経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

報われないネットでの書き連ねと投稿

絵を描くこと自体が幼少のころから一定の安定剤になっていて、絵を描くことで自己を充足させる傾向が多かった、けれどその絵というのはほとんど残っていない、大概はチラシの裏に描いて捨ててしまっていた、それを夢に紐づけることというのを周りから与えられていなかった、周りの家族はいつも先に進んでいってしまうが、僕はいつも紙に絵を書き綴りつづけてた、その態度は幼少期5歳か4歳くらいから何も変わってはいない、絵を描くことが好きだった、とにかく絵を描いていることで場を定義できるからだった、けれど絵を描くことで何かを変えれるという直接的なことに結びつくことはなかった、小学生のころに割と絵で褒められる機会はあった、けれどそれは展覧会で何かの賞をもらったというぐらいであり、実際に学校内で絵がうまいというのはキャラクターを描けることであり、僕は美術の観点からキャラクターを描くことはあまりよくないと思い込むたちだったし、学校教育もそうだった、それでもキャラクターを描くと一般の認知にのりやすくコミュニケーションはしづらかった、今では学校教育も変わっているのかもしれないがアート系の人というのは基本としてキャラクターを描くことを禁じてアート的なことをしてるのが一番という風合いを美術の授業を通してしつけられたようだったいわいる芸術というのは個人の報われなさに直結していることが大きいのだ、だけど僕は漫画にもアニメにも小説にも芸術にも真に興味はなかった、なぜなら文字を読むことが致命的にめんどうくさかったからだ、彼らが話していることは教育的でどれも関わるのが嫌だった、絵を描いていたかったというのはネットでデジタルでお絵描き掲示板でも同じだった、そうやって描かれた紡がれたものの多くは僕を充足させた、けれどそれも一時間から30分程度で完成させなければならなかった、それであっても周りはもっと時間をかけて絵を完成させる圧が強かった、いわいる自分の作品がお絵描き掲示板で流れないようにという意図からすると、時間としても数時間はかけるみたいのが知らない間に常識化していた、ただそれは学生がやるには義務教育課程において時間を捻出することは非常に難しいことだった、それでもそういったことを普通とやってる子は一見してネットに順応しているようで実を言ってネットの構成員になっていくような連なりの中にいるようだった、それでも僕はお絵描き掲示板にのめりこんで、特定のというわけではないが、モンスターを描くのが好きだった、アニメやゲームなどのというよりもオリジナルのモンスターを描くという形になっていった、本来ならそのお絵描き掲示板の趣旨にあった何かを描くというガイドラインがあったかもしれないが、僕はそういったガイドラインよりもとりあえずむかしから継続していたモンスターを描くという行為を認めてもらいたかった、それの繰り返しと反復に近かった、けれどそれだけでは何も成り立たない、将来の進路も働きながらそういった絵を描き続けられるのかもわからなかった、ただ学生自分のしんどい時期も絵を描いてられることですこしの気のまぎれになっていた、真に静かに誰にも関わらず自由に絵を描いた経験がない、いつも時間の枠で自分の部屋もない状態で、ぎりぎりで絵を描いていた、それのくりかえしだった、けれど自分で何かを描けたというのはとても貴重な経験で、それをもっと膨らませることができたらいいのにとは思っていた、いわいる自分というものが形骸化して描く機能だけが残ればいいのにとすら考えていた、専門学校生からあらゆる自分でも絵がうまい人というのと比較すると描けてるとはいいがたかった、ただ線を引くことには重きを置いていたのでずっと線を引いて美術解剖図やさまざまな本を写本し続けた、ぼくにとっては絵がうまくなるならという具合だったが周りからすると目的は就職であってポートフォリオがなければ成立しないようだった、周りは絵がうまいかというと上手い人もたまにいる程度だ、映像関連に関して学びたかったのはアニメの制作を知りたかったからである、けれどアニメというものをどうすれば知れるのかだれも教えてくれなかった、僕にとってはアニメを制作するということはたくさんを書き連ねることが出来るというのと同時に絵を学習するうえで、体のコマかな角度を考えるというのはキャラクターをいきいき描く上での練習になる、けれどそういった学習法を絵を描くという尺度から基本的にだれも良いものとしなかった、いわいる枚数描くのではなく一枚で黙らせるという絵の描き方が主流とされていた、けれど僕は枚数を描くことで連ねることでしか意味を成せなかった、ただにくたいてきには限界に近かったらしく専門学校生時代はあっという間に体調を崩し、ニートになって初めて自分が絵を描く場もなにも与えられていなかったのを知った、けれど絵を描くことはやめなかった、ずっと図書館に通いながら絵を描き続けたし、我流で描くこともやめなかった、けれどそれをどこかに違う舞台にという方向にはならなかった図書館はそういう場ではなかったからだ、僕の絵は僕個人の充足に費やされていたが、基本としてネットと絵を描くということを連続することで僕は自己を保っていた、他者とのかかわりというのではなく報われないネットでの書き連ねは一年半で3000枚の連続した漫画を描くまでになった、はじめて長く描いた漫画も230枚近い投稿をおこなったこともあった、でもそれはネットの場であって細かく人が評価してもじっさいにつながりを持つことはなかった、人がそういった機会を設けてくれても、自分の中では絵を描くという行為の場がなければだめだった、絵を描いてられる場所が欲しいだけだった、けれど絵を描き続けてもなんども自分を壊すようにして、なんども自殺未遂に近いことになっていた、絵を描くという行為から離れて小説を書いていたときも同じようだった、いわいる小説は絵を描くための柱という具合で、ぼくを真には自由にはしなかった、おかげで短時間で文字を紡げるようにはなったけれど、それは僕を完全にはかいほうしなかったのである。僕はいまも絵を描くが投稿できる場も描き続ける場もない、それは僕が行ってきた生活が破綻しており何もかも間違っていたことの裏返しであったと理解している。

