経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
「能天気」で「馬鹿」で「変人」な自分で今日も生きている。
馬鹿、だと言っても進学校に入学できている。
中1で連立方程式も連立不等式も一次関数もできる。でも、学校の平均から見たら“授業についていけない、点数が芳しくない馬鹿”だ。
「国語と社会と理科が得意でも、社会ではいらないよ」
じゃあ、なんで大学には文系っていうのがある?なんで主要科目として学んでいるんだろう。私は馬鹿だから何もわからない。数学と英語ができないと人としての価値はないらしい。
私は能天気らしい。
受験生の時は算数がネックだったが、それ以外の成績はまあまあ良かった。それゆえ嫌がらせが多かったが、のほほん(?)としていた。親が心配するほどだった。(らしい。)“そう言うとこ”なんだろうと思う。
「ポジティブな考えで、嫌なこと考えなくて良いよね!」
皮肉混じりのその言葉に、プラスの意味などどこから出てくると言うのだろう。私は能天気なのではなく、現実から目を背けただけだと思っている。多分、その思考も能天気さからくるのだろう。私はネガティブ思考をできない。
私は嫌われない程度に変人を満喫できているらしい。
それが努力の賜物であろうとなかろうと、表面しか見ない、人間という存在にはただの道化師のようにしか見えないんだと思う。隠キャ→陽キャ→変人へと推移した私の人柄は、私を生きにくくするための環境を整えてくれたらしい。
「〇〇といるとめっちゃ楽しい!」(〇〇には私の名前が入る)
そんな親友の言葉は、私が裏切っていたとわかった時の反応を考えるたびに痛くなる。失望させたくない気持ちと、早めに突き放さねばという気持ちがある。どんどん私の変人キャラはひどくなっていくんだろう。隠キャのまま、ひっそりと暮らせば良かったと後悔するしかない。
私は「能天気」で「馬鹿」で「変人」な、そんな人間だ。
“能天気ではなくなる”からODもジェンダーも隠そう。
“馬鹿に見えなくなる”から文系の大学にはいけないだろう。
“変人”でいるために自分のどんな感情、行動でもネタにしよう。
そう考えて生きるしかない。そう考えて生きることでみんなが幸せに暮らせるのだから。
感想1
“三つのもの”に、他人から勝手に貼られたレッテルを感じました。分けて書いてくれていたように、私も一つ一つに自分の考えを含め、感想を書かせてもらえたらと思いました。
“馬鹿”というのも、自分で、「ついていけない自分は馬鹿だ…」と焦りや不安から感じていたのもあるけど、他者から言われる”馬鹿”(または、そう思わされるような言葉)もあり、気付かぬ間にどんどん自分を苦しませていた部分もあったのかなと想像しました。同時に、「人としての価値はない」の言葉に、あなたは「いや、そんなわけない」と”理解している”様子も受け取り、社会や世間に対する”不信感・呆れ”も、文章から感じた私がいます。
例え親から心配される状態でも、自分がはっきりと、問題ないと感じていられればそれでいいと私は思うし、ポジティブなど、相手の性格や考えを決めつけるのは無責任かつ傷つけるものだと私は思います。あなたが「現実から目を背けたいだけだと思っている」という、自分の内面で納得できている答えがあって、それは能天気さからくるものではなく、もしかしたら他者からのレッテルや心無いジャッジから自分の心を守るために、自然と発動してきてしまった防御反応だったりしないだろうかと私は考えました。ネガディブ思考が出来ない=ポジティブ思考である!ではないと思いますし、(そこはあなたも感じてる部分かな、とは考えつつ)この世にある思考はポジティブとネガティブの二つではなく、人の数だけ無数にあるのかもしれない…と、ふと今思ったところです。
“変人”の話では勝手ながら共感していました。「嫌われない程度に変人を満喫できて」というのを読み、これま受けたやっかみや嫌がらせ・社会についての決めつけなどから、そういったものをまた強く浴びる事態を無意識にも恐れていて、それを避けられるルートが”変人”というものだったのではないだろうかと思いました。でも自分でも本来の姿がわからず、素の状態ではないような気がして、誰かを騙している気持ちになってしまったり、自分へのモヤモヤやイライラ、不信感もあったりするのかなと想像しました。(これは私が似た経験があり、全て憶測ですが)でも感じたのは、陰・陽・変、どれも全てそれぞれがあなたの一部であり、もしかしたらまた新たな一面が増えていく可能性も大いにあると思いました。でもすでにあなたは自分を客観視しているところもあり、わかっていることも多いのかなと感じた私がいます。誰かのためや、関わる人それぞれ一人一人に対し、変幻自在に変わる(つい変えてしまう)あなたがいて、そしてそこに苦しみがあるのかもしれないことも思いました。そういったところからも、こうでいなければ・この三つを確保していなければいけない…と考えてしまうのもあるかなと感じ、苦しむ理由が誰かのためならば、隠す・さらけ出すの判断も自分の気持ち次第で自由に出来て、ある意味でまた【変幻自在】で縛られずにいられたら…と勝手にですが私なりに色々と考えたところです。
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。
あなたの内面が、外界から隔絶された場所に、孤島のように存在しているイメージが浮かびました。普段の生活ではそれを完全に隠しているのだと思うのですが、これを読んだ私の感想としては、隠そうにも隠しきれない確かな自我や個性があるように感じました。
