経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「待って」ばかりの人生

私は最近鬱々とした気持ちが続き、無気力になって何も手につかない状態になっています。横になればスマホをいじり、座って机に向かえば絵を描くそんな毎日をおくっています。
本当は勉強をしないといけないし、課題をしないといけないし、部活やらなんやらで勉強以外のやらなきゃいけないこともたくさんあります。コツコツやればすぐ終わるなんてもう何年も学生をやっているから分かるはずなのに何もできません。今まではなんとかぎりぎりにでもやっていたはずなのに。
勉強や課題だけではありません。学校へ行くのも難しくなっています。授業に出ても別にぼーっとして座ってたら最低限の成績はもらえるだろうと考えて、出席だけは頑張ってたのに。もう家から出るのも怖い。学校に行きたくない。別にいじめられてるとかそんなことはないんです。むしろ優しくて可愛くて素敵な人ばかりのクラスで恵まれてると思います。ただいきるのに少し疲れた。
生きてたらやらなきゃいけないことがどんどん増えて、それをこなすスピードがもう追いつかなくなってきているような気がします。自分のやらなきゃいけないことには友達との約束なんかも含まっているから、学校へ行かなくても人と関われば必ず増えてしまいます。だからもう疲れちゃって何もしたくないんだと思います。たったそれだけでこんなにも動けないなんて情けないですけどね。
いつのまにかいろんな人に置いていかれて私は一人で必死に皆の背中を見ながらずっとはしってる、そんな感覚があります。皆は一歩一歩着実に歩いているけど、私はこけてばかり、寄り道ばかりで置いていかれて、焦って走ってるからろくな積み重ねもなく、普通なら上手くいくことも上手くいかない。そうこうしているうちに皆との距離が離れて、距離が離れたことによる壁が増えてずっとぶちあたってる。もう乗り越えるような元気もない。普通に生きるためにどれだけの努力を要するのか想像もつかない。全部過去の自分が招いた結果なんですけどね。
とはいえまだ学生だし、いくらでも色んな道があるのだからのんびりして道を選んでもいいと思う自分もいます。他の人がそういう話をしたら私はそうやって言うと思います。のんびりでいいんだよって。
けど、私自身がそう思っても、他の優しい人がそう言ってくれたとしても、世間一般じゃ許されないのも事実です。少なくとも私には普通を外れて個性を伸ばす勇気はない。普通もそれ以外も何もかもが怖くてもう一歩も動けません。
皆、ちょっと一旦待ってほしい。一旦待ってくれたら私も一緒に歩く。一緒に生きる。皆と一緒に生きたいから、待って。
いや、待ってくれなくてもいい。せめて、この状態の私のことを見つけてほしい。振り返ってみてほしい。そしたら置いていかれた私でも頑張って生きていいって思えるので。

感想1

経験談の投稿ありがとうございました。文章を読みながら、周りのみんながどんどん遠く離れて行き、置いてけぼりになってしまったような、ぽつんと一人疲れたあなたから眺め見る景色が目に浮かんで来るようでした。
学校という世界は、特殊で独特な世界のように感じます。行くか行かないか選択肢があるようで無く、行かない選択をした場合には自分一人だけが取り残されたような疎外感を感じてしまうように思います。勉強をする意味さえ、深く考える時間も余裕も与えられないまま、あたかも当然のように勉強や部活を頑張る人、元気で明るく友達が多い人、先生や大人の言う事を素直に聞ける人等、今の学校教育で求められる人間像は画一的な傾向があるような気がしています。

あなたの疲労感や、これ以上は無理という思いが私の元へと痛みも同時に伝わってくるようでした。「全部過去の自分が招いた結果なんですけどね」と書いてくれましたが、もし多様に価値観の違った学校があったとしたら、それを自由に選択できていたとしたら、今の疲労感に繋がっていただろうかと思ったので、全部過去のあなたが招いた結果とは私は感じませんでした。
あなたの学校に行くことの怖さについて、これは私の想像なのですが、自分自身の主体性やペースが尊重されないまま、外側の基準にほぼ強制的に巻き込まれることの抵抗感が「怖さ」と繋がっているんじゃないかって想像しました。(違っていたらすみません)
その感覚は「自分らしく生きたい」という思いの裏返しなのではとも思いました。

