僕が死んだとして、どんな方法だろうか。いっぱいある。いつでも死ねる。僕が死んだとして、誰が見つけるだろうか。誰も責めないならそれがいいな。誰にも見つけられないまま、死んでも、いい。僕らしく最後もぼっち、なんてね。僕が死んだとして、誰が悲しむだろうか。いるわけないか。僕がいない世界は容易に想像できる。僕がパートナーと家族をつくる想像はできたことないのに。僕が死んだとして、どんな理由だろうか。生きるのがつまらなくなった?そんなの弱すぎる。いじめ?嘘はつけない。家庭内暴力?大嘘である。友達と喧嘩?喧嘩するような友達もいない。死ぬための資格があるなら、僕はきっと不合格だろう。
僕が生きたとして、どんな方法だろうか。僕が生きたとして、誰が見ているだろうか。僕が生きたとして、誰が喜ぶだろうか。僕が生きたとして、どんな理由だろうか。僕は何一つとして答えを知らない。きっといつか途切れる。僕は諦める。だから、考えても、叶うことなんてない。考えることをやめた。
僕には友達がいない。いわゆるぼっちだ。もうずっとこんなだから慣れた。でも、雑談している人を見ると胸がざわざわする。僕には恋人がいない。告白されたこともない、したこともない。それだけだ。僕は部活に入っていない。気づいたらまわりは部活に入っている人ばかりだった。僕は中3で燃え尽き症候群になった、多分。それまではずっと勉強が好きだった。中学部活(テニス)最後の試合で一回戦負け、団体戦も三年で唯一メンバー入りできず。そんなの僕だけじゃないはずだ。別の理由かもしれないし、なんなのか分からない。僕はその夏宿題が終わらなかった。親に何回か話のネタにされているから覚えている。塾の宿題も答えを写したりすることが続き、第一志望には合格できなかった。第二志望に通っている。高校に入学して1年と半年が経った。その間に精神科への通院が始まったり、リスカが始まったりした。精神科に通っているのは人と話すことに緊張するからだ。社交不安症と自閉症と診断された。僕はぼーっと透明なマントのような、フードのついたパーカーを着ているようなイメージで学校に行っている。病院に行って親が期待に満ちた、楽しそうな顔を見るのはみじめな気持ちになる。僕は病院でも警戒心が全面に出て、テンポよく先生と話せない。家では親といっぱい雑談をして、病院なんかいらないと思わせようと頑張っている。僕は過去も今も未来もどうでもいい。ラジオもテレビも人が話している全ての声がノイズに聞こえてくる。また寝たら闇に乗って明日がやってくる。ひたすらに時間がかかって怒られるからごはんの時間は苦手だ。家に帰ったらいきづラボやしにトリでいろんなコンテンツを読む。音楽だったら聴けるし、全部がノイズじゃないのかもしれない。僕は死にたいって思いながら生きたいわけじゃない、きっと。まわりからしたら怠惰な人間と思われていると思う。なに浸ってるんだろう、言い訳してるんだろうって。楽しみだったライブもテストで平均点以上をとらないと行けなくなった。僕には結構高いハードルだ。学びたい学問もない。大学とかどうやって行けばいいんだ。
僕は生きていくのがしんどい。僕は僕自身に甘すぎるのかもしれない。このしんどいが本当ならちゃんとした理由は分からない。僕がこれからも生きるならしんどいとの付き合い方を考えていかないといけない気がしてきた。その一歩として書いてみたが死にたいも生きたいも理由が分からなかった。あやふやでぐちゃぐちゃな文章過ぎて読みにくいかもしれない。ごめんなさい。
違う日に書いたから文脈が変かもしれないので追記とします。今日は隠れてしまえばいいのですに行った。AIに勉強が数学ができないという話をしたら、好きなことをはさんだらと言われた。それがぴんと来なくて、死にたいって言ったからだろう、相談センターに行ったらと言われた。チャット相談探したけど時間的に閉まってた。また死にトリに来た。僕はアドバイスをもらってももうどうしようもないのかもしれない、生きることに向上心がないから。それでも僕が書いたことを読んでなにか感じる人がいたら、僕の気持ちが受け止められたら嬉しいなと思って、少しわがままかもしれないけど書いた。進路選択が迫ってて、僕的にはもうすぐ死ぬくらいの気持ち(多分難しい)だから、正直ものすごくどうでもいい。僕にとっての死にたいは明日くらいの想像できない未来からぷつんと切り離すイメージだ。もうそれはくっつけることができない。だから僕は少し踏みとどまる。死ななくても切ったりぐちゃぐちゃにしたりひっくり返したりできたらいいのに。僕はなんで死にたいか分からないからチャット相談できない。死にたいの一点張りになってしまうから。どこから助け出したらいいんだって、思わせたら困るけど助けてほしい。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
