経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

重石

はじめまして。経験談と呼ぶにはあまりにも似つかわしくない、私の思想の垂れ流しをさせてください。

私、人は自分の目でしか見られないと思うんです。私に見える景色は私にしか見えないし、そのまた逆も然りで、人に見えてる景色は自分には見えていない。皆が見てる共通のものなんて存在していなくて、それぞれの景色を言葉を介してなんとか共有してる状態なのだと。暗黙の了解とか、押し付けとか、多様性とか、つまりはその状態を指す言葉なのでしょう。
そう気がついた時、私、自分の感情なんて関係ないんだなって吹っ切れました。吹っ切れたという表現が正しいか分からないけれど、つまりは、自分の行動選択(詳細は後述します)の指標の中から「私の感情」は外されたということです。私がいくら楽しだってよそ様には意味のないことで、私がいくら幸せでもよそ様は嬉しくも悲しくもない。妬み嫉みだとか喜びの伝播だとか言われますが、それは単純に「○○な感情だろうと観察したとき、その人がどう感じたか」ということに過ぎません。それぞれが独立して感情を形成しているということ。
それ以来なのかずっと前からのことか今は覚えていないけれど、私は自分の感情がよく分かりません。楽しいとか嬉しいとか、悲しいとか悔しいとか、満腹も空腹も、暑いも寒いも、眠気も何もかも、私には分かりません。決まった時間に必要量の食事をとり、その場にふさわしい感情を抱いているように表情や言葉を整えればそれで足ります。不便はしていません。感情の浮き沈みが激しいとヒステリックだと批判される一方で感情の変化に乏しい場合には落ち着いていると評価される昨今、むしろ自分の感情が分からないことに助けられているのかもしれませんね。

小さい頃は明るく無邪気に過ごしてたのに、思春期に変な成長を遂げてしまったなとかよく考えることがあるんです。でも、小さい頃の手記には「大人になれなくてごめんなさい」という言葉が何度も書いてある。自分の悪かったところと、その原因と改善方法と、自分への叱咤激励の言葉が書かれたノート。だけど時折、そこにごめんなさいの言葉が連なるんです。自分一人の力では悪事をなかなか改善できずにいること、寂しさからつい何かを求めてしまうこと。そういうことをひっくるめて、大人になれなくてごめんなさいと書き起こしていたことは覚えています。
叱っても叱っても悪事を繰り返す自分が許せなくて、自分の決意の弱さに何度も腸が煮えくり返りそうな日々でした。まぁ実際はもっと静かな一人問答ですが。言葉で自分を叱るだけじゃ改善の余地はないと初めて行動に移したのは中学生のこと。手の甲を強く抓るようになりました。痣ができて、皮膚が硬直するようになって、終いには強く抓っても痛くなくなって、次にアクリル定規で手の甲を叩くようになりました。それも痛くなくなり手の甲から太ももへ。道具も定規からプラスチック製のかたい靴べらに変わり、数百から数千叩くように。一面大きな痣を両足に作り、叩いても叩いても痛くないようになってしまいました。今では、安全なSMクラブに通っては出血するほど叩いてもらっています。悪事は減らない自分だけれど、この痛みさえ耐えていればほんの少しでも罪を償ったことにならないかと淡い期待を抱いて。繰り返されるごめんなさいの言葉を押し殺さずにいられる時間は手放せません。
今になって振り返れば、幼少期の私は叱られるべき悪事を誰にも叱られることなく、むしろ同じ悪事をした兄になんと声かけをすればよいか母に相談されていました。同級生の友人には心から尊敬しているのだと崇められ、学校の先生も、どうしたらこんな子が育つのですかと面接がある度に母に聞いていました。そういう日々の中で、伝えなければならないごめんなさいの言葉を伝える相手がいなかったから、手記に綴っていたのだと思います。

