくなり、部活に一番乗りに行くことができなくなり、化粧ができなくなり、髪をセットできなくなり、宿題ができなくなり、ある日生まれて初めて学校をサボった。そして一週間ほど学校を休んだ。家にいる間も、ただひたすらに涙がボロボロ流れていた。辛抱強く待ってくれた家族には本当に感謝している。
何とか学校に行くようになってからも授業には全く集中できず、部活も休みがちで、家に帰ってからも泣く日々が続いた。ようやく人心地を取り戻したのは修学旅行がきっかけだった。初めての海外は全てが新鮮で、視野が狭くなっていた自分にはいい刺激だった。
そして夢を見つけた。他人がどうこうとか関係なく、自分自身がやりたいと思うことにようやく気がつけた。自分は志望校を変更した。
同じ時期、件の彼女への熱が急速に冷めていった。自分の気持ちは恋愛感情などではなかったのだと直感で理解した。今度は、自分は見下されてきたのではないかという憎悪を感じるようになった。相反する感情で頭がぐちゃぐちゃになり、顔を合わせる度に動悸がするようになった。今は割とマシになったが、自分が彼女を好きなのか嫌いなのかはもうわからない。もうわかりたくもない。
そんなこんなで最悪な精神状態は脱したものの、周期的に不安になったりやる気がなくなったり泣けてきたりすることがある。生活に支障を感じて心療内科に行ったところ、「病気まではいかないがストレスがかかっている状態」と言われ、弱い薬をもらって様子見となった。
強迫観念も消え、夢も見つけ、医療機関を受診して、それでも漠然とした生きづらさは消えない。どうしようもない寂しさと虚しさでいろいろなチャット相談を練り歩いていたとき、このとりぱーくを見つけた。自分の投稿したものにリアクションと返信がつくというただそれだけのことで、こんなにも心が軽くなるのかということがわかった。
どうしたら生きづらくなくなるのか。答えは皆目見当がつかないが、とりあえずはこの場所を拠り所に、もう少し頑張ってみようと思う。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
自分が生きづらいと思うようになるまで
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。どこか、ずっと“生きていていい理由”を自分の中で作り続けてきたのではないかなと想像しながら読ませてもらいました。元々、周囲よりできてしまう経験が重なるとそれは自信に繋がっていくかとは思いますが、同時に、“できる自分でいなければならない”という条件が強まっていくように思いました。その条件が崩れてしまった時、ただ挫折したという感覚ではなく、自分の存在そのものが揺らぐような感覚に変わってしまったのではないかなと感じています。
高校に入り見えていた世界が少し広がった時に、他者の存在を否応なしに意識させられ、そこで悔しさだけでなく、“ここで勝ち続けなければ自分は人間として成立しない”というようなところまで背負ってしまったことに、あなたの苦しさの核があるように私は思いました。努力というものが、ただ失敗や強い不安や焦燥感を回避するためのものになっていったような…その消耗は、外から見える以上に大きかったのではないかなと感じました。
部活の友だちに向けられた感情も、とても複雑に感じ、尊敬と劣等感が混ざり合って、やがて強い執着に変わっていった流れは、極端な話というよりかは、評価軸を他人に置き続けたときに起こりやすいことでもあるのではないかと私は考えます。相手を好きだと思い込むことで、自分の努力や苦しさに意味を与えようとしていた部分もあったのかもしれませんし、同時に「勝ちたい」という衝動と「認められたい」という欲求が重なっていた部分もあるのかな…と。だからこそ、急に何もできなくなった時期のことは、燃え尽きた感覚だけではなくて、長く続けてきた緊張の糸が切れたようなものだったのではないでしょうか。努力が足りないとか、気合いの問題では決してなくて、もうそれ以上、同じやり方では続けられないところまで来ていたのだと私は感じます。
修学旅行をきっかけに視野が開けたことや、他者がどうとか関係なく“自分がやりたいこと”に気づけたことはあなたにとって大きく変わるものだったでしょうし、素直に良かった…という気持ちに私自身もなりました。ただ、それでも、生きづらさが完全には消えないという感覚も、むしろ自然なものだと思います。一度「自分の価値=他者との比較」で組み立ててしまうと、簡単にはほどけないし、環境や考え方を変えても、ふとした瞬間に戻ってきてしまうものでもあると自分自身とも重ねながら思うことです。