感想1

私もよく絵を描いているのですが(奇しくもあなたもよく描いていたという、オリジナルのモンスターみたいなものを描きます)、私は「絵を描く」ということについて、あまり深く考えてこなかったのだと思います。私にとっての「絵を描く」という行為の意味や位置づけは、幼少期のあなたに近いものなのかなと勝手に思っていて、なんとなく楽しい気がすること、趣味の数歩手前のよくやる行為でしかありませんでした。いやむしろそういう位置づけだったからこそ、絵を描いている時間は私にとって意味を持たなくていい時間、考えなくてもいい時間となり、日頃のなにかしらのストレスを緩和することに寄与してくれていたのかもしれません。
私はそういう認識だったので、あなたの経験談を読んで、絵を描くという行為ってここまで深堀りできて、人によって違うことなんだと私なりに驚くと同時に、あなたが絵を描くことに対して寄せている複雑な、刻一刻と変化していっている思いの一端に触れることができたような気がしています。少なくとも、あなたが絵を描くということに多大なる心血を注いできたこと、あなたと周囲の人々の絵を描くことに対する認識に齟齬があり、描くという行為に支障が出てしまったことなどは、強く伝わってきました。あなたにとって絵を描くという行為は、自己そのものの根幹をなす行為なのかなと思っていて、そんななかで今いる場所が絵を描ける場所になっていないというのは、まるで自分を否定されていると感じることすらありそうだと、私なりにイメージしました。
これは絵に限らず、音楽や映像系なども当てはまるかもしれないのですが、ある人が作り上げたものの価値を、作り上げた以外の人々が断定してしまう現状があると私は思います。基本的には多くの人が見聞きして、知られて、評価されているということ=作り上げられたものの価値という図式ができてしまっているのではないかと、思えてならないのです。ランキングに入っていてもいなくても、賞をもらってももらわなくても、トレンドであってもそうでなくても、新しくても古くても、その作り上げられたものには人それぞれの思いや価値があると思います。私見に過ぎないとはいえ、創作に対する評価の基準が偏ってしまっている現状があるんじゃないかということを、あなたの経験談を読んでしみじみと感じました。
こういったことを考えていたので、あなたがアニメ制作について学んだ時期のお話を読んで、なんだかもどかしい気持ちになりました。先人たちの積み上げてきたものを参考にすることは、現状良しとされるものに近づくために効率的なのかなとは思います。でもそれに沿うことばかりがアニメ制作を学ぶ人の評価軸になるのはどうなんだろう、素人の考えになってしまいますけれど、あえて主流に沿わない制作方法をとることが革新的な効果を発揮する可能性もありそうなのに…などと思ってしまって、もどかしく感じたのです。それにあなたのアニメ制作が、主流ではない、良しとされないというだけの理由で排斥されてしまったのなら、それがあなたにどれだけのダメージを与えただろうと、想像させられました。
個人的には、あなたが報われていないと感じる投稿はどんなものだったのか、そしてそれらの投稿がどのように扱われることがあなたにとっての「報われる」ということなのか、率直に気になったりもしました。そしてなにより、絵を描くという行為はあなたらしくあろうとすることなのかなと思います。そのらしさを発揮できる場があるといいなぁと、経験談を読んでいるうちにいつの間にか感じていたことを、最後になりますがお伝えいたします。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。
私も10代の頃は一人でよく絵を描いていたので、勝手ながら仲間意識をもって読み始めました。ただ、読むほどに、あなたにとっての絵を描く行為の意味の大きさや切実さは、自分とは比べ物にならないな…と圧倒されていきました。今は仲間という視点ではなく、「ふつつかものですが、あなたの生きている世界を少しでもただしく想像できたらと思います」というスタンスで感想を書いています。