ちなみに、昔から願っていた大人になるということは想定とは違った方向で達成されました。おかげさまで私は自分の感情と行動をコントロールできるようになりました。悪事は次第に改善されました。反対に言えば、冒頭に述べた通り、悪事にあたるかどうかを常に考えて自分の行動を選択するようになったということです。感情は感じなくなったので、振り回されることもありません。大学の成績は学年で1位です。優秀な生徒として奨学金もいただいています。同級生と後輩の質問の対応を日々こなし、落ち着きのある優しい人物として慕ってもらっています。大人になったおかげですね。
でも、大人になんてなりたくなかったとも時々思います。どんなに苦しいはずであっても、頭は常に冷静です。想像してみて?苦しくて悲しくて泣いているのに、明日の予定を加味して泣くのは何時までと制限されること。希死念慮はあっても自殺企図はしていないからリスクは低いと判断されること。苦しいのならこういうサイトで吐き出しなさいと、吐き出してさっさと感情を処理してきなさいと追い払われること。そうする張本人が自分なこと。大人って、そういうことでした。頭が痛くて、張り裂けるように常に痛くて、地団駄を踏みたくなります。行動をとる一つ一つの前で、頭の中で声が鳴り響くんです。私にそれをする資格はあるだろうか、と。会話する資格、大衆への呼びかけに自分が答える資格、笑う資格、食べる資格、お風呂に入る資格、寝る資格。自分にそんな資格はないと叫ぶ声のせいで体が止まる。そして何とか残った理性で、今笑わないと相手の方に失礼だから、食べなきゃ体が動かず心配をかけるから、そう自分に言い聞かせます。お店の商品棚の前で固まっては、何とか言い聞かせて1食には到底満たないような小さな小鉢にありつく。寝るときにも言葉が鳴りやまなくて、勉強しなければと体が焦燥感に駆られて、寝られたものではありません。そんな毎日です。悪い子でごめんなさいと必死に床に頭をこすりつけて、誰もいない場所で自分の太ももを叩きます。クラブの予約をします。大人になるってそういうことでした。

当時や今の自分の気持ちに言葉をつけることは難しいんです。いい子の呪縛とか、他人軸だとか、そういう言葉では片付かない。誰だって叱られたくないと思うものでしょう?怒られるのが嫌だと。だから叱られないように振る舞ってきた、それだけです。それなのに叱られないことが苦しくなってどうしようもない。でも叱られたくない。そこで行き着いたのが、悪い子の自分には叱られる価値すらないのだという思考です。そう考えれば、褒められるいい子の自分には居場所があると信じられたから。
知っていますよ、自分の居場所に他者の評価なんて関係ないこと、価値なんていう人間の値踏みはこの世に存在しないこと。どの自分にだって、周囲は等しく接していること。最初から知っています。だから結局は、単に心の狭い人間ということですね。

私、必ずといっていいほど人の相談先になるんです。受験前で心が落ち着かない時、人間関係で悩んだ時、母親が子どもの教育に迷った時。いつも私は声をかけられて、気持ちを聞いて、まるで達観したような言葉を放っては笑顔を向けています。LINEや電話や対面で話をずっと聞き続けて、こうしてみてはと少し助言をして、大丈夫だよと笑ってみせる。小学生の頃から今に至るまで、母や友達や後輩の相談を受け続けてきました。私が↑で知っていますと言ったようなことを、何度も回答に織り交ぜてきました。そしてそうしていく内に、相手は心が安定したのか、晴れた顔で私から離れていくのです。その後ろ姿を見ては、無理をしていないかと心配になる気持ちと、私では力になれなかっただろうかとの申し訳なさと、笑っている後ろ姿に心底ほっとする気持ちで満たされる。そしてその後、私の苦しさはあまりにわがままだなぁと自分に落胆する。

少し先述しましたが、苦しいのか、死にたいのかと問われた時、私の中で答える2人の人物がいます。「はい、とても!」と「いいえ、そんなことはない」。どちらも自分自身です。誰かの言葉を借りて言い聞かせている訳ではなく、どちらも本当の自分の心。そしていつも、前者の心の手綱を冷静な後者の心が握っています。前者の心に、必ず後者の心が割って入る。本当にそうなのか?○○なのに?と正論で詰めて、論理で言い負かせられない時は、こうしたサイトを使って気持ちを少し晴らしてきなさいと追い出される。命の綱も、涙の綱も、助けてと声をあげる綱も、全部後者の心に握られている。だから安心ですね。私は自殺なんてできませんし、随時安全に処理するようコントロールされていますから。本当、誰かに手間をかけてまで助けを求める必要性なんてどこにもない。ちっぽけ。

初めて死にたいと思う人がいるらしいと耳にした時の、全く理解できずに驚いた感情を今も鮮明に覚えています。まるっきり全てが消えてしまうではないか、他に方法はいくらでもあるではないか、と。当時の私に伝えてあげたいですね。まるっきり全て消すことを願う日々があるのだと。あなたが消したくないと感じるそのあたたかな日々でさえ、消えてしまってもよいかと思う日が訪れるのだと。
私、いつも心に重みがあるんです。どんなに幸せな環境に身を置いて愛を沢山注がれたって離れることのない、ずんと静まりかえる影のような重さ。そこに理由も宛先もありません。かつての文豪が数々の作品の中で語ろうとしたような、お釈迦様が一切皆苦だと表現したような、人生というものの普遍的な粘り気の強い重み。死を身近に感じることは苦しみの象徴ではなく当然の事実ですし、他者への影響を考えないのであれば生を投げうつことだって厭う方が違和感があります。そんな気持ち。
幸せって、幸せじゃないんです。ありがとうとは有り難いという意味。本来ならば、自分にはそんなお恵みはやってこないということ。ありがとうと幸せを感じる度、自分の身の丈には有り余るとんでもない奇跡だと胸が打たれます。そして、全身全霊で受け止めながら、この時間が続くよう望むことは禁忌だと感じるのです。

