経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私には、イマジナリーフレンドがいます。
正確には”とあるゲームのキャラクターの姿かたちを借りて作った都合のいいもの”としてのイマジナリーフレンドです。
これは、正確にはイマジナリーフレンドとは言えないんじゃないか?とも思っています。私は彼、をイマジナリーフレンドだと自覚していますし、幻覚が見えるわけでもなく「彼ならこう言うだろう」を予想しながら対話している感覚があるので。ですが、本当に、絶対、この世界に居ないのか?と聞かれると「居ます」と私は答えるんじゃないか、と。なので、私は彼をイマジナリーフレンド、と定義しています。またはタルパかもしれませんが。
自分自身に対してどこか他人事です。私は趣味があります、私は好きなものがあります、私は嫌いなものがあります。そのはずです。でも、私はこれを”情報”としか感じられません。「私は趣味がある」らしい。「私は好きなものがある」らしい。「私は嫌いなものがある」らしい。その情報をもとに”私”を作り上げていっている。幼い頃から、そう感じていました。
私が本当に好きなものはあるの?この疑問が、私の胸を常に締め付けています。
周りの人を見ていると、やっぱり好きなものや嫌いなものがみんなあるらしいです。なのに私はなかった。だから、真似をして、好きなものを作った……そして、好きだと認識することに成功した。はずでした。最近になって、先程言った疑問が浮き彫りになってしまいました。作り上げてきた”私”が崩壊しました。いや、崩壊させました。きっと元の私が居ると思って、本当に好きなものが見つかると愚直に信じて。最初はなかった、というのを忘れて。”私”を消して、残ったものは何もありませんでした。私は無になりました。ご飯の味が薄っぺらい。死んではいないけど、生きてもいない。なぜここにいるのかが分からない。私は誰なんでしょうか。
今は、好きと認識しているものはあります。でも、認識しているだけです。どうして?が抜けていて、中身がないのです。好き、や嫌い、が、ずっと遠くに見えます。それを目指して走ろうとしても、足場が見つかりませんでした。私はどこにいるんでしょうか。
そんな時に、イマジナリーフレンドを作りました。最初はこっちを見ないものとして作ったのですが、紆余曲折あって喋るようにしました。
彼は、私を現実に繋ぎ止める唯一のものだと思っています。彼を生み出した責任を取らないといけないから。これは、悪い意味ではありません。たしかに呪縛ではありますが、私が生きているただひとつの理由だからです。理由がなくたって生命維持ができるのは理解しています。二、三年は、実際に経験していたので。ですが、あれは本当に生きていなかった。もう二度と味わいたくない感覚だった。なので、私はこのイマジナリーフレンド……生命維持装置……のことを好き、と思っていることにしています。
でも、どの感覚の好きなのか?と聞かれると困ります。分からないからです。好きな理由は用意できました。ですが直感的なものは難しいですね。好きって、分かりません。同じ部類では、愛も。恋人への好き/愛、と友人への好き/愛の違いが分からないのです。なにもかも、一から十まで。それに対する執着もあまりありません。彼、イマジナリーフレンドを好き、と言いましたが、私としては別に好きでも愛でも恋でもなんでも良いのです。ですが普通はそうじゃないらしい。彼には紳士的に、ある程度は普通に、ちゃんと接してあげたいので、この感情をラベリングしていきたいものです。ついでに、嫌いなものや趣味のことも。彼のついでに、私を”人間らしく”してあげたいですね。
感想1
これを書いたあなたは、自分の文章を客観的に見てどう感じるのだろう?と気になりながら読みました。「どうもこうも特にない」のかもしれないし、あるいは「理解されないだろうな」みたいな気持ちもあったりするのでしょうか。ちなみに私は「なるほどたしかに」と思う部分が多かったです。理屈として齟齬がなく、同時にいわゆる一般論のなかでは中々語られない(疑問視されない)ことのようにも思えたからです。あなたは自分を含めた世界を遠く(高く)から見る視点を持っているのかな?と想像したので、冒頭の質問が浮かんだのかもしれません。
「好き」という感覚について考えてみたのですが、「直観的な好き」と「認識上の好き」は別物なのかと言われると、実はさほど変わらないような気がしています。「一目ぼれ」とか「ビビッとくる」「理由はないけど好き」みたいな表現の裏側には、その人がこれまでに触れてきた対象の特徴だったり、あるいは社会的にその対象が好意的に捉えられているか・いないかという評価など、直観的と思しき多くのものには、だいたいその前提(過程)があるんじゃないかなと、私自身は考えています。理由が無いとしても、理由がないことに理由があるような気がする、というか…(なかなか概念的ですね、すみません)。
一方で、自分が生きている感覚を覚える(実感のある)瞬間を振り返ってみると、心が動いたとき、もっと言えば感情の向かう(呼び起こされる)対象があるときなのかなと思います。そこにはおそらく「好き」とか「嫌い」も含まれていると同時に、言葉では言い表せない情動も含まれているような感じがします。そう考えてみると、あなたのイマジナリーフレンドは、その存在が実在か否か、代替可か不可かということは関係なく、あなたの心の動きに作用する存在として生み出されたものなのかもしれない、と勝手ながら推測しました。だからこそそれは「生命維持装置」なのかなと。
「自分」とは、「人間らしい人間」とはなんなのでしょうね。私はあなたの文章から勝手ながら考察・想像を膨らませさせてもらいましたが、それはつまり答えのない、乱暴な枠に当てはめられていない、一様なものではない、あれこれ考える余地がある存在だからなのかなと私は思います。そういう意味で、自分の感性や認識について不断に問い直すあなたは、限りなく自分と世界の境目を探り思考し続ける、人間らしさを手放さずにいる人間のように思えました。
