経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

わがままで人見知りな方の私

小さい頃から人見知りで、今思えば私が死にたいと思うようになるのは当たり前の性格をしていたんだと、最近気付かされました。
小学校1年生の頃、習い事で陸上をしていました。途中で幼馴染の女の子も入ってきて、一緒に練習したり、休憩の合間に話すことが楽しかったです。でも段々と彼女は他に友達を作り、その子たちといることが多くなりました。私は人見知りで新しく一から関係を作ることがすごく負担で、彼女と話せるのが1番気楽だからそうしたいと思っていました。でも、彼女はいつも友達と楽しそうに喋っている。気弱な私は間に入って仲良くなる能力はありませんし、幼稚園から少人数で気付けば全員が友達になっているような環境にいた私には、友達の作り方も分かりませんでした。「友達がいない」その事実がだんだん苦痛になってきて、私は適当な理由で陸上を辞めました(運動が面倒だったのもありましたが)。
そのまま少人数の小学校で6年間過ごしたあと、一学年が25倍のもの人数のいる中学校へ進学しました。そこで初めて、私は友達の作り方が分からないことを自覚しました。友達を作るという感覚が、全くもってわからなかった。最初の話しかけさえクリアすればどうにかできるけど、その最初が上手くできない。分からない。親に「友達ってどうやって作るの?」と聞いてみたものの、「そんなの話しかければいいじゃん」と、私の悩みは全く解決されない返答が返ってきて、私は不安に焦ったのを覚えています。同じ部活の友達のような人はいたけど、友達の境界線が分かりませんでした。だから、休み時間は同じ小学校出身の友達と喋って、新しく友達を作ることを放棄しました。学ぶ機会を自ら捨てました。そして、コロナ禍だったことのストレスや、部活での解消されない悩み、小学生の頃にはいなかった、授業中に騒ぐ生徒。家に帰っても休める時間が短い生活に耐えられなくなり、私はある日突然学校に行けなくなりました。小学生の頃、「ストレスなんて感じたことない」と宣っていたのは、なんだったんでしょうか。ストレスという概念を知らないだけ、と言うのが正解だったみたいです。「人と話す時愛想笑いするのが疲れるから話したくない」と小学生の頃思っていた時点で、ストレスは確実に抱えていたと思います。
学校に行けなくなってから、ストレスと言う概念を嫌ほど知りました。朝を迎えてしまうのが嫌だから、夜更かししてしまう。何かしらの予定があっても、精神的余裕がなく起きれない。中二の頃には祖父の死も重なって、ご飯は少量しか食べられなくなり、過呼吸も頻繁に起こすようになりました。乗り物に乗ると緊張して気持ち悪くなるし、近所のコンビニに行くのも道中吐いてしまわないか不安で張り詰めていました。この頃は現実での友達とはほとんど関わっておらず、年に1回ほど食事を一緒にする程度でした。逆にSNSでの活動は活発で、Twitterでは色んな人と相互フォローで関係を持っていました。しかし結局、SNSでのやり取りすら億劫になり、しんどくなるほどの精神状態になって、ろくに人と仲良くなれず逃げるようにアカウントを消しました。相変わらずコミュニケーションの取り方がよく分からないんです。中学を卒業してからは心機一転アカウントを作り直しましたが、相互フォローの相手とはいいねを送り合うだけの関係。私は誰かと話がしたくてTwitterを始めたはずなのに、どうしてこうなっているんだろう。そう思ってしまうことが多かったです。
中学は不登校のまま卒業しましたが、高校は通信制高校に入学しました。高校二年生の頃、今までに出会ったことのない、似た境遇の子に出会いました。私より年下の、学校に行けていない子。日中暇な人間同士、よく話すようになりました。時には何時間も通話をしたり、夜更かししたり。彼女と別の子と私の間で少しトラブルもありましたが、今でもとても仲がいいと私は思っています。でも、彼女と仲良くしている時、私はふと死にたくなるのです。
彼女にはたくさん友達がいます。彼女は可愛がられ上手です。彼女は私へ間接的に「〇〇ちゃん(私のこと)が他の人と話してると不安になる」と伝えて私を知らないうちに依存させたくせに、彼女は私以外の友達とたくさん話している。私の方が先に話していた友達と、今は私より仲良くなってたくさん遊びに行っている。彼女のことは大好きなのに、良くないことばかり考えてしまいます。
どうして私はうまくコミュニケーションが取れないんでしょうか。やっぱり受け身なのがいけないんだろうなとは思っています。彼女から話しかけてくれるのを待っている。そのくせ返答は面白みもない淡白なもの。そりゃあ楽しくて愛嬌のいい人と話したくなるよな。そんな事ばかり考えて、毎日死にたくなります。私にとって「死にたい」と「おはよう」は同じこと。息をするようなものですが、それでもその「おはよう」が重くのしかかる日もあります。今日は彼女と、先程あげた先に話していたお友達。3人で通話をしました。彼女が「(全く別の人)を○○に誘ったんだった」と口にした瞬間、死にたくなりました。別に友達は彼女1人しかいない訳じゃないのに、私には彼女しかいないと錯覚してしまうんです。私にはあなたしかいないのに、どうしてあなたは他の人ばかり構うのですか、と。たぶんどうしても羨ましいんだと思います。私も友達がもっと欲しいし、話せる相手がもっと欲しい。でも、そんなに受け入れられるほどのキャパシティもないし、コミュニケーション能力もない。だから、彼女が羨ましい。でも精神的に余裕がないから、その感情がおかしな方に向いてしまう。彼女が鍵垢で話している見えない相手は誰だろう。彼女がかわいいと言っている、仲のいい相手は誰。なんで私じゃないの。どうしてこんなことを思ってしまうのかわかりません。もうこんな思いなんてしたくないです。苦しいです。ずっとずっと、ひとりな気がしてしまいます。苦しくてもうこれ以上書けません。ごめんなさい。もっとしんどい人は世の中にいるのに、こんなことで死にたくなるのが恥ずかしいです。

