経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

あまりにも長いこと死につづけ、

死への道を失ってしまった。
とある短篇小説の一節です。
わたしはこの文を読んだ時になんとなく納得しました。
小学校から長いこと家庭環境が乱れていて、母も父も兄弟も信頼できずに生きてきて、ついにはうつ病になり大学を中退しました。
それからはなにも気力がなく、うつと向き合い続けてもうすぐ8年。頼れる人もいないのに自分で生活を維持する能力もないから、家から離れられずにいます。
一人暮らしをしたことはあります。とてつもない解放感で、その時は人生がうまくいっているような気がしました。けれど、身に合わない業務量に押しつぶされ限界を迎えて一年ほどで退職。地元に戻り家族と暮らしていますが、何をしても家族に疎まれている気がして毎日頭がおかしくなりそうです。
生活を変えたいのに、頭が、体がうまく働かない苦しさに振り回されています。
死に辿り着くまではどこまでも過程だと感じてしまってから、人生の充実感なようなものが欠落し、前向きな経験を積んでもどうせ死ぬのに何をやっているのだろうと思います。
生きているうちはどんな区切りも迎えられず、これ以上の苦しみも崩壊もまだ確定せず、意味も与えられないと感じます。
早く終わりを迎えたいのに、思考がままならずずっと死んだような気がします。
これからあるはずの余白もずっと死んだままで、生きてきたことに意味もなにもないんだろうなあ。明日も死に続けます。
駄文失礼しました。

感想1

生きることと死ぬことの意味を考えさせられました。しばしば生きる意味が問われることがありますが、私自身は意味は後付けでそれぞれの都合で作られるものであり、そもそも生きることにも、死ぬことにも何の意味はないと思ってしまいます。人間が生命体のはしくれである限り、生命体として生まれて、生命体としての活動は終了し、死を迎えます。
ただ、人間は脳を持ち、意識を持ち、思考や価値や意味を自覚したり表明したりする機能を備えてしまったので、生きるとは何なのか、死とは何かと問い続けます。生命体としての機能があるかないかで生死が決まるのではなく、他の基準で生きることも死ぬこともできるのだろうと思います。あなたが「死に続けている」と断言するのは手掛かりとして「思考がままならず」があると私は読み取りました。確かに思考がある種の生きる証になるというのは納得できるところもあります。ただ、こうしてあなたが感じたことや考えたことを綴り、送ってくれたことを受け止めた私は、私なりの解釈においてかなりクリアに生きている存在に感じました。むしろ、深く考えず、感じることも忘れて、大きな流れに何となく乗って過ごす方が死に続けているようにも思えます。
あなたが1人暮らしで感じたとてつもない解放感も、今のうまく動かない苦しさもありありと伝わってくるのは、あなたがその都度自分らしく生きようとしてきた思いや何かしらの意味を見出したいという願いが込められていると私は受け取りました。あなたが死に続ける先に何があるのか、もう少し知りたい私がいます。

感想2

「死につづけ、」その表現に引き寄せられて感想を書いています。生きている心地がないことを表わす既存の表現はいくつかありますが、そのどれとも絶妙に異なる響きを持っているように思います。「生命としての死」という明確な区切りを重視して世の中の多くは語られますが、そこに至るまでに命ある日々の連続が存在し、その道のりは死以上に長く、(「時間は進むもの」という点において)暗闇を繰り返すようなものであるということを改めて感じました。そして繰り返していくことで(そこにまだ道が存在していても)それを道だと思えなくなるような気もしていて、それが「道を失う」ということなのだろうかと考えたりもしました。冒頭の一説を読んだ時の感覚は、「死」すら目標点にならないのだなという、そんな納得感でもあったのでしょうか。

少し自分の話をします。正気になったらとてもやっていられないな、と私は人生について思うことがあります。人はいつか死ぬ、それまで生きている、生きている以上は何かしらが発生し消耗する、充実することがあっても何かが犠牲になっている…。人間としての自分を冷静に見ると私はこんな感じです。正気で見れば見るほど、何をどうやっても全て楽になれることはない気がしてきて、まさに頭がおかしくなりそうになるので、私はいつもどこかをマスキングして生きている感覚があります。一方で、どれだけ苦しくても、正気(ここでいう正気は、自分の生き方や他者との関係性について苦しくても見ようとする意識を指します)を手放さずにいたいと思う私もいます。たとえそれで生きることにも死ぬことにも何も見いだせないとしても。
こんな価値観を通して見た、勝手な解釈かもしれませんが、あなたが書いてくださったことは、思考や自分という実態と実感をどこまでも自分事として抱え続けてきたからこそ生まれるものではないかと感じました。上手く言えないのですが、世の中の多くが「心や生活に変化・機微があること」を前提とした評価に飲まれ、その抑揚を必死に生み出しながら動いているように見えてならないのです。あなたの言葉を読んで、生きることと死ぬことに対して、人がどんな価値観を内在化しているのか、改めて考えてみたいと思いました。

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