私の祖母は、私が産まれた数日後に亡くなりました。両親からは突然病気で亡くなったのだと言われていて、私はずっと、祖母が生きている間に産まれてくることができてよかった、私は間に合ったのだ、と思っていました。
しかし半年ほど前、父から祖母は本当は自死だったのだと打ち明けられました。
祖母は二人の息子をとても愛していたそうです。叔父と父に立て続けに子どもが産まれて寂しくなってしまったらしい、と父は私に教えてくれました。
私は間に合ったのだ、思っていたけれど、逆でした。間に合ったのではなく、とどめを刺してしまったのでした。真実を知ってから、その考えが頭を離れません。
父から話を聞いたときは、反射的に「絶対に今反応を間違えてはいけない」と思い、「そうだったんだ、教えてくれてありがとう」とできる限り重くならないように返事をして話を終えました。
それから、様々なことを考えました。娘が産まれてすぐに母親を自死で亡くした父のこと。娘を産んですぐに義母を自死で亡くした母のこと。母が私を産んだのは今の私とそう変わらない歳のときのことで、自分が今その状況に置かれたら?と考えると、ひどく胸が苦しくなります。夜泣きする私を抱く両親は、どんな気持ちだったのでしょう。想像することしかできないけれど、想像するだけで苦しくてたまらなくなります。
今更、すごく今更だけれど、悲しいな、と思います。どうして、とも思います。孫に息子を取られたようで寂しかったのでしょうか。息子二人に子どもができて、息子の母としての役目を終えたようで無気力になってしまったのでしょうか。二十数年前に亡くなった、新生児の時に一度会っただけの人間のことなど、わかるわけがありません。でも、考えてしまいます。私が産まれたことで祖母を死なせてしまったのだと考えてしまいます。そんなこと、両親も、そしてきっと祖母も望んでいないのに。
祖母はきっと、私が産まれてくることを楽しみにしてくれていました。祖母は裁縫が得意で、女の子の孫が産まれてくるからと、凝った刺繍の可愛らしい手さげかばんや、ひな祭りの飾りを作ってくれていました。私は祖母が作った手さげかばんをとても気に入って、小学校の六年間ずっと使っていました。おばあちゃんが作ってくれたんだって、大事に使っていました。私はちゃんと、祖母に愛されていたのだと思います。愛されていたけれど、それでも、祖母は死んでしまいました。
私が責任を感じることではない、ということは理解しています。祖母の自死は、決して私がどうにかできることではありませんでした。私が自分を責めたり、私が産まれたせいで、と考えることは、私を産んでくれた両親に対して酷い行いに値するだろうと思います。また、自死の責任を勝手に背負うような真似は、祖母への冒涜のようにも思えます。
でも、父から真実を知らされて以降、「私が産まれたから祖母は死んでしまったのだ」と生活の中で不意に考えてしまいます。祖母や両親の気持ちを想像して、一人勝手に苦しくなってしまいます。祖母にも両親にも愛されていた・愛されている自覚があるので、そのような不要な責任を感じたり苦しくなってしまうこと自体にも罪悪感があります。
話は変わるのですが、私は新卒で就職したときから一人暮らしをしています。側から見れば一般的な社会人女性をやれているのだと思います。でも、気持ち的にはずっといっぱいいっぱいです。社会に向いていない、社会で生きるのをやめたいとずっと感じています。
祖母が自死であったと知ってから、死にたいと感じるときに、祖母のことが頭をよぎるようになりました。祖母はどうやって、何を考えて自死したのだろう。そんなことを考えつつ、現在の苦しみや将来への不安や様々な思考に埋もれ、希死念慮の海で溺れながら、それでも普通のひとになりたいと願うのをやめられずに生きて、働いて、生活をしています。