感想1

自分の対人関係の作り方や身近な人に対して抱く思いについて、たくさん悩み、考えてきた様子が伝わってきました。あまり深く考えずに人と関わることのできる人も世の中にはいますが、あなたは「自分はどんな人なのか」「相手はどんなことを思っているのか」など自分と相手の関係性を注意深く観察して境界線を意識してきた人なのだろうと感じました。人が人と関わり合って生きている生き物である以上、人との関わり方を通して自分のことを否定して苦しくなったり、孤独を感じたり、死にたいくらいの思いになることは恥ずかしいことではないと私は思います。

自然に人間関係が出来上がっていく環境から、自分から動くことが前提の環境に突然適応するのはすごく難しかっただろうと思います。「話しかけるってなにを?」「相手がどんな人で、何を思っているのかわからないのに?」と私だったら考え込んでしまいます。小学生の頃に「愛想笑い疲れるなあ」と感じていたあなたは、おそらく早い段階で相手の表情や場の空気を感じ取って「合わせる」「様子をうかがう」ということを身に着けていたのではないかな?と想像しました。もしそうであれば、自分のタイミングで「とりあえず」関わってみることや、「なんとなく」合わせることはじわじわとストレスが溜まりそうですし、SNSなどの文字でのやりとりが億劫になるのも「相手」を最大限想像して関わろうとするからこそなのかなと感じました。そう考えてみると、日頃多くの人は(場合によっては私自身も含めて)大まかな想像の中でなんとなく同じものを見ている風でコミュニケーションを取っているのかもしれないなあとも思います。

同時に、人と関わる中で「自分がどんな人なのか」をよくよく考えてセーブしようとしている様子も感じ取れました。相手が自分に向ける態度や言葉を察知することで、自分と相手の関係を保とうとする工夫でもあるのでしょうか。誰とでも広く浅く関わるのではなく、自分にとってしっくりくる、感性が伝わる相手との関係を築こうとすると、どうしても限定的で少数精鋭になると思うので、そのなかで1人1人に向ける思いが強くなることはある意味自然なのかなと感じました。一方で、もしかすると「人」に限定せず、あなたの思いが出力できる先を分散させて増やすと、すこし気が楽になったりするのだろうかと、そんなことも考えました。ちなみに私の場合は、人以外に、ぬいぐるみ、日記、読書などに気持ちのやり場を分散していると感じています。安心感の得方やアウトプット方法、誰かの言葉によって思いを代弁してもらう、という感じで、自分の「外」にぶつけたくなる思いを発散している節があるかもしれません。

