わたしは医学的になんらかの病名を特定されたこともなければ、家族もしくは周囲の人物に自分のいわゆる『特性』について教わったということもない、本来生きづらさや悩みとは無縁の恵まれた幸せな人間と表現すべき立場なのだと思います。
ですが非常におかしなことに、少なくとも11歳になる頃には、自分の人生が続いていくことへの そこはかとない恐怖心や周囲の一挙一動への不安感、夜中に泣いて目が覚めてしまうので早寝しても意味が無くなるような睡眠の質の悪さ、下しがちな胃腸、怖かった出来事しか自分の人生に無かったかのような閉塞感、体が重いような感覚、記憶力の悪さ、絵本ですら3行目くらいまでしか読めないほどの文字(本)嫌い、集中力の無さ、反応の鈍さ、顔や体のむくみ、汗疹、発汗、日中の突然の号泣、筋道を立てた長期的視点での合理的かつバランス性に富んだ考え方への苦手意識、人に教わることへの恐怖心、自分の醜い容姿への殺意、両親とのコミュニケーションにおける強い違和感、秘境の地にいるような底知れぬ孤独感、恋愛への強い恐怖心と抵抗感…そして希死念慮と呼ばれるもの(こちらに関しては厳密には11歳より前に自覚していました)、といったものが心に常にてんこもり状態でした。
てんこもり状態ときっかけとなったことはわかりませんが、当時小学校の隣の席のクラスメイトにわたしの発言や行動に違和感があると指摘され、その異常性を自覚するに至りました。
ネガティブのテーマパーク、もしくは悲しみばかりがいっぱい並んだバイキング、と言っても過言では無いほどのネガティブな感情が わたしの胸の内にたくさん詰まっていて、それを今もなお持ち越したまま死なずにいます。
これはとんでもないことです。わたしは幸せなはずなのです。
不登校という選択肢を選ぶ自由の中で小中高を卒業し、今も実家にいて、自分の部屋があって、ゴハンを食べることができて、お風呂にも入れて、命の危機に晒すような危険な交友関係も無く、自分が生きている感覚が嫌で部屋から出ずに寝てばかりいることも許されて、面接で毎回トラブルが起きるせいで一度もアルバイトに就いたことも無いのにバチも当たらない、冒頭で述べたように医学的な病名も何一つ無い、五体満足の健康優良児で育ち、なんとなくで毎日を過ごしているのですから。
一度も幸せだと思ったことが無いなんて、本来ならあり得ないんです。あってはならないんです。
ですのでおそらく、わたしは医学も近寄りたがらない、草も生えないほど末恐ろしく頭がおかしいのだと思います。
頭がおかしいので、そんな日々の中のどんなときでも、いつもずっと、死にたい気持ちが心にあったまま消えることが無いのです。これまでの人生を幸せだとは思ったことが無いのです。
頭がおかしい上に腰抜けなので、希死念慮の割に具体的な自殺行為・自傷行為は少なく、意図したセルフネグレクトや、夜更かしやジャンク品をドーピングのように摂取することでじわじわ早死にするよう仕向けることくらいです。あとは社会的に孤立して、もう死ぬしかない と必然的に思わざるを得ない状況を作るためにわざと学校にも行かず (実際トラブルや健康問題があったのでどのみち行けなかった)、学生時代から今もずっと面接に行くだけでバイトにすら就かず、極力家に篭って自分を幽閉することを最大の自傷行為として、長きに渡って続けてきました。
希死念慮は、まるで眠気のように不意に現れて、毎日強弱が変わります。
あるときは寝不足の日のように1日中ずっと。またあるときはすっきり眠れた日のようにサッパリと。眠気を覚ますときと同じように、コーヒー等の嗜好品や夢中になれるものがあれば随分まし。
本当に、いつも眠気へのアプローチと同じように対処しています。
死にたい気持ちの具体的な内訳は、幼い頃から結局あまり変わっていません。
「死にたい」というより「もう死ぬしか方法が無い」「ほんの些細なことでも失敗するのだから今後の人生の責任など負えるわけがない。死んでしまえ」「テトラポッドに落ちたら死体が浮かばないらしい。生きること自体が迷惑行為だったのだから、せめてそういう手段をとって死体処理などの迷惑をかけるな」と、強く訴えかけるような心の声のようなものです(現実的にいえば、その海に落ちて死ぬ方法も要は海洋汚染に繋がるので決して適切ではありません)。
きっと今後、いつどこで何があって生まれたかわからない この希死念慮は、多少ましになることあっても、消えることは無いのでしょう。
昔からずっと、悩みを打ち明けようとしたり泣いてしまうと周囲にうるさがられたので、こういった場所に時々ひっそりと書き残すことにします。行政や市政、相談機関や窓口からも煙たがられ、いつも早く家に帰るよう促されます。
それで心にメリハリをつけて、数分後にはもう死という字もわからなそうな能天気のバカキャラの看板をいつもどおり立てて、そのまま明日も明後日もその先も、死ねないのならそうやって生きていくのかもしれません。
ここに書いておくべき何よりの疑問は、これだけのことがありながら、なんの役にも立たないのに、周りにはわたしの一挙一動…なんなら名前すら一切許されていないというのに、じゃあ消えよう・死のうってフェーズに入ろうとするのはダメというのか…というもの。
存在することは、わたしに関する何もかもは、ありったけの罵詈雑言 嘲笑 否定の言葉や行動を駆使して絶対に認めないのに、死ぬのはダメ…ってムシが良すぎませんか。
わたしが死んで何故いけないのでしょうか?何が悲しいのでしょうか??