「いくらでも色んな道があるのだからのんびりして道を選んでもいいと思う自分もいます。」と書いてくれましたね。「のんびりでいいんだよ」と内心考えているあなたは、ものごとを俯瞰してみることができる力を感じます。もちろん社会に出たら生活するためにお金を稼がないといけないし、周りの人のスピードに合わせる時もあるかもしれないけど、自分が納得した上だったとしたら、そこにもエネルギーを注ぐこともしやすくなるでしょうし、でもやっぱり合わないと思ったら環境を変えることも出来ると思います。学生時代より社会には選択肢が沢山あり自由度が増えるのも確かだと思うので、自分のペースで自分らしく過ごせる環境だったり人間関係だったりを選択して過ごして欲しいなと思いました。その社会の中のひとつに、死にトリもあるので、また立ち寄ったりして欲しいなと思っています。
「待って」ばかりの人生というタイトルは、自分一人だけ置いてけぼりになっている側面と、違和感に気づいて一人でみんなを「待って」いる状態なのかもとも思いました。

感想2

学校、お疲れ様です。私もいじめられていたわけでもないけれど学校が苦手で、不登校だったりもしたのですが、大人になってみても別に無理に行かなくてもよかったなと思います。あなたも言うとおり、いろんな道はあると思います。ただそんなことはわかっていても、あなたには「皆と一緒に生きたい」という気持ちがあるからこそ、葛藤が大きいのかなと思いました。

でもそう考えると、今度は、学校では「皆が一緒」が当たり前ということ自体、稀有な場所のような気もしてきます。私の中では、会社はそれぞれバラバラな印象がとても強く、仲のいい人はいても、それぞれの生活をしている感じがします。ほかにもコミュニティはいろいろありますが、その中でも学校は年齢も同じか近い人が多い場所だから、一緒に入学一緒に卒業が当たり前な感じがするのかなぁ……と改めて考えて不思議に思っていました。

そんな中で、置いていかれるような感覚はとても切迫した気持ちになると思います。私も若い頃、自分はなんてのろまなんだろう…どうして人と同じようにできないんだろう…と思って死にたくなっていました。だからなにか自分の中の感覚を喚起されながら経験談を読んでいます。
私は自分の中で納得のいかないことを納得のいかないままするのが苦手で、他の人はなんの問題もなくやっていることで、停止してしまうことがあります。それはたぶん一概に短所とも言い切れないのですが、学校での集団行動には向かない性質だったと思います。

のんびりしていることが「世間一般じゃ許されない」というなら、その世間はとても未熟なので、成長が必要だと思います。実際世の中の価値観はアップデートがまだまだたりない部分がたくさんあると思います。大人の一人としては、そんな世の中であなたを困らせて申し訳ない気持ちです。でも世間も一枚岩ではない、とも思いますし、変化の途中でもあるのだと思っています。

文章全体からあなたの感性やイメージの世界をふしぎと感じる経験談だと思いました。平易な言葉で坦々と書かれているのですが、あなたの語りの中にすっと入っていくようなそんな独特の感覚がありました。普段から、自分の思いや状況を言葉にして考えてきている人なのかなぁと思います。あなたがそれらを押さえつけて無理に走り続けなくても、座り込んでも、道端に寝転がっても、脇道へ行っても大丈夫な場所が増えてほしいです。歩くのが早くないなら自転車でもいいのかもしれませんし、いろいろな方法もあるはずです。
あなたの経験談から、そんなことをもやもやと考えていました。投稿してくれてありがとうございます。またあなたの表現や感覚を教えてもらえたらうれしいです。

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