小さい頃からずっと、周りばかり見てきた。父を怒らせないように、母の手を煩わせないように。周りを傷つけるのは、迷惑かけるのは悪である。心配させてはいけない。
もう10年以上経ったのに未だに覚えているのは、小学生の頃、体調を崩して保健室に行ったら、親に迎え来てもらって早退しようって言われたときのこと。自分の体調が…とかじゃなくて、仕事をしている母に仕事を中断させてしまうのが申し訳なくて、そして、良い子でいられない・悪い子になってしまう・怒られるかもしれない、と思い悩んで、母に迷惑かけちゃうから連絡しないで!!と先生に泣いて頼んだ。結局確か迎えに来てもらって怒られることはなかったんだけど、それでも私はすごく後ろめたくて。ダメなやつだなって思った。
今もそうなんだと思う。4月に新卒で就職したと思ったら7月に休職して、そのまま精神科に3ヶ月入院して、仕事を辞めた。早く“元通り”にならなきゃ、社会復帰しなきゃ、母がもう大丈夫って言うんだから大丈夫なはず、大丈夫じゃなきゃいけないんだって思って、母や医師から勧められるままに、退院して2週間後とかにはバイトを始めた。バイトを始めたちょうどその頃から、苦しさを紛らわせるために、現実で生きていくために自傷行為に手を出し始めた。物理的な傷があって痛みがあれば、現実に留まれる気がするから。そんなことをしても変わらないことも、無駄な行為であることもわかっている。本当は、自傷なんてしないでも済むようになりたいんだ。
自傷のことは、しんどいなぁって思っていることは、親には話していない。話せない。母が社会復帰することを望むから。自傷がわかったら心配させてしまうかもしれないし、受け入れてもらえないかもしれないから。実の親の前でも私は、本音を言えない。受け入れてもらえないんじゃないかって不安なんだと思う。思わぬ反応で傷つきたくないんだと思う。自分が傷つきたくないからって親に本音を話せず、本音を話せない私はなんてダメなんだろうって自己嫌悪して余計に辛くなって、私は本当に何をしているのだろう。本当は、どうしたいのだろう。
周りばかり見てきて、周りの人から何を望まれているのか、必要とされる役割は何かと、そればかり考えてきた。空気を読むのは得意。まるで存在しないかのように、空気になるのも得意。
だけどここにきて、思い始めたのだ。私は、誰なんだろうって。私は誰のための私なんだろうって。“自分らしさ”とか、“自分軸”とか、今の世の中それが大事なんだろうけど、私にはよくわからない。でもね、心のどこかでわかってる。本当に必要なのは周りの顔色をうかがって自分の声を無視するスキルじゃなくて、周りも重視しつつ自分の声も大事にするスキルなんだって。その方がきっと、苦しくないんだって。
でも、気づくのが遅かった。もう20年は顔色をうかがって生きてきてるから、それ以外の方法が、自分の声を聞く方法が、わからない。自分が何を望んで、自分の本心が何なのか、私にはわからない。
いっそ死んでしまえたらと、何度思ったことだろう。でもできないのはきっと、どこかに生きたい私がいるからなんだよね。死んだほうが楽なんじゃないかって、楽になりたいって、そう思う私もどこかにいる。楽になる方法は本当に、死なのだろうか。死しかないのだろうか。というか、死ねば楽になるのだろうか。死なずとも楽になる方法があるんじゃないかなって、そうであってほしいと、心の片隅で思っている。
生きたいのではなくて、死ねないだけなのかもしれない。大切な友人が数年前、彼女の友人を自死で失った。私は亡くなった人とは面識がないのだけれども、友人が酷くショックを受けたのを目の当たりにした。大切な友人に再び、友人を自死で失う辛さを味わわせるのはあまりにも酷じゃないかと思う。それが、私が死ねない理由。生きたいかはわからない。でも、友人のために私は、生きるしかないのだ。友人が横で笑ってくれるのが何よりも幸せだから。一緒に笑い合えるのが、楽しいから。生きている理由なんて案外単純なのかもしれない。
自分の声が、本心がよくわからない私だけれども、いつかわかるようになるのだろうか。わかるようにするほうが楽なのだろうか。誰のための私かもわからず周りに合わせて生きるよりも、私のための私でいるほうが息苦しくないのかな。それとも、このままのほうがまだマシなのかな。
今は、痛みを与えないと現実に留まっていられない気がする。私が私でない何かになりそうで怖い。それは、私が私を無視してるからなのかな。無視してるつもりもないけど、本心がわかってないってことは無視してるってことなのかもしれない。そう考えるとやっぱり、少しくらいは本心がわかるようにならないといけないのかもしれない。一生このまま、傷だらけで生きていくことなんてできないんだから。本心がわかるように変わっていく必要があるのかも、と自分に言い聞かせてみる。果たしてどうすれば良いのかは全く検討もつかないのだけれども。
どうしたら、いいのだろうか。“私”を探す旅にでも出ようかしら。どうやったら、“私”は見つかるのだろうか。“自分軸”なんて言われているけれども、世の中の人々はどうやってそれを見つけるのだろう、身につけるのだろう。幼少期に失敗したままうまくできない私のような人間も変われるのだろうか。この1年色んな事が身の回りで起こって振り回されているのは、いい加減自分を無視するな、という警告なのかとさえ思えるくらい、変化に富みすぎた目まぐるしい1年だった気がする。
私は、変われるだろうか。変わるのは怖いけど、変わったら少しは息がしやすくなるだろうか。これ以上傷が増えずにいられるのだろうか。時間がかかるのは言うまでもないだろうけど、それでも、少しでも良い方に変われればいいなぁと、どこかで漠然と考えている。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
