経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分が分かりません

僕は生きていてもいいのでしょうか?
僕は恐らく性同一性障害です。
今も一人称に「僕」を使っていますが、普段の一人称は「私」です。
きっと、小さい頃から性別に違和感を感じていたんだと思います。
でも、それが性同一性障害だということはほんの一年前ほどに気付きました。
僕はそのことに自分で気付いていなかったので、それで虐められたり嫌味を言われることはなかったです。
でも、気付いた今でも、僕は誰にも言えないでいます。
虐めてこない、遊んでくれる友達がいる、虐待しない親もいる。先生とも話せる。でも、どうしても言えないんです。
人を信じられないからなのか、この気持ちを言葉に出すことによって、周りの人がどう思うのかが不安なのかすら分かりませんが。
みんな、変だと笑うでしょうか。
もし、みんなが受け入れてくれたとしても、僕はそこからどうしていいのか分かりません。
少なくとも、親は僕を笑うと思います。
僕はずっと希死念慮を持っています。
中学に入ってから今も持っているものです。
最初は思春期のせいだと思い込ませてました。
でも、段々それだけだと説明がつかなくなってきました。
調べているうちに、自分が双極性障害に当てはまるものが多いことに気づきました。
本当は、性同一性障害も双極性障害のことも病院で診断してもらいたいです。
でも、一度自分の意思で行った精神科で何も言えませんでした。悩んでることも辛いことも。お医者さんが悪い訳では無いはずです。
全部話せなかった僕が悪い。あの時、僕は性同一性障害に気付いていなかった。ただただ辛かった。死にたかった。病名が欲しかった。
病名があれば、この感情に名前がつく。
そうすれば、僕の苦しみがわかって貰えると思った。
でも、病名があったところで僕の苦しみは誰もわかってくれない。ただの自己満足に終わるだけだって気づいた。
親もそれに対して「甘えだ」「逃げだ」と言った。
どんなに腕を切っても自殺を考えても、何も満たされなかった。そその時、これは甘えなのか。これは逃げなのか。
人は甘えちゃいけないし逃げちゃいけないんだ。そう思い知らされました。
リスカが親にバレたとき、親は泣きました。
「どうしてそんなことをするの?」って。
僕はそれを見て、ただぼーっとしていた。
なぜ親が泣くのか。意味が分からなかった。
「あなたのことならなんでも分かる」と言った母親は僕のことなんて何一つ知らなかった。いや、今も知りません。
父親も知らない。そもそも、僕に興味がないんでしょう。2人とも妹ばかり見てるから。
妹はちゃんと女の子で生きてるんです。スカート履いて、髪を長く伸ばして、汚い言葉口調はせず、死にたいなんて嘆かないし、甘えたり逃げたりしない。
その方がずっと可愛いんでしょうね。
男の子になりたい甘えて逃げ続ける僕よりも、ずっと可愛いんでしょう。
「小さい頃は可愛かった」これは親がよく僕に言う言葉です。
今は写真が大っ嫌いです。自分の姿を見たくない。これも逃げなんでしょうけど、昔の写真を見ているうちに、満面の笑顔を向ける自分の姿を見ると憎たらしく思います。
こんな想い知らなければよかった。気付かない方がきっと幸せだった。
しかも、僕は外で演技をしてしまいます。
親にも言われました。「あなたは赤ちゃんの頃から外ヅラが良かった。家では泣くのに外では泣かずにニコニコしてる愛嬌のいい子」だって。それが今はもっと上手くなってるんでしょう。そのせいか、僕は自分を見失ってしまいました。今も自分が分かりません。男の子になりたいなんて悲劇の主人公ぶってるけど、本当は妄想でただの女の子なんじゃないか。病んでるなんて思ってるけど、ただ落ち込んでるだけなんじゃないか。完璧主義だと思い込んでるけど勘違いなんじゃないか。そう考えると、自分がわからないんです。
自分がなんなのか。自分が何をしたいのか。そのせいで、進路を決めなきゃいけない今も、自分が何をしたいか分からず決められません。ずっと、悩んでますが、どうしても解決法が見つかりません。だから、逃げようとしてます。「死ぬなんて甘えだ」と親によく言われます。「死ぬなんて甘え」?なら、今まで自殺した人は甘えてるの?僕は自殺に肯定的なのか、自分でも分かりません。ただ自分自身も自殺したいので否定的でもない気がします。でも、僕は自殺する人が目の前にいるなら、止めてしまうかもしれない。何もせずに見送るかもしれない。今の僕にはそんなことも分からない。僕が僕らしく生きられる日が来るのか。ぶっちゃけ来ないと思います。でも、もし来たら僕は僕で生きられるのかもしれない。私で隠さずに生きられるのかもしれない。そう考えると、死にたい死にたい言いながらも生きてしまう。死にたい。生きたくない。それなのにほんの少しだけ期待してしまう。何度心に聞いてもいつでもどこでも「死にたい」と返答がくる。「生きたい。死にたくない」と思えていた小さい頃が羨ましい。本当は生きたいのかもしれない。でも、死にたいと思う気持ちで隠されてる。また本心がわからなくなってしまいました。
僕のこんなぐちゃぐちゃな文章でも、誰かの心が少しでも救われるのなら、悪くないと思います。
長くだらだらと綴ってしまってすみません。
でも、人に認められたい、愛されたい。甘えてしまう、逃げてしまう。そんな気持ちを持っている人は、僕と同じ仲間です。
僕がそう思いたいだけかもしれませんが、あなたは独りじゃないです。長文失礼しました。