人との関わりを悩ましく思うことと、そこに対して誠実に向き合おうとする姿勢は紙一重のもののような気がしています。あなたのなかで思いがこんがらがって溢れてしまいそうなときには、よければまた訪れてみてください。

感想2

自分の中にあるいろいろな思いを知らないうちに、しまい込んできた様子が目に浮かびました。あなたの心の部屋の奥にある押し入れに、うまく表現できない気持ちやつらさや、苦しさを出すこともためらわれ、捨てることもできず、ひとりではどう処理したらいいかわからないけれど、誰にどうやって相談したらいいかも分からない…そんなものがたくさんしまわれていて、途方に暮れているようなイメージです。今の社会はとかく、コミュニケーション力が問われてしまう場面が多いように思います。コミュニケーションは誰かの話を聞くことと自分の話をすることのやり取りで成り立ちますが、どちらかというと自分から話しかけるとか、話をする方が重要視されてしまう傾向があるかもしれません。しかし、私はどちらかというといい聞き手がいてコミュニケーションが成り立つと思うところがあります。あなたは周囲をよく観察しているように思えたので、いい聞き手になっているような姿が想像されました。ただ、いい聞き手は結果として、自分の気持ちを伝える機会は少なくなってしまいます。伝える機会がないと、自問自答が多くなり、知らないうちにモヤモヤをため込んでしまい、さらに自分の中でぐるぐるしてしまい、そのぐるぐる感があなたの経験談から伝わってきたように思っています。
また、幼い頃からの経験を読むと、気づいたころから人見知りであり、大勢の人が苦手だったり、他の多くの人たちがあまり気にならないことに気づくことがあったりと、集団で過ごすにはもともと苦手なことや、つらいことが多いタイプなのかなと思います。そのことが冒頭にある「今思えば私が死にたいと思うようになるのは当たり前の性格」とも重なるのかもしれません。ただ、それはあなた個人の問題とは言い切れないと私は感じます。いろいろな人がいる中で、大勢が平気な人がいることも、それが苦手な人がいることも本来はどちらも自然で、どちらもいるよね、と受け止められる社会であってほしいところが実際はそうではなく、大勢が得意な人、積極的にコミュニケーションをとれる人が過ごしやすく、集団があまり得意ではなく、受け身になってしまう人が死にたくなってしまい、それを後ろめたく感じてしまうという現実があることも確かに思います。そうした社会の在り方が私たちの苦しさに随分と影響を与えていると思うのです。もちろん、この二つは表裏一体のことなので、どっちが正解ということではないのですが、あなたの苦しみについて見方を変えると社会の姿も見えてくることを忘れてはいけないと私は感じました。
友人との関係でいろいろな葛藤があることも痛いほど伝わってきました。たくさんの感情が入り混じり、自分のことを考えれば考えるほど苦しくなる気持ちがあるかもしれませんが、私はあなたの葛藤をとても率直だと感じましたし、自分の気持ちに丁寧に誠実に向き合っている姿が伝わってきて、心強い気持ちになりました。悩まずに楽に生きれる方がいいかもしれませんが、私は生きることと苦しいことはどうしたって地続きで切り離せるものではないと思ってしまいます。だからこそ、苦しくて死にたくなるのだろうと思いますが、その誠実な気持ちをひとりで抱えず、こうして分かち合えることには意味があると思っています。タイトルに「わがまま」とありましたが、率直な気持ちの吐露がわがままだとするのなら、必要で大事なわがままをこうして届けてくれたことを歓迎する気持ちです。
また、必要な時には遠慮なく、気持ちを届けに来てください。

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