私はアロマンティック・アセクシャルで、おそらく結婚や出産をしません。人生をやっていけるだろうかという不安もかなり大きいですし、最近は、両親は私を産んでこんなに愛してくれているのに私は家庭を持とうともしなくて本当に良いのだろうか、とも考えるようになりました。結婚や出産をしなくても、両親はきっと何も言いません。両親は、好きに生きていい、健康に生きてくれるだけでいいと、折に触れて伝えてくれています。両親が望んでくれているように、好きに生きたい、健康に生きたいと思っているのに、社会で生きることが苦しく、死にたいと思うことをやめられず、それを申し訳ないと思うことさえ申し訳なくて、苦しいなあと思います。でも、自死遺族である両親をこれ以上苦しませるわけにはいかないので、私は自死を選べないな、とも思います。
「話が重すぎる」「もし相手に身近な方を自死で亡くした経験があったら辛い思いをさせてしまうかもしれない」などと考えてしまい誰にも話せなかったので、ここに投稿させていただきました。少しは自分の感情の整理ができたように思います。
きっと私は苦しみながらもまだまだ生きてしまうのだと思います。家族が幸せに暮らしてくれることと、祖母が死後の世界で何も苦しまずにいてくれることをただ願っています。
感想1
経験談を読ませていただきました。
誰にも話さずに1人で心のうちにしまっていたことを投稿してくださったのですね。1人で抱え込んで、考え続けて、すごくしんどかったのかなぁと勝手ながら想像しました。少しは感情の整理ができたとのことで、ほっとした気持ちになりました。
読んでいて印象的だったのは、あなたがあなた自身の気持ちを否定したり気持ちに蓋をしようとしたりしているところでした。私としては、そういった文が何か所もあったというふうに思います。
例えば、「私が産まれたことで祖母を死なせてしまったのだと考えてしまいます。そんなこと、両親も、そしてきっと祖母も望んでいないのに。」「私が自分を責めたり、私が産まれたせいで、と考えることは、私を産んでくれた両親に対して酷い行いに値するだろうと思います。また、自死の責任を勝手に背負うような真似は、祖母への冒涜のようにも思えます。」といった箇所です。
あなたは他の人の立場や気持ちをあなたの中の倫理と照らし合わせながら考えて、考えてしまうことそれ自体やあなた自身の気持ちを否定したり気持ちに蓋をしたりしているように見えました。周囲の人を理由にして自分の気持ちを押し殺して生きることが、もしかしたら日常的に行われている可能性もありそうだと私は思いましたし、そうやって押し殺していくことは辛いことだろうなと思います。いろいろなことを深く考えたり、人に共感したりするところから来ているのかな?と思いました。今あなたが抱いている「死にたい」という気持ちが祖母の自死を知ってからのものなのか、それともそれ以前からあったものなのか経験談からは分からなかったのですが、気持ちを押し殺してしまうところがあなたの生きづらさの1つなのかもしれないという印象を抱きました。
また、あなたは「○○しないと申し訳ない」という気持ちも感じやすいのかなとも私は感じました。私の話になるのですが、私は人から高額な誕生日プレゼントをもらったことがあります。そのときに、相手は「あげたくてあげてるから」と言ってくれたのですが、それでも「同じぐらいの金額のものを返さないと申し訳ない」と思って、当時あまりお金を持っていなかったのに無理して同じぐらいの金額のお返しをしたことがあります。経験談を読んでそのことを想起しました。
思ってしまうことはしかたないことというか、あなたなりの思考回路や価値観に基づいて考えや気持ちというものは出てくると思うので、その気持ち自体は否定しなくて良いのかも…と私は思います。とは言いつつも、否定することを日常的にしているとなると、「否定しなくていいと言われてもやめられないよ」と感じると思いますが…。
経験談の最後のところも「家族が幸せに暮らしてくれることと、祖母が死後の世界で何も苦しまずにいてくれることをただ願っています。」と書かれていますが、「ご自身の幸せは願わないのだろうか?」と私は思いました。周囲の人が幸せになるのも大事かもしれませんが、あなたが幸せを感じることもとっても大切なことだと私は感じています。
もしまた投稿したくなったらぜひ投稿してください。お待ちしております。