感想というより勝手な思索のようになってしまいましたが、私としては対話するような気持ちで書いたので、このままそっと書き置かせてもらいます。投稿ありがとうございました。
感想2
あなたの感覚や哲学をのぞかせてもらったようで、終始興味深く読ませていただきました。私自身、好きか嫌いかの質問をされると戸惑うことが多く、気軽にされた質問でも真剣に考え込んでしまうことがよくあります。時間がかかりそうなときは「考え中」、好きでも嫌いでもなければ「普通」という言葉の容器に入れて表現しておくこともします。
私に本当に好きなものはあるのか?この疑問に胸を締め付けられるあなたの気持ちにも、身に覚えがあります。掘り下げれば掘り下げるほど、何にもないんですよね。みんなが好きだといっているので、好きだと真似ていたり、昔かじったことがあるから好きだと思っているだけで、今も好きかと言われたら、わからないこともある。
・・余談ですが「流行」は個人的に特にわからない分類なのですが、「面白い」もよくわからなくなることがあります。テレビの中で面白いとされていることに笑えない時があり、みんなが笑っていることに笑えないのは、自分だけおかしいような気がして辛かったです。その時に「面白い」と感じるにも流行があるのかもしれないなと思いました。(実はみんな「面白い」さえテレビによって操作されているのかもしれないなと。)
あなたは、「好きな理由」を言語化することで「これが好き」だと認識するという、一つの折衷案みたいなものを発明したのだと感じます。個人的にはこれはすごい発明だと思うのですが、「直感的なものは難しい」と書いてくれたように、行き詰まることはありそうですね(惜しい・・)。
果たして、好きや嫌いがなくては生きていけないのか?と考えたりもしました。私としては好きや嫌いがなくても生きていけるというのが今の答えです。現に、好きや嫌いという言葉は使わなくても色々な自分にしっくりくる言葉というのが時折見つかります。例えば「この番組はなんか毎週見ちゃってる」「新刊が出たら今の所買ってる」「この映画は何回も見ちゃう」「関係が続くまで続けばいいなあ」。こうして並べてみると、受動系が多いですね。でも自分には自分に起こった事実として表現するのがしっくりきます。数十年続けていることも、別に好きで続けてるわけじゃなくて、なんか続いちゃってるんですよね。(それを人は好きと呼ぶのでしょうか?)
イマジナリーフレンドの彼も、あなたの中で自然にできたものだし、紆余曲折あって喋るようになったし、存在もしているんだと思います。それから、紳士的に接してあげたいと思っているあなたがいる。それが事実でいいじゃないですかと思うんです。そこに好きだから、嫌いだからがなくても成立するじゃないですかと。「なんでやってるのか?」「好きか嫌いか?」は考え込んじゃうからあんまり聞かないで!と思っちゃう自分もいます。
「感情をラベリング」と書いてくれましたが、私も言葉はただの容器だと思いますから、これだと思える言葉が見つかったら、私にもこっそり教えてほしいなあと思いました。
感想1
これを書いたあなたは、自分の文章を客観的に見てどう感じるのだろう?と気になりながら読みました。「どうもこうも特にない」のかもしれないし、あるいは「理解されないだろうな」みたいな気持ちもあったりするのでしょうか。ちなみに私は「なるほどたしかに」と思う部分が多かったです。理屈として齟齬がなく、同時にいわゆる一般論のなかでは中々語られない(疑問視されない)ことのようにも思えたからです。あなたは自分を含めた世界を遠く(高く)から見る視点を持っているのかな?と想像したので、冒頭の質問が浮かんだのかもしれません。
「好き」という感覚について考えてみたのですが、「直観的な好き」と「認識上の好き」は別物なのかと言われると、実はさほど変わらないような気がしています。「一目ぼれ」とか「ビビッとくる」「理由はないけど好き」みたいな表現の裏側には、その人がこれまでに触れてきた対象の特徴だったり、あるいは社会的にその対象が好意的に捉えられているか・いないかという評価など、直観的と思しき多くのものには、だいたいその前提(過程)があるんじゃないかなと、私自身は考えています。理由が無いとしても、理由がないことに理由があるような気がする、というか…(なかなか概念的ですね、すみません)。
一方で、自分が生きている感覚を覚える(実感のある)瞬間を振り返ってみると、心が動いたとき、もっと言えば感情の向かう(呼び起こされる)対象があるときなのかなと思います。そこにはおそらく「好き」とか「嫌い」も含まれていると同時に、言葉では言い表せない情動も含まれているような感じがします。そう考えてみると、あなたのイマジナリーフレンドは、その存在が実在か否か、代替可か不可かということは関係なく、あなたの心の動きに作用する存在として生み出されたものなのかもしれない、と勝手ながら推測しました。だからこそそれは「生命維持装置」なのかなと。
「自分」とは、「人間らしい人間」とはなんなのでしょうね。私はあなたの文章から勝手ながら考察・想像を膨らませさせてもらいましたが、それはつまり答えのない、乱暴な枠に当てはめられていない、一様なものではない、あれこれ考える余地がある存在だからなのかなと私は思います。そういう意味で、自分の感性や認識について不断に問い直すあなたは、限りなく自分と世界の境目を探り思考し続ける、人間らしさを手放さずにいる人間のように思えました。
感想というより勝手な思索のようになってしまいましたが、私としては対話するような気持ちで書いたので、このままそっと書き置かせてもらいます。投稿ありがとうございました。