本気で意味がわかりません。
小学生の頃から始まってもう20年近く持ち歩いているので、希死念慮自体はわたしの個性の一部になりつつあり、「今日はおやつにアイスを食べようかな」というような感覚ですので、わたし自身の希死念慮について全く悲しくも重たくも感じていません。世の中の方々の抱える希死念慮の場合、お仕事があったり誰かを幸せにしたり楽しませたり誰かの心を救ったりして社会的に居場所があり、誰かに対して毎日何かしら素晴らしいことを行う立場にいらっしゃいますので、非常に悲しいことですが。
学校を不登校になり始めたような時期に親や教育機関から言われた言葉があります。「あなたは生徒会の人でもお仕事がある人でもないのに、何を自意識過剰でいるの?」「あなたがこんなこと (つらいや学校に行けない等) 言って何になるの?」。ぐうの音も出ないほどの正論です。
ですから、わたしの希死念慮は、わたしの自認と周りの認知共々本当にどうでも良いことであり、幼い頃からわたしは、生きていても死んでいても変わらない、実にくだらない、なんの価値も無い人間であるというのは逃れられない事実なのです。
それなのに何故、実際死ぬ方向に行くと途端に止められるのでしょうか?
それなら日頃から、受け入れなくて良いので、理解すらしなくて良いので、せめてわたしの存在を認めてくださいよ。
自分自身に対するある種の殺意がありながらの幸せとは、生きるとは、自分で死ななくても良いとは、なんなのでしょうか?
自虐でも強迫観念でも虚無でもなく、ごく純粋な意味で、本当になぜわたしは生きているのでしょうか?
何かこの文章をもってしてお気付きの点などございましたら、ご意見ご感想のほう何卒よろしくお願いいたします。
感想1
独特な硬さのある文章が印象的でした。まるで自明の理のように全てが語られていく様子は、あなたがこの思考や価値観を繰り返しながら「生死」に対する考えを積み重ねてきたということの表れなのでしょうか。また他者に語っているようで1人で唱えているような口ぶり、細やかな注釈(括弧書き)からは、誰かに考えを否定されたり、指摘されたりしてしまう前に先手を打つことで、「私が私をどう思うかくらいは好きにさせてくれ」と主張しているようにも感じています。
属性や情報だけを並べれば不足や不安のない「恵まれた」状態と呼ぶ人もいるのかもしれませんが、そうした枠組み的で余白のない世界の片隅に追いやられ生き延びてきた「あなた」は、たしかに苦しみ、嘆いてきた人のように思えました。後半にかけては、あなたを取り巻いてきた環境や、他者から投げかけられてきた言葉や態度が少しではありますが具体的に描かれています。そこにはあなたの思いや判断が無意味なもののように扱われてきた様子があり、「人と居ても独り」かのように孤立と無関心に晒されてきた感覚が想像されます。さらに読み進め「せめて存在を認めてくださいよ」という言葉に出会った時、まさに!ととても納得感がありました。あなたが今回経験談というかたちで言葉を尽くしてくれたことの根幹の願いであるようなイメージも浮かびましたし、同時に人間が社会の中で生きる上での本質でもあると私は思いました。なにがあっても無くても、まず第一に「存在を認められる」ということが生きる上でベースとなるように考えているからです。
私自身は様々な人に対して感想を書く中で、よく「応答する」ということについて考えます。誰かの声や感情に耳を傾け、心を通し、頭を広げて、言葉を探す…。「相談」でも「雑談」でも「助言」でもない「経験談」という場所を介した関わり合いは、私にとって「他者の存在に応答し、自分の存在(気配や意思)を知らせること」なのかなあと思ったりします。話が飛躍するかもしれませんが、あなたに対して周囲が「死ぬことだけ止めてくる」のは、「相手があなたのことを見ようとしていない」ことの最たるもののような気がしました。つまり「応答」が起きていない、宙ぶらりんなまま否定のメッセージだけを届けられるような感じというか…。(実際に相手があなたをどう捉えているか、断定することなどできないのですが)そこにある「否定」になんの温度も尊重も感じられないことに、私はなんだか勝手に悔しくなってしまいました。そしてその曖昧で冷たい「対応」が、あなたが生きる理由を感じ取る機会を奪ってきたように推測しました。
推測と想像と、私の価値観を多分に含んだ感想になってしまいましたが、あなたの存在や心情の波にわずかでも応じることのできるものになっていればと思います。