経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

やりたい事はほとんどやり尽くしました。

ついこの前、40歳になりました。
特にこの15年、やりたいことをすべてやりました。だいたいのことに満足してしまって、これ以上生きることがつらいのです。

今は毎日出勤していますが、わたしが居ても居なくても同じことで、むしろ居ない方がいいのではと感じます。誰も虐めてきたり、酷いことをするわけでもありません。だけど、ただそこに立っているだけで不安で悲しいのです。

わたしには1人子どもがいて、ある人は「お母さんいなくなったらかわいそう」というけれど、別にわたしがいなくなったとしても、子どもはどうにか1人で生きていかなければいけないでしょう。

現在勤める会社にはメンター制度があり、この間は上司に相談する機会がありました。
日々満足しているので、そこでも相談することなんてありません。正直に言うとすれば「ただそこにいるだけで消えてしまいたい思いが湧き上がってくる」ということですが、そんなことは会社のメンターに話すことでもないでしょうから、言いませんでした。話したところで面倒な人だと思われても厄介です。

次に心理カウンセリングに行くことも考えましたが、こんなことには答えなんて誰も見出せない。話してどうにかなるものではなさそうだからやめました。

そして、友だちに話すことも考えたのですが、それもやめました。友人たちはみんなとても優しいです。だからこそ、「これ以上生きていきたくない」などと、一般的にネガティブな、そしてまた話すことで到底解決できないことを吐き出して聞かせたくないのです。

電話やSNSの相談にアクセスしてみましたが、返事がありませんでした。

そして、こちらに辿り着いて、体験談を投稿しているというわけです。

このモヤモヤとした悩みの解決策としては2つあります。

1.これを抱えながら、今まで通り人知れず隠れて泣きながら暮らして寿命を全うする

2.ひっそりと命をおしまいにする

後者を選択できないのは、失敗したらより面倒くさいことになると想像できるからです。その想像すらする余裕がなくなった時、人は2を選ぶのでしょうね。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。タイトルの「やりたい事はほとんどやり尽くしました」という言葉から、静かな絶望感と諦めの中、長い時間をかけて生き抜いてきた心の疲弊が深く刻まれているようなイメージを抱きました。表面的には何も問題がないように見えても、日常のすべてが霞がかったような、ただ「そこにいる」こと自体が辛くなってしまう感覚は、心の奥にある“生きる理由“が音もなくゆっくり消えていってしまっているところもあるのかなぁと、自分も抱く感覚とすり合わせながら想像していました。
「やりたいことをすれば幸せになれるのか」と言えばそうではないと私は思いますし、実際には、やり尽くした後に訪れる虚無や孤独のほうが自分を占めているようにも感じています。
この社会は「成長し続けること」や「次の目標を持つこと」を前提にしているように感じることも多いですし、そこに乗っかることのできない自分に気づいてしまった時の何とも言い難い感情を考えると、あなたの「これ以上生きることがつらい」という言葉もそう思ってしまうのは無理もないことだと私は思いました。
あなたが会社や友人、カウンセラーなどに相談することをためらったのは、きっと「言葉にしたところで誰もこの感覚を本当には理解できない」と分かっているからなのかなとも思います。人を傷つけたくない、人の時間を奪いたくないなどそうやって他者への配慮を続けてきた結果、最後に自分の痛みだけが宙に取り残されてしまっているような感覚もあったりするのかなと勝手ながら考えを巡らせていました。優しさ(とだけに括るものでもないとは思いますが…)ゆえに孤立していく人たちが、この社会には本当に多いなとあなたの経験談を読んでも他の人たちの経験談を読んでも思うことです。
あなたがここに綴ってくれたことはただの独白とかではなく、現代を生きる多くの人の“声なき声”を代弁しているように私は感じました。社会が人を“がんばり”と“成果”でしか評価しない中で、あなたのようにこの社会で生きることに疲れてしまった思いを抱えながらも生きている人の“痛み”をどう受け止めていくか、生きづらい社会の中で何ができるのか…考え続けなければいけないことだなと改めて強く思わされています。せめてあなたにとって死にトリがありのままに心の内を表現できる、ちょっとした心の休息場として在れたらいいなと勝手ながら思いました。受け止めることくらいしかできないかもしれませんが、また必要に感じた時はいつでも訪れてほしいです。

感想2

「やってみたいこと」を糧に走り続けてきた15年を経て、40歳という数字とともに立ち止まった(やりたいことがあまり思い浮かばなくなってきた)タイミングで、「生きること」への徒労感が急速に身体や思考を覆っていったようなイメージが浮かびました。糸がぷつんと切れたような感じなのか、今までもじんわり溜まっていたものが表出したのか…あれこれと想像を膨らませています。

考えてみれば、自分自身も日々わずかな愉しみやあたたかさを見出して生きていますが、それらを積極的に数える気も起きないときや、数えるものすらないときには、生きることへの大変さ、途方もなさに一気に心を持っていかれてしまいそうになるなあと感じます。あなたが同じようなイメージを持っているかはわかりませんが、「これ以上生きることが」という言葉には、なんだか自分と近からずも遠からずな「生きること自体への意欲の不安定さ」を感じざるを得ませんでした(ぜんぜん違ったらすみません)。

「これがあるから(ないから)つらい」というはっきりしたものがない、このぼんやり感がよりモヤモヤを内側に募らせ、外側に出すことをためらわせる、このジレンマすらも煩わしさと「生き続けること」への徒労を加速させるのではないかと思います。とりとめのなさも生きづらさそのものだと私は思うので、よければまたここを訪れてみてほしいです。

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