“私”を探して。
感想2
あなたの置かれている状況、あなたの感じていることが読みやすく、わかりやすく書かれていて、あなたの伝える力を感じました。それだけに、気持ちや考えを伝えて聞いてもらう、受け取ってもらうという機会を不当に奪われてきたのではないかと感じられました。
注意深く周りを観察しながら母親の思うような自分でなければ、母親に迷惑をかけない子どもでいなければと、懸命に外側から求められているだろうことを考えて応えようとしてこられたのではないかと感じます。何があなたにそこまで思わせたのか、今も思わせているのか気になりました。
ご自身では「本音を言えない」と書いておられましたが、私は本音が言えないのではなく、親との関わりの中で言えないようにされてきたのではないかと感じました。発しても受け取ってもらえない経験が積み重なると、段々発することをしなくなり、いつしか思うことさえしなくなるように思います。あなたの状態をあなた自身に尋ねることもなく「大丈夫」と言った母親さんの姿に、これまでの関わりの中でもそのようにしてあなたの言葉を奪う関わりがあったのなら、母親さんの思いと自身の思いが曖昧になり、境界線がぼやけたように感じるのではないかと思います。そうなると「私は誰?」と感じるのも無理がないように思いました。
個人的に「自分軸」というのは、「あなたはどう思ってる?何を感じてる?」と聞いてくれる人がいてこそ育っていくものではないかと思っています。聞いてもらう体験をして、自分も相手の声を聞くことを覚えて、そうしてコミュニケーションが重なっていくことで「自分」と「あなた」がわかってくるのではないかと思っています。「自分」と「あなた」がわかってこそ、「自分軸」というものができあがっていくように思うのです。私自身、両親が冷戦状態のような環境で育ち、周りの空気を読むことを覚えました。自分が今どう動いたら相手が怒らないか、不快に思われないかを基準にしていたため、長じてから自分の感覚や気持ちがわからず社会生活で躓きました。生きづらさの中で七転八倒する中で、カウンセラーにネガティブな思いも聞いてもう体験をしてようやく、自分が思うことに良いも悪いもないんだと気づきました。そこから、カウンセラーや自立支援で関わった人たちの助けを受けながら長い時間をかけて自分自身に出会っていったように思います。
自分語りになってしまいましたが(すみません・・・)、自分とはぐれてしまったような状態でも、少しずつ自分に出会うことはできると私は思います。死んだほうが楽かな、生きたいかわからないな、友人のために生きようかな・・・ここに書いてくださった言葉はどれもあなたの大切な気持ちです。色んな気持ちの間で揺れてもいいと思います。できればそれを一人で抱えることなく、この経験談や、ぷらっとチャットなど死にトリの他のコンテンツを使いながら発する・受け取ってもらうという体験をしてほしいと勝手ながら思っています。その体験の一つ一つが、あなた自身との出会いになることを願ってやみません。
経験談の投稿、ありがとうございました。
感想1
「自分の声が、本心がよくわからない私」と書いていましたが、紛れもなくあなたという人の心の叫びや声が聞こえてきました。あなたの書いた文章から、声や本心が私には力強く伝わってきました。
冒頭に出てきた「人に迷惑をかけてはいけない」というあなたの不安はあなたの自発的な意向ではなく、日々身を置いているこの社会の中からたくさん発せられるメッセージをあなたが浴びた結果ではないかと感じました。きっと、周囲を見てきた、空気を読んできたというより、たくさんのことを感じてしまう力があるのだろうと思いました。自分軸という言葉もありましたが、他人軸とか自分軸という表現は、努力をして獲得する軸というよりも、外部からたくさんのことを感じ取る力が強い人や従わざるを得ない状況にいれば、他人軸傾向になり、周囲からの圧や期待に気づかない人は自分軸傾向になるということだけなのかもしれません。結果として、空気を読み、周囲に合わせることが多いとしても、それもまた一つの自分らしさであり、自分の軸を持つことだけが自分らしさではないようにも思います。
ただ、あなたが今、日々過ごしていくために、自傷という痛みを伴う感覚を必要としていることだけは明確です。たくさんの期待やメッセージ、情報や刺激が積み重なって、未処理のままあなたの心の奥の倉庫に眠っているイメージが浮かんでいます。その倉庫が少し整理できて、すっきりしたら今まで見つからなかったものが見つかるかもしれないと思いました。そして、今回この経験談を書くことで、倉庫の整理を本格的にスタートさせたのかもしれません。世の中には本当にたくさんの暗黙のメッセージがあふれています。たくさんのことに気づいてしまうあなたにとっては、過酷で苦しい環境だろうと思います。ただ、あなたはすでに自分で多くのことに気づき、自分を探し始めています。いや、ずっと自分を探し続けているからこそ、苦しいのだろうと私は思いました。身近な人に本心を言うのは難しいかもしれません。身近な人に言えなくても、何よりもあなた自身があなたの理解者であり、理解者であろうとすることは強く伝わってきました。まずはそれで十分なのではないかと私は感じました。私にはあなたの問題というより、あなたを悩ませる社会のこうあるべきというメッセージの数々がもう少し緩んであなたの息がしやすくなることを願いたい気持ちになりました。こうして本音を綴り、声を届けることが微力でも何かの役に立ちそうなら、またいつでも声を届けてもらえたらと思います。