「絵を描く行為は私にとって○○である」ともし端的に表現するなら、どんな言葉があなたから出てくるのだろう、と私は聞いてみたくなりました。そんな簡単には表現できないと思いますし、実際に経験談でもいろいろな表現もしてくれていましたが、端的に言ったときに何になるのかを知れたら、私はまた少しあなたのことを理解しやすくなるように感じたので聞きたくなりました。
私は絵を描くことにも親しんできましたが、生きることに切実に結びついているのは文章の読み書きで、私にとって小説を読むことはお菓子を食べるくらい楽しくて簡単なことであり、文章を書くことは生き延びるためには欠かせないことでした。文章を書くのが好きとか得意とかではなく、書かないと生きてこれなかったから書いた、今後も私が私として生きていくためには書くことはやめられないだろう、という感覚があります。
ただ、私にとって書くことは、書く力量が職業に強く結びついているわけではないし、人とのつながりや承認にもあまり関係がありません。あなたにとって絵を描くことは、そういった全てにつながっているからこそ、絵を描くことにまつわるすべてが大きな意味や力をもつのかなと私は想像しています。そしてそれはとてもヒリヒリするような、生々しい苦しみのある世界であるように感じました。

自己表現(創作)が自分にとって居場所であったり切実であるほど、それが他者評価や職業などいわゆる俗世との利害関係が増してきたとき、深い葛藤やもどかしさを抱えることになるように私は思っています。
創作は、たぶん誰にとっても最初は「楽しかったから」「落ち着くから」「褒められたから」など、自然体で前向きな感覚から始まるのではないかと私は感じています。でも上手になろうとしたり人とつながろうとすると、何の分野でもコミュニティや学習体系は存在して、人が集まるところには独自の文化や優劣が生じます。職業にするならニーズというものとの兼ね合いが多かれ少なかれ絶対に必要になりますし、本格的にやろうとすればお金や時間がかかり、その分他の何かを犠牲にすることも出てきます。今の世の中は目的やゴールを過剰に求めてきていると私は感じていて、その中で、自分なりの感性や質は切り捨てられていくようにも思います。
「ただ○○がしたい」で生きていくことはできないにしても、評価や形に適合していかないと生きていけないのか?いや、そうじゃない生き方やあり方があるべきだろう。私はこの経験談を読んで、そういった思いを強く抱きました。

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