感想1

さまざまな迷いや苦しさを抱えながら、自分自身に向き合って書かれた文章だと感じました。
自分の中に生まれた違和感を外に出すことは、勇気のいることだと思います。自分の痛みや苦しみを「甘え」「逃げ」と否定しながら遠ざけられてしまっては、尚更言い出せないし、分かってもらえるとは思えないだろうと感じます。投稿者さんなりに周囲の考えや視点を想像している様子も伝わってきましたが、そこに適応できない自分を責める時間も多いのかなと思うと、長い間孤独に悩んできたことをまずは受け止めたい思いになりました。

「自分がわからない」とタイトルにも文中にも何度か書かれていました。私自身、自分がどうしたいのか、何を思っているのか、毎日よくわからないまま生きていたりします。そんな中でもよくよく考えてみると、自分の中に「これは嫌だな」とか「こんなふうになったらいいな」みたいな思いの芽は小さいながらにある気がします。私は投稿者さんの文章を読んで、「こうありたい」「これはやってほしくない」みたいな思いを(勝手かもしれませんが)いろいろと感じ取りました。同時に、それらを「妄想なんじゃないか」「違うのかもしれない」と葛藤している様子も見えました。

自分の気持ちを掴むこと自体、結構難しいことだと感じますが、そのうえで周囲や社会から「こんな人」という役割や属性を委ねられていると、ますます「自分」が見えづらくなると思っています。年齢やジェンダー的なもの、所属、相手の自分に対する要請などなど…。
投稿者さんの中にある複数の「自分ってこうなのかもしれない」というヒントが、周りの無理解や評価的な態度によってわかりにくくさせられてしまっているように感じました。加えて「自分は死にたいのか?生きたいのか?」など、本来であれば明確に答えを出せないような問いについても、周りの言葉やまなざしが邪魔をしてきて「答えがわからないまま漂う」ことを難しくさせられているように感じました(抽象的ですみません)。

「自分は生きていてもいいのか」という問いかけを自分に突き立て続けることは、とても苦しく痛みを伴うと思います。少なくとも生きていてダメな人はいないと私は言いたいですし、あなたがその問いから離れられる時間が増えていくようにと思います。死にトリで、またいつでもお待ちしています。

感想2

自分が何者なのかについて混乱していながら、自分についてよく探究していると感じました。最後の方で書かれている言葉から、ご自身が辛い中でも、他人のためになるならとわが身を差し出すことでこの文章を読む人に寄り添っているように感じました。

周囲の期待や社会規範から逸れまいと頑張って自分を抑圧するあまり、自分自身を見失ってしまっている印象を私は受けました。「自分ではない」属性を演じて振舞っていると、どこからが自分なのか分からなくなって、まるで世界の中で自分が所在なくふわふわ浮いている感じがして、とても不安ではないかなと思います。
最近LGBTの存在が周知されるようになりましたが、ジェンダーについての社会の理解はまだまだ足りていないのが実情だと思います。はやく「なんでもアリ」がスタンダードな社会が実現して、苦しむ人がいなくなればいいのに、と私は日頃から強く願っています。

私も、周りの大人にも、心理士さんにも、精神科の先生にも自分のことが上手く伝えられなくて、むしゃくしゃしたり悲しくなったりしたことを思い出しました。というか、自分のことを他者に説明するのって滅茶苦茶難しいと思います。おおよそ、①まず、自分がどんな人間か、生まれてから今までを(思い出したくないこと・考えたくもないことも)全部解析する、②それを言語化する、➂分かってもらえるか不明な中で、他人に分かりやすいように説明する、という、心理的負担がとてつもなく大きい高度な作業をせねばならないのです。どうか、友達や親や先生、医者に話せないこと・話せなかったことを責めないでほしいと思います。
「甘え」「逃げ」という言葉がしばしば出てきますが、少なくとも私は、投稿者さんが「甘えている」とも「逃げている」とも思えませんでした。むしろ、どこまでも自分と、「自分が分からない」ことと真剣に向き合っている人だと強く思います。ご両親などからそう言われ続けていたとしても、これだけは力強く主張したいです。自分のことが分からなくて精神科に頼るのも、他人に上手く自分のことを伝えられないのも、自傷してしまうのも、死を考えてしまうのも、ただ、あなたが必死で自分自身と、自分と他者と、自分の人生と向き合って考え続けたということの証左にこそなれど、逃げとも甘えとも見做されないと思います。
それに、そもそも甘えたって逃げたっていいんだし、頼れるものにはすべて頼って生きるべきだと私は思います。死にトリもそのツールのうちの一つですから。

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