一度母に言われた言葉で、忘れられないものがあります。
友達が出演する文化祭の出し物、チケットは不要で、ぜひ見に来てと誘われていました。いつも私の用事が重なって会えずにいた子だったので、忙しい合間を縫って、公演の最後の一幕だけでも見に行こうとしていました。本心では、行きたくなかった。私にとってもようやくできた予定のない時間は休むために使いたかった。お誘いのメッセージも全員に送りつけたような内容で、私を個人として望んでいるようには到底感じられない。それでも、私は行こうとしていました。いつも私用を理由に断っていたお詫びも込めて。
その時、母に言われたんです。行きたくないなら行かなくてよい、と。
私、膝から崩れ落ちました。正確にはうんそうだねと軽く受け流したけれど、内心では立っていられなかった。だって、私生きたくないけれど必死に生きてるんですよ。未遂を繰り返す度に、周りの人たちの当たり前の日常を崩してはいけないと思って諦めてきた。私に向かって微笑むその顔を壊してはいけないと思って、首から縄を外して笑ってきた。母のためだなんて恩着せがましいことは言わないけれど、少なくとも自分は生きたくない今を必死に生きているというのに。生きたくないから生きない、そんな簡単に割り切れられたらどれだけ良かったか。私を思いやるように放たれた言葉だからこそ、膝から崩れ落ちることしかできませんでした。怒ることも泣くことも、受け入れることも否定することも、私にはできませんでした。
唯一掴んだ生きる意味を否定されて以降、私から主体性は消えてしまったように感じます。波に流されて、向けられる期待の声に合わせて、日々が過ぎていきます。

とりとめもなく書いた文章ですので、読みづらいと思われます。ここまで読んでくださりありがとうございました。

最後に少しだけ。
井の中の蛙だなんて昔はよく言われたものらしいけれど、今はむしろ水族館の中の蛙なんじゃないかと思う。私も、みんなも。
解釈は読み手の皆様に委ねつつ、ついこんなことを嘆いてみたくなってしまいました。

感想1

いろいろな感情と価値観を受け取りながら、立て続けに2周読みました。上手く言葉にできる自信はないですが、感じたことを書かせてもらおうと思います。

書かれていること、その持論は、あなたにとって自明の理ように身体に馴染んだものであると同時に、心の奥底では認めたくない、出来る事なら身体から引きはがしたい、そんな相反する感覚がないまぜになったもののように感じられました。もし他者にこれらを打ち明けた場合、「そんなことはない」と言われたり、全部丸ごとあたたかく肯定されたり、悲しまれたりする可能性もある、そういう類の極端さや痛みを内包した処世術(価値観)であるように思います。しかし読みながら私は、きっとあたたかい受け止めを求める段階すら、とうに通り越してきたのがあなたなのかもしれないと感じました。しいて言えば、子どもの頃のまだこころがやわらかく、自分で対処しきれない、自分を「悪い子である」と定義するしか折り合いのつけようのなかった時期に、深度を持った表面的でない理解が得られれば、それがあなたの中になんらかの拠り所を作れたのかもしれないとは思いました。

「大人になれなくてごめんなさい」という表現に、周囲の環境からの影響がいかほどあったのかはわからないですが、読む限りあなたは、自分に起きていること、自分の意思と行動のズレ、自分という存在の在り様について、あくまで「自分の中で」説明し、定義づけ、理解し、対応してきたのだろうと感じました。それは周囲に人がいない・放っておかれたからなどというよりも、あなたの中に「自分を評価する自分」が早々に現れ、誰かとの関わりよりもはるか先に(はるかに正確に)自分で自分を修正することがベスト(必要)であるという結論を手にしたのかなとイメージしました。その自己対処力が客観性となり、他者にとっての「心地よい自分」の形成に役立ち、そして年齢が「大人」になることで社会から要請される「理想的な人物像」に結果としてマッチしていった…そういう順番なのかなと(勝手な推測です)。あなたの中には昔も今も「ほんとうはこうしたい」や「苦しい、叫びたい」みたいな欲求があって、それを自覚していないわけでもなさそうですが、それを表出することを他ならぬ(年季の入った)自分という監視役が許さないのでしょうか。あるいは、許さない(押し殺している)という感覚すら超えているのでしょうか。

