私は自分のことが大嫌いです。
顔も声も話し方も歩き方も性格も全部が嫌です。でも、私が特に気を使っているのは、体型です。
小学校の時私はすごく太っていました(今が痩せているわけではないですが)。身長は周りより低いのに体重は人一倍どころか人二倍くらいあって、顔は常に二重顎で頬の肉で目がすごく細くなっていました。その時からでした。私が周りの目ばかり気にして、写真に映るのが嫌になったのは。実際、小4のとき担任の先生から痩せたほうがいいと言われ、生活習慣病とかなんかで親に病院にも連れて行かれ、多少はショックを受けました。当時はまだ、自分がどれくらい太っているのか自覚できてない部分もありましたが、その出来事をきっかけに本格的に痩せなきゃいけないと思うようになりました。そして拒食の生活が始まりました。食べないことが正義だと考え、見よう見まねで運動をしてみたり、できるだけ食べる量を減らすことばかり考える毎日でした。最初は体重が減っていく感覚が嬉しくて、周りからも痩せた?と言ってもらえると跳び上がるほど喜びました。しかし、それと同時に太ることへの恐怖は増していき、さらに心が窮屈になっていく感じがしました。
中学に入ると、食品ロスのことや周りの目も相まって給食が簡単には残せなくなりました。
そんなある日、すごくお腹が空いていたのか学校帰りにコンビニに寄って菓子パンを買って食べてしまったのです。買い食いをするのは初めてでした。それから、私は毎日買い食いをするようになり、今までの反動なのか過食の生活が始まりました。するともちろん体重はどんどん増え、体も丸くなり生理も再開してしまい、一年で体重が12キロ増えました。スマホでコンビニの新商品を調べ、今度は朝から晩までずっと食べ物のことばかり考えるようになりました。私は電車通学なのですが、乗り換える駅のトイレでやけ食いをして自分コントロールできなくなっていました。
それから一年ほど経った今も、買い食いはやめたくてもやめられず、気づいたらコンビニに入ってしまっています。
最近は、少しでも食べたことを無かったことにしたくて吐こうとしてみたり(何度手を突っ込んでも何も出てきませんでしたが)、食べ物を噛んだだけで飲み込まずに出してしまったり、必死でもがいて自己満のためだけに罪悪感を減らせるよう頑張っています。
でもやっぱり人と比べないなんてことできなくて、私は何一つ取り柄がないからせめて体型だけはと思ってしまいます。
また、学校では友達がいなくて、正直寂しいなと思ってしまいますが、作ろうとしても勇気も出せず話が苦手な自分をますます嫌いになるだけでした。
さらに、家のことだと、私は生まれてすぐに自分の意思とは関係なくある宗教団体に入会させられ、それを信じることを強要させられたり、怒りっぽい父がいたり、、、それでも家に私のプライベートスペースはなく、、、部活でも上手くいかないことがあったり、、、
そういうのが全部重なって何にもいいことがなくて、最近全然やる気が出てきません。一番になりたいと負けず嫌いで頑張ってきた勉強も全てがどうでも良くなり、結局冬休みの宿題も終わらず、今までの信用も全て水の泡です。どうして自分だけこんなに疲れる生き方をしてしまうのか、疑問に思います。
確かにみんな優しくて悪いのは全部自分だってわかってるけど、それでも死にたいとか言って逃げようとしてる自分がいます。恵まれた環境にいて、贅沢なのに、もうどうすればいいかわからない。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。読んでいて、自分の容姿、そして存在が、ずっと他人の視線にさらされてきたような、気にせざるを得なかった環境の中で抱えてきた深い疲弊感が伝わってきました。体型に対する強いこだわりは、ただの美意識というより、小学生の頃に大人から向けられた言葉や評価によって、「見られる自分」「測られる自分」を早くから意識させられてしまった結果のように私は感じました。本来は守られるはずの時期に、痩せるべきだと告げられ、病院に連れて行かれた経験は、善意や健康の指導といった名のもとであっても、心にダメージやしこりを残すものだったのではないかなと想像しています。
食べないことが正義になって、体重が減ることで安心し、同時に太ることへの恐怖が膨らんでいく一連の流れは、あなたの弱さというより、痩せていることを価値と結びつけやすい今の社会の構造を強く反映しているように私には思えました。その後の過食への転換も、意志の問題ではなく、抑え続けてきた身体と心の反動として現れてしまったものである意味、自然な経過だったのではないかなと。食べ物のことが頭から離れなくなり、罪悪感を減らすために必死な部分も“コントロールできない自分”への嫌悪感と、それでもどうにか折り合いをつけようとしている切実な思いがあるように私は感じました。
人と比べずにはいられたらどんなに楽だろうな…と私も特に学生時代は周囲を強く意識していて感じることで、取り柄がないから体型だけは、と思ってしまうところに、何だか自分に対する承認の基準が極端に狭められてきた苦しさが滲んでいるように感じます。勉強で結果を出すこと、痩せていること、きちんと振る舞うこと…そうした“わかりやすい評価”にしがみつかないと、自分の居場所がなくなってしまう感覚というのか、気持ちが分からないではない分、何とも歯がゆい気持ちに勝手ながらなってしまっています。
学校で友達がいない寂しさ、家庭内での宗教の問題、怒りっぽいお父さん、プライベートが守られない環境についても、淡々と書かれているような印象を受けましたが、長い間“当たり前に我慢するもの”として受け止めてきたのではないかなと考えていました。逃げ場の少ない環境が重なり続けると、やる気が失われたり、これまで支えにしてきた勉強さえどうでもよくなるのは、珍しいことではないですし決してあなたが悪いわけではないよと伝えたくなりました。
“恵まれている”、”悪いのは自分だとわかっているのに”と自分を責める言葉が繰り返されているのも印象的で、謙虚さというより、苦しさを訴えること自体を許されてこなかったがゆえの思考のようにも私は思えました。死にたいという気持ちや、消えてしまいたいという考えが浮かぶことも、逃げたい弱さとしてではなく、限界が長く続いた末の反応だと私は思いますし、せめて死にトリはあなたが正直に自分の思いや考え、感情をそのままの形で表現できる場でこれからも在り続けられたらなと思いました。また必要に感じられた時はいつでも訪れてほしいです。