「能天気」で「馬鹿」で「変人」、親しみが込められていると同時に、相手の内面をちょっと軽視している表現という印象を私は受けました。とはいえ、自分で捉えている自分と、周りから見える自分は、随分違うこともあるのだと私も経験から知ってはいます。傾向としては、人はついつい、相手の人格や気持ちを自分の都合のよいように解釈しがちな気がします。
私は「面白い変人」といった評価を時々されますが、自分にとっては自分の感じ方が普通なので、自分が少数派とはわかっても、変なのはむしろ周りだと思ってしまいます。私からするとよくわからないことや、嫌だなあと思うことがあってもそれは黙っておいて、周りにウケそうな個性だけを出して「面白い変人」でいなくちゃね、と思うときがあります。でもそんなことを思っても、私も自分の都合のいい部分に注目して他人を見て、傷つけたりすることもあるとわかってはいます。
ただ、あなたについての「馬鹿」は、かなり偏ったコミュニティだから出てくる評価だなと私は(あなたの周囲に対して)呆れるような気持ちになりました。勉強のできるできないで賢いや馬鹿と評すること自体、私はナンセンスだと思っていますが、どんな才能も結果も、上を見れば上がいくらでもいます。個性といっていい突出したギフトをもつ人はまれにいても、ほとんどの人の学力は、比較するに値しない程度の能力差(違い)だと私は思います。
「国語と社会と理科が得意でも、社会ではいらないよ」というのも、「え、どういうこと?」とびっくりしてしまいました。大人の私からすれば、まあそういう視野の狭さも若さや幼さだよねと思えますが、他人に押しつけるのはいただけないですね…。
周囲からみた自分も、完全な偽物や間違いとは、たぶん言えないのでしょう。でも自分が思う自分も大切だし、自分の思う自分を見てくれる、知ってくれる人の存在は、誰にでもいてほしいと私は願ってしまいます。余計な励ましかもしれませんが、周りの年齢が上がったり、多様な価値観のある場所に行くと、きちんと内面を見る力や想像する習慣をもつ人に出会う可能性は上がると思います。
感想の最後に、私から見たあなたの個性を言葉にしてみようと思ったのですが、ズレてはいないかなという程度の表現は見つかっても、いいものが見つかる気はしなくてやめました。言葉が何かを伝えるための有効な手段だとしても、私は私で、あなたはあなたで、この世界には言葉で表現しきれるものは何もないのだと感じました。
感想1
“三つのもの”に、他人から勝手に貼られたレッテルを感じました。分けて書いてくれていたように、私も一つ一つに自分の考えを含め、感想を書かせてもらえたらと思いました。
“馬鹿”というのも、自分で、「ついていけない自分は馬鹿だ…」と焦りや不安から感じていたのもあるけど、他者から言われる”馬鹿”(または、そう思わされるような言葉)もあり、気付かぬ間にどんどん自分を苦しませていた部分もあったのかなと想像しました。同時に、「人としての価値はない」の言葉に、あなたは「いや、そんなわけない」と”理解している”様子も受け取り、社会や世間に対する”不信感・呆れ”も、文章から感じた私がいます。
例え親から心配される状態でも、自分がはっきりと、問題ないと感じていられればそれでいいと私は思うし、ポジティブなど、相手の性格や考えを決めつけるのは無責任かつ傷つけるものだと私は思います。あなたが「現実から目を背けたいだけだと思っている」という、自分の内面で納得できている答えがあって、それは能天気さからくるものではなく、もしかしたら他者からのレッテルや心無いジャッジから自分の心を守るために、自然と発動してきてしまった防御反応だったりしないだろうかと私は考えました。ネガディブ思考が出来ない=ポジティブ思考である!ではないと思いますし、(そこはあなたも感じてる部分かな、とは考えつつ)この世にある思考はポジティブとネガティブの二つではなく、人の数だけ無数にあるのかもしれない…と、ふと今思ったところです。
“変人”の話では勝手ながら共感していました。「嫌われない程度に変人を満喫できて」というのを読み、これま受けたやっかみや嫌がらせ・社会についての決めつけなどから、そういったものをまた強く浴びる事態を無意識にも恐れていて、それを避けられるルートが”変人”というものだったのではないだろうかと思いました。でも自分でも本来の姿がわからず、素の状態ではないような気がして、誰かを騙している気持ちになってしまったり、自分へのモヤモヤやイライラ、不信感もあったりするのかなと想像しました。(これは私が似た経験があり、全て憶測ですが)でも感じたのは、陰・陽・変、どれも全てそれぞれがあなたの一部であり、もしかしたらまた新たな一面が増えていく可能性も大いにあると思いました。でもすでにあなたは自分を客観視しているところもあり、わかっていることも多いのかなと感じた私がいます。誰かのためや、関わる人それぞれ一人一人に対し、変幻自在に変わる(つい変えてしまう)あなたがいて、そしてそこに苦しみがあるのかもしれないことも思いました。そういったところからも、こうでいなければ・この三つを確保していなければいけない…と考えてしまうのもあるかなと感じ、苦しむ理由が誰かのためならば、隠す・さらけ出すの判断も自分の気持ち次第で自由に出来て、ある意味でまた【変幻自在】で縛られずにいられたら…と勝手にですが私なりに色々と考えたところです。