年上の知人が新しい命を授かったことを聞いた。
私は40を過ぎて子を持たずにきた身。
自分の気力体力、精神病、経済力、どれをとっても困難がつきまとい、結婚しても子を持たないように過ごしてきた。
夫は私の希望を理解しながらも、やはり子を持つことへの憧れを捨てきれずにいる。
自分の精神状態は日々不安定で、二人暮らしなのにイライラや不安が制御できず、夫を厳しく詰めたり、大声で唸ったり、自分の体をドンドン叩いてどうしようもなくなる時がある。あとから自己嫌悪が来て、死にたくなることもあるし、疲れやすくて寝てばかりいる。
そんな私に子どもを育てるなんてできないと思う。これ以上他人に迷惑をかけることはしたくない。
なのに、なのに、今日の報に触れ、揺れてしまう自分がいる。なんでだろう。自分は頑張りを放棄しているように感じるのか。
最近2歳になる甥に会った。かわいいと思う自分がいる。昔は子どもをかわいいとすら思わなかったのだから、だいぶ変わったと思う。
勇気を出してもっと頑張らなければならないのだろうか。
私が産み育てることが社会のためになることなのか、産まずに他人に迷惑をかけないことが社会のためなのか。
妊娠した知人のことは喜ばしい。彼女には他にも子どももいるから、経験やノウハウがある。お金と体力の問題がクリアできれば、きちんと育てられるだろう。
でも私は自分のこともままならない。それなのにうらやましいと思ってしまった。
信念を持って諦めていたのに、何なんだろう。心が揺れて、消化できない。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
子を持つ選択
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。恐らくこれまでずっと誠実に自分の人生や心のあり方と向き合ってきたのではないかなと感じながら読ませてもらいました。子どもを持たないという選択を“楽だから”ではなく、精神状態や体力、経済的な現実、そして他人への迷惑を考えた上で決断してきたのだと思いますし、その過程で、夫さんの気持ちにも気づき、理解しながらも自分の限界と向き合ってきたことは決して「頑張りを放棄した」ということではなく、むしろ責任感と現実感覚のある、あなたにとって最善の選択だったように私は思います。
ただ、それだけ誠実に選び取ってきたからこそ、知人からの今回のような報告を耳にしたときに、心の奥が揺れるのはごく自然なことだと私は感じます。甥っ子さんへの気持ちの変化は、あなたの中にこれまでとは違った感情が育ってきた証でもあり、その気持ちが過去の決断とぶつかって混乱を生むのも無理はないなと思います。私自身も配偶者がいて強い意思で子を持たないという選択をしていますが、それでも周りからの声に心が揺さぶられることはあるなぁ…と感じていました。
社会的にも、子どもを持つことが“大人の責任”、“女性の幸せ”といったイメージで語られ続けている現実があって、そうした空気の中で「産まない」という選択をした人が、自分の価値や頑張りを疑ってしまうのは、日本では特に起きやすいことなのかもしれないなと改めて考えていました。でも本来、産むか産まないかは誰かに評価されるものではなく、どちらの選択にも尊厳と意味があるはずです。社会が多様な生き方を受け入れるようになるには、こうした心の中の葛藤や揺らぎを「弱さ」として決めつけることはしないというのが一つ必要なことだと私は思います。
文中に「勇気を出してもっと頑張らなければ」という部分がありましたが、その言葉には、社会が刷り込んできた「母になること=頑張ること」「産むこと=社会貢献」という価値観が影を落としているようにも私には映りました。でも、あなたがすでにしている「生活を維持すること」「夫さんとの関係に向き合うこと」「自分の不安定さを自覚して責任を持つこと」などそれ自体もう十分頑張っていることだとお伝えしたい気持ちになりました。私も自分の判断が本当に良いのか立ち止まってしまう時もありますし、何が正しいか正しくないのかよく分からないですが、そういう社会のメッセージに振り回されることなく誰もが安心して自分を生きていけたらいいのに…と理想論に過ぎなくても、あなたの文章を読んで強く思わされました。
自分の心の揺れと向き合うことは容易なことではないですが、こうして心の内を言葉にすることであなたの中で何か違うのであればまた声を届けてもらい、一緒に考えて、言葉を交わせたらなと思いました。
感想1
あなたの投稿を読みました。読んでいて、子どもを持つことへのハードルも、それでいて「子どもを持つべきというような価値観も、まず社会の問題だと感じました。とくに女性は、これまで歴史的にも「母」となることを社会に強く要請されてきました。もちろんそれもさまざまな生活のひとつの選択肢ではありますが、逆に言えば選択のひとつにすぎないとも思います。
だけどあなたの選択がこれまで考え抜いた上でのことであるにもかかわらず「自分は頑張りを放棄しているように感じる」というのは、これまで言われてきたり、さまざまなメディアで触れてきたりしたメッセージによる要素も大きいのではないかと思いました。
この国では、まだまだ女性と男性で比べると、女性のほうが子育てに多くの役割を求められる状況も続いているように思います。それもこの先50年、100年すれば変化したり、もっとサポートが増えたりするのではないかという未来への期待も個人的にはあるのですが、現状すぐには変わってくれない現実があるようにも感じています。とくにあなたの場合は、夫さんの憧れを身近に感じながらも諦めるべきと考えてきたということで、知人の妊娠を聞いたり、小さい子と関わったりするたびに、あなたの中で揺れる心はこれまでもあったのかなぁと思います。
また、別に親だけが子を育てる必要も本当はないと私は思っています。子どもが安全に安心を感じて、さまざまな学びを得ながら育っていくには、親だけがメインで関わるという以外のやり方も無数にあるはずです。それなのに、親に責任を押し付けながら、子どもを育てることを求めるような矛盾した世の中は、どうやったら、多少なりともましに変わるのだろう……どうやったら、気負うことなく子どもを育てられる社会になるのだろう……とあなたの経験談を読んで考え込んでしまいました。とは言っても、現状も子育てを支援する仕組みも増えてきているところではあるように思いますし、選択を諦めろというつもりもとくにはないです。ただ、経験談を読んで、あなたの責任問題として悩む姿を感じて、本当ならそんなふうに思わなくてもいいはずなのに……さまざまな生き方が優劣なく肯定される社会であってほしいのに……と思ってしまったのでした。