答えが見えないまま、それでも少しだけ続けてみようと思えている状態は、決して軽いものではないと思いました。何かを乗り越えたというよりも、別の自分の立ち方を模索している途中にいるような印象を抱いています。この社会はどうしても成果や比較で人を測る仕組みが強いですし、そこに抗って生きることはなかなか至難の業でもあるなと感じているところですが、「もう少し頑張ってみよう」というあなたの思いにそっとエールを送りたい気持ちです。(もちろん無理に頑張らないでほしいなという思いもありながら…)これからも、あなたが拠り所として感じられる場として死にトリがあれたらなとも思います。また必要な時はいつでも声を届けてください。
感想1
あなたのこれまでの学校でのことを読み、能力を発揮することで自分の価値や有用性を証明し続けるような生活だったのだろうと感じました。またそれに当たり前に対応できていた中学までと、あらたな比較競争の中で思うように行かないことも出てきつつさらに頑張って対応してきた高校の日々があったのかなと思います。「生きるに値したい」「人間でありたい」という言葉が、それらの評価に強く紐づくような形のものとし捉えられているのが個人的には印象的でした。私は「人間になりたい」と「人間でありたくない」の両方が自分の中にはずっとある気がしていて、あなたの抱えてきた価値判断の世界と重なるところもあるだろうかと思考を巡らせていました。私にとっては、どちらも人間を峻別する視線に晒されてきた中で、否応なしに抱いた感覚だったのかなと思うのですが、「他人より優れるための努力を惜しむ人間は死ぬべきで、人間ではない」という言葉を抱いてきたなら、強迫的になるのも仕方ないことのように感じました。この言葉はとても暴力的で排除的だし、これが他者に向いても自分に向いても苦しみを増やしてしまうもののように思いました。それを確信するくらい、あなたはきっとこれを言語的・非言語的にたくさん浴びてきたのだろうと思います。椅子取りゲームの世界観は、椅子に残り続けた人すら、本当には幸せにしないような気がするのです。その焦燥感の中、なんとかあなたは生きてきたのだと思いました。そのあとに「本気でそう思っていた。」とあることで、今のあなたがその価値観から少なからず距離を取れていることを感じ、私はほっとする気持ちになりました。
あなたの彼女への思いがどのようなものかわからないけれど、この人に見てほしいという期待、認めてほしいという感情は少なくない人が持つもののように思います。ただどんなに努力しても他者は期待通りに感じ、思考し、行動するとは限らないところが、他の目標の類いとはまた違うむずかしさにつながるように思います。
あなたはこれまでなにに対しても真正面から努力して対応してきたのかなと思います。でも頑張りにも体力にも限界はある中で、あなた自身も気づかないうちにとても疲弊していたのかなと思いました。
「どうしたら生きづらくなくなるのか」は私にはわからないのですが、この社会の中で、生きづらさが蔓延しているのも事実のように感じています。私も生きづらいと感じて生きてきた人の一人なのですが、それもあなたの生きづらさも、個人の問題というよりは、社会が押しつけてきたさまざまなものの問題なのだと私は思います。そう考えると、生きづらくなくなるには、椅子取りゲームで上位者になるということではなく、そのゲーム自体から距離を置いたり、ゲーム自体を解体したりする方向で考えることなのではないかとも思います。あなたは高校に入った時と、海外に行った時、新しい環境で、これまでの世界が狭かったことにハッとしている様子がありました。その二つの感覚は異なるものだったかもしれませんが、私は「なんて狭い世界にいたのだろう」という気づきは人生の中で常にとても大切なもののように感じています。
私たちが知れることは限られているからこそ、気づけば視野が狭くなってしまうのも自然で、だからこそ色々なことを知り、いろいろな環境を知ることは大事である気がします。私は子どもの頃から大人になっても生きづらいですが、すくなくとも、自分個人の問題でないからこそ、この社会にどんなことができるだろうか?という思考でいられるようになり、大変さの質は変わったように感じます。とりぱーくも、色々な人がこの社会の中でなにができるか考えながら、試行錯誤の中でできてきたものだと思っています。あなたがそれを使って、いろいろなことを感じてくれたことをうれしく思います。頑張りすぎる必要はないけれど、でも、あなたが頑張りたいと思う時に頑張れることを願っています。