経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

希死念慮と共に生きてきた私の体験

自分の経験を思うがまま表現するとどうしても拙い文章になるため、自分の思いを書き出して生成AIで要約しながら文章化しました。

私はASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)という、いわゆる発達障害を抱えたまま大人になりました。子どもの頃から、何をしても周りの人のようにはうまくいかず、気づけば常に「追いつこう」と必死に足掻いていました。周りの流れから取り残されないように、遅れないようにと努力を重ねてきましたが、その中で感じるのはいつも「できない自分」への苦しさでした。

この感覚は、幼い頃から今に至るまで変わることなく続いています。
昨年になってようやく障害の認定を受け、現在は就労支援を受けながら再就職を目指しています。しかし、その環境の中でも「頑張っているのに結果がついてこない」「自分の実力のなさを思い知らされる」という現実に、何度も心が折れそうになります。

努力しても報われないことに疲れ果て、思い切ってSOSを出しても、返ってくるのは「考え方を変えましょう」「行動を直してみましょう」といった言葉ばかり。助けを求めたはずなのに、「自分が変わること」を求められるだけで、かえって負担が増えてしまうのです。自分なりにもう十分頑張っているのに、さらに努力を求められるたび、心がすり減っていくのを感じます。

また、周囲から見ると私は「普通」に見えるようです。だからこそ、やっとの思いで助けを求めても、深刻さが伝わらず、誰にも気づかれないまま放っておかれることが多くあります。「誰も拾ってくれない」「声を出しても届かない」という孤独の中で長い時間を過ごしてきました。

そうした状況が積み重なり、最近では心の底から疲れてしまいました。何をしても楽しいと感じられず、以前は大切にしていた絵を描く趣味にも手を伸ばせなくなりました。頭がぼんやりとして、体が鉛のように重く、何かを始めようという気力が湧いてこないのです。

そして、かなり前から私の中には「希死念慮」が常に存在しています。
何かを選ぶとき、「もう生きなくてもいいのではないか」という考えが自然に浮かんでくるようになってしまいました。もちろん、自分でもそれが一時的な感情であることは理解しています。けれど、どんなに気にしないようにしても、その思いを完全に消し去ることができません。頭の片隅に常に「死」という選択肢がある生活は、想像以上に苦しいものです。

「どうすればいいのか」「どこへ向かえばいいのか」——そう問い続けても、答えは見つかりません。
助けを求めても届かず、努力しても報われず、心の中の疲弊だけが積み重なっていく。そんな状態の中で、私はただ生きることそのものに迷い、立ち止まっています。

それでも、こうして言葉にしてみようと思ったのは、自分の中にある思いを外に出さない限り、誰にも伝わらないと気づいたからです。孤独の中で閉じ込めてきた気持ちを、少しでも言葉にすることで、同じような苦しみを抱える誰かが「自分だけではない」と感じてくれたらと思いました。

希死念慮は、決して「弱さ」ではありません。
生きることに疲れたとき、心が限界を迎えたときに現れる、切実な「助けて」というサインだと今では思っています。
私自身、今も出口を見つけられずにいますが、こうして言葉にすることで、少しずつ自分を見つめ直していけたらと願っています。

感想1

経験談への投稿ありがとうございます。読ませていただきました。ASDとADHDを抱え、ずっと自分以上の何かになれるよう努力されてきた様子を感じました。「できない自分の苦しさ」を現在に至るまで抱えてこられたと書かれていましたが、同時に「満たされない思い」もずっとあったのではないだろうかと想像しています。

どうすれば満たされたと思えるのか、報われたと思えるのか・・。考えていると「結果」だけを見ようとするとそれはとても遠くほんの一握りの道のりのような気がしてきます。1000人参加するマラソンがあったとして、上位に入れるのはほんの数人。上位に入れない人がみんなできない人かというと、完走する、自己ベストを更新するなど、さまざまな形の「努力の報われ方」があると思います。

しかしながら、「結果が全て」と思わされる学校や社会やメディアのあり方も影響してなかなかそう思えないわたしというのもいます。さらに特性があると「1番でなければ全て負け」という考え方を一度学習するとそれ以外の考え方を受け入れるのが難しいこともあると聞いたことがあります。(わたしのパートナーも特性があるのですが、今だにゲームでも勝ちにこだわり、負けると異常に悔しがったり、子供に手加減もせずに勝ちにこだわる様子を見かけたことがあります。)

自分の「いい」に到達できなければ全てダメ、もしかしたらそんな考え方が知らない間にあなたにも身についてしまっているのかもしれないなと思いました。

頑張ったのに、それを認められないというのは誰に認められなくてもとても辛いものです。それを努力を一番知っている一番近い「自分自身」に否定されるのは、死にたいと思うほどの辛さではないかなと思うのです。

あなた自身は変わらなくていい、ありのままのあなたでいてほしいなとわたしは本当に思います。ありのままでいられない「社会」が変わらなければいけない、変わるべきだと思います。

そんな社会の中で、今できることはなんだろうなあと思うと、人間、元気が出るのは「自分らしくいられたとき」。ありのままの自分を、まずは自分が否定しない、その練習を一緒にしていきたい思いです。この文章も、その第一歩に思えます。またいつでも書き込みに来てください。

感想2

投稿ありがとうございます。文章を読みながら「自分をどう理解されるのか」と悩みずっとどこか孤独感を抱えてきたような、「それでも誰かに届いてほしい」とこうして綴って届けようと思ったあなたの中にある地力の強さを感じていました。ただ「苦しい」という訴えではなく、“努力しても報われない構造の中で生き続けること”への切実な問いかけが滲んでいるような印象を抱きました。
ASDやADHDといった発達特性をもって生きるということは、周囲の人たちと同じリズムで動けない苦しさを常に背負うところもあるのかなと私は思います。それにもかかわらず、社会の多くは「頑張ればできる」「考え方を変えれば前向きになれる」などという、あまりに一面的でしかないし粗雑な根性論をベースに捉えられてしまうことも多く、その結果、“支援”という名のもとに、本人がさらに自分を削って合わせようとするような、そんな矛盾した現実が根付いてしまっているよなと改めて考えさせられました。
「助けを求めても届かず、努力しても報われず」という言葉に、表面上は“普通”に見えてしまうがゆえに、苦しみが過小評価されてしまうというのか、その「見えなさ」こそが、自分の存在が揺るがされてしまったり、不安感や孤立感にも繋がっていくのだと読みながら痛感しました。社会の側が“理解したつもり”で終わらせてしまう構造こそが、人をさらに追い詰めてしまうということにもっと私たちは目を向けなければいけないなとも思います。
社会はしばしば、“前向きに生きる”ことを求めてきて、「立ち止まる」ことや「疲れた」と言うことを許さない風潮があるなと…。けれど、あなたのように“立ち止まりながらも、それでも言葉を紡ぐ”という行為が、そんな社会を少しでも変えるために必要なことだと私は感じています。
「生きる意味」や「どうすればいいのか」という問いは、今すぐ答えが出るものではないとは思いますが、あなたがこの先心休まる時間がほんの少しでも確保できたり、安心して自分の思いをそのままに出せる人や場所に出会えたらな…と思っています。死にトリは受け止めることくらいしかできないかもしれませんが、また必要に感じたらいつでも訪れてくださいね。

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