僕の声を聞いてもらえたらいいなって思った
感想2
「ぼーっと透明なマントのような、フードのついたパーカーを着ているようなイメージで学校に行っている」という表現が文中にありましたが、あなたの思考と、あなたの感情の間にも、何か透明な膜のようなものがある印象を受ける経験談でした。わかりやすく言い換えると、感情をやや乖離させることで、苦しさや馴染めなさのある日々を乗り切っている、そういったあなたの生きる世界を私は感じました。
ちなみに私は自閉スペクトラム症と診断された者ですが、世界と自分がうまくつながらないような、この世界で何が起きていて自分のやりたいことが何なのか全然掴めないような、隔たりの感覚があります。中学生の頃が一番その感覚が強く、当時は友達がいなくて、別にそれ自体に苦痛はなかったものの、今思うと生きているのか死んでいるのかもよくわからないような曖昧な日々だったと感じます。
自分語りを失礼しました。あなたと多少は共通する部分があるかもしれないと感じ、自己理解のヒントや材料になるのではないか…?と思ったので書かせてもらいました。
私は死にたい気持ちというのは、激しくショックを受けるような出来事(あなたの言う「死ぬための資格」に相応しいだろうもの)以外からも生まれることがあると思います。例えば、慢性的な孤独や違和も、死にたいに至っておかしくない苦しみだと感じます。また、客観的に見たときに大したことのないように思える出来事でも、自分にとって傷つきが浅いとは限らないと思います。だから死にたいは、案外理由のはっきりしないことも多いような気がしています。
あなたの語りは率直で、誠実に言葉が並べられていると私は感じました。まさに「声」として、私に響いてくる感覚がしました。だからといって、それに明確にアンサーのようなものができるわけではないのですが、あやふやをあやふやのままに語ることが、実は一番自分を説明することになるのかもなあ、なんて思ったりしました。
進路選択は、あと何年かは生きる想定をした上で、考えて決断して、場合によっては受験勉強などの努力までしなくてはならないので、生きたいと思えない人には随分重たいものだと私は思います。そこには自己矛盾が間違いなくあって、生きていく想定で生きている人たちと自分とのギャップもさらに大きく感じられて、気持ちの行き場がなくなるように思いました。
しんどいとの付き合い方は私にもまだよくわかっていない、前途多難な部分がありますが、しんどい、自分はこう感じる、というのを語れる機会があることは大切なのかなと思っています。またよかったら死にトリを活用してください。
感想1
「死にたい」という気持ちがいろんな角度から、さまざまな要素を伴って表現された文章だと感じました。書きながら「自分はどうして生きるのがしんどいのか」に向き合った結果、これまでの経験を振り返り、自分自身の現状を俯瞰することになったのでしょうか。これだ、という決定的な要因はなくとも「積み重ね」と捉えることもできそうですが…なんとなく、どれもこれもしっくりこないような感覚があるのかなとも想像しました。1つ1つが「死にたい」を形作っているというよりは、「生きたい」と思う力を弱らせる要素になっているような、そんなニュアンスが思い浮かびました。
死にたい理由も生きたい理由も、そもそも見つけるのが難しい社会だと私は思います。私は社会人ですが、今は、生きたいと思えるほど安心できる世の中じゃないように思います(投稿者さんはこれから社会に出る年齢だと思うので、尚更そこに希望が持てないと難しいだろうと感じる)。そして死にたい理由を整理するにしても、世の中全体が見た目ではわかりにくい窮屈さや潔癖さ、孤独感に包まれていて、わかりやすい絶望はなくても決して自由には振舞えない、そんな息苦しさがベースにあると感じます。多くの人が漠然としんどい中では、死にたい、しんどい理由を見つけようにも「説明できる」「納得できる」ものでないといけないようなプレッシャーと共に、「恵まれているのに」というような人と比べる視点が切り離せなくなっていると思いました。そんな中であなたは「死にたくなってもおかしくない(不自然じゃない、許される)理由」を見つけようとしているのかなと想像しました。(それが悪いということではなく)「死にたい」という感情は社会の影響を多分に受けるものであると同時に、個人が持つ、誰かに否定される余地のない感情でもあると思います。けれど個人の感情にさえ理由や言語化が求められる世の中になってしまっているんだろうな、と改めて感じる経験談でした。
言葉にならないところから、言葉にならないままでも、「つらい」「しんどい」「助けて」そう伝えることが出来る(しやすい)そんな社会になればと思いますし、死にトリのコンテンツは、どんな形の発信でもなるべく受け取れる度量を持ち合わせた場所でありたいと感じました。