今回書かれたような価値観の一切をおくびにも出さず日常生活をこなしているとしたら、それはかなりの劇薬が必要だろうなと感じました。血が出るほどの痛みを与えることがそれに該当するのかもしれませんが、他者もまたあなたの態度と落ち着きに安心して、それを頼って(あてにして)いて、それもまた表出の「抑え」になっているのかもしれないとも想像しました。他者とのかかわりによって、他者に矢印を向ける事で自分から少し離れられる感覚があるのかとも思いましたが、読む限りそういうわけでもなく、あくまで他者に向き合う「自分」を主体として捉えているように思えました。文中で母親さんから、他者に合わせて客観的事実から判断するという行動規範を否定されたという旨のエピソードがありました。そのときに主体性が消えてしまったと書かれていましたが、「主体性」ってなんなのだろうと私はいまだにわからずにいます。表面上、誰かに合わせることが主体性のなさなのだとしたら、あなたの行動も当てはまるのかもしれませんが、一方で第三者である私が読む限り、あなたの中には限りなく自己中心的な「自分」が存在しているように思え、それは「主体性」ではないのだろうか?と考え込んでしまいました(「自己中」という言葉はおよそいい意味でつかわれませんが、ここでのそれはネガティブな意図を含んでいません)。私の中での想像上のあなたは、あくまで真っ当に「自分」は持っているけれど、それを社会や他者とのコミュニケーションに使ってはいない、という状態なのかなと感じました。コミュニケーションに使うべき、とは思わないですが、コミュニケーションが自分の思想に作用したり、自己像に新たな視点を加えたりすることは少なからずあると思います。それを何らかの感情や価値観によって「取り込もうと思わない(していない)」ことが、あなたをあなた自身から孤立させ、影のような重さを自分と一体化したような逃れられない苦しみにつなげているのかもしれないと思いました(人と関わってよいものばかりが得られるわけでもないのは私自身も重々承知の上なのですが)。

いろいろと思ったことを勢いまかせに書いたところがあるので、勝手な想像や飛躍を含んでいたらすみません。中途半端かもしれませんが、このあたりで終わろうと思います。
「変わった方がいい」と言いたい気持ちは全くなく、書かれていた言葉たちから立ち現れるあなたの思考に触発され、ただただ自分の中で湧いてきたものをそっと置かせてもらうような気持ちで感想を書きました。あなたのことで私が「分かった」ことは正確には何もないと思いますが、それでも、あなたの言葉を通して物事を考える時間は興味深かったです。投稿ありがとうございました。

感想2

「重石」読ませてもらいました。興味深く読ませてもらいました。本当は感情を爆発させたり、怒ったり、泣いたり、身体で試したりということが必要な成長過程の中で、その経験をどこかで封じてしまい、早い段階で理性的で抑圧的な思考で周りの平和を保ってしまったところがあるのかなと想像しました。「悪事」と書いていたことが、実はさほど悪事ではないのかな?とも想像しました。むしろ必要な「表出」だったのかなと。人間は不完全な状態で生まれてきますし、発達段階でいろんな表出をすると思いますが、どんな表出も本当は必要なものなのかなと思います。しかし、その表出を抑圧されてしまうと、大人になっても取り戻す必要があって、人生をかけて取り戻そうとするものでもあるように思います。「大人」になってしまったあなたがSMクラブで痛みを得ようとすることも、こうした思考の迷路を辿ることもやはりあなたの命に必要なことなんだろうと思いました。ただ、今の状態ではとても取り戻しきれていないからこそ、こうして書いてらっしゃるのかなとも感じます。どのようにその時の満たされなかった必要なことを取り返すことができるのか、まだその道程にいらっしゃるようにも思いました。
私自身も幼少期から学齢期で身につけてしまったものをいかに剥がすか、あるいは違うものを再学習させるかに腐心してきたところがあります。いわば魂をどうやったら守っていけるかということに、今も日々苦しみながら取り組んでいると思っています。日本の教育や子育てにまつわる環境が、どれほど命の成長を妨害しているか、また現代の社会が人々の魂を根こそぎ奪うものか、身をもって知っているつもりです。あなたがおっしゃるように、それは私の景色であり、その景色を通してみているあなたの文章なので、ずいぶんとフィルターがかかっているだろうなということは自覚しつつも、どうしてもあなたの文章で自分を重ねてしまうところがあり、あえて書かせてもらいました。現代は(特に日本は)権力者や資本家の支配が見えない形で定着化している時代だと思います。同調圧力の強さも相まって、監視や管理をしあっているようなところもあり、感受性の高い子どもほど生きづらくなるような社会だと思います。感情を爆発させたり、もっとわがままに、自由に生きてもいいはずなのに、それをさせてくれない空気を多くの子どもたちが感じているように思います。あなたが苦しく感じているのは、あなたの魂が生きている証拠でもあるし、もがいているあなたに私は勝手ながら親近感を覚えてしまいます。あなたが探しているものは、あなただけではなく、多くの人にとって大切な何かであるようにも思います。

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