子供の頃から人に嫌われることが多かったように思います。いつか、これを攻撃誘発性と表した本があったような気がします(言葉は少し違うような気もしますが)。いつしかアイデンティティという概念はなくなりました。いいえ、初めからなかったのかも分かりません。色んな自己がわたしの中にあります。思考回路がまるで全く変わってしまったような、そんな感覚があります。実際はもっと自然でその変わってしまった感覚すらありませんが。自分がどういう人間か、そういうものに驚くほど関心が薄いのです。それなのに、周囲からの視線には気を配ります。優秀であることに固執しました。とはいえ、成果を出せたことはありません。おそらく高い評価をいただいたものは少なからずあるはずですが、わたしはそれを評価として認められない。それらが無価値だとは思いません。わたしがそれらに価値を見いだせないだけで。人から向けられる好意はどんな形であれ純粋に嬉しいものです。周りの大人から大人びていると言われることに自分の価値を見出していました。わたしはわたしが優秀だと思うために様々な検定に手を出しました。結果は合格。準備さえしていないのに。難易度が低いからでしょう。一応今は少し級の高いものに挑戦しつつありますが、最近は全ての評価に懐疑的になり、興味は遠のいています。何回も受かって次の級、次の級、と上に行く中で、わたしはとてつもない自己効力感を感じました。わたしは人よりも勉強していないのにと。飛んだ自惚れです。けれど、その自己肯定感とは裏腹にわたしはいつまで経っても現時点の自分を認められることはできませんでした。とめどなく溢れていく情動に震えながらも、どこか空虚感がありました。いつになればわたしはわたしを認められるのだろうと。わたしにとってそれはかけがえのない価値の欠片。優秀の烙印を欲しがった。しかし、わたしは誰よりも子供でした。いつまでも甘ったれた子供。どんなに煌びやかな評価を得てもわたしには不相応です。わたしは大人から得られる評価で自惚れ、他人を否定し嘲ることで自分の価値を構築していく人間。わたしは聡明でありたかった。友人に衒学的な態度を取ることもありました。それらは全て見せかけでした。文質彬彬に、正しく、高貴に生きることはできなかった。わたしは自分の浅はかさを隠すために偏った知識を構築し半端な知性を得たのです。なにかを否定し成り立つ本質は非常に脆弱です。現に、わたしは今でも強烈な自己否定と自己効力感の中で揺れ動いて生きている。他人を尽く否定し続けたわたしは誰よりも子供です。わたしは時々、こういう子供地味た言動を繰り返すことで、自分が誰よりも子供であることを大人に気付いてもらおうとします。気付いてくれる人は当然いません。仕方ないのです、今更高評価で塗り固められ厚くなった鎧は簡単には壊せません。その鎧の中で中身を腐らせているとは知らずに。わたしのメーデーは誰にも届きません。いいえ、きっと出せてもいないのでしょう。わたしの内面は脆い。その内面に触れられることすら許せない。他人を許せない、自分が許せない。救済は、なかったのかもしれないです。少しでもわたしの出来の悪さを言葉で隠そうとしたのですが、それはかえってダメだったみたい。他人から自分がどう見えているのかからしかわたしは自分を見つめられない。心の奥底ではわたしは他人から否定されたいと思っているのです。自分では自分を罰するのに限界がある。肥えた自罰感情とこれからどう生きようか。いっその事終わらせてしまおうか。自殺の真似事ばかりして。まるで独りよがりの演劇だ。見てくれる観客も一人もいません。当然です、これほど無様な茶番劇は誰も見ませんから(笑)。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
わはは!
感想2
経験談の投稿ありがとうございます。読みながら、あなたが自分の内面を正確に、そして誠実に見つめてきたのだろうなと感じました。幼い頃から「他人の評価」にさらされ続け、自分の存在の根拠を外側に置いておくしかなかった苦しさが、あるようなそんな印象を受けました。
“優秀であることに固執しながら、どこか空虚感がある”という感覚は、決して個人的な弱さだけではなく、社会そのものの構造にも結びついているもののように私は思います。日本の学校教育や家庭の中で「成果を出す子ども=良い子」とされ、内面より結果を先に問われる環境は、自己認識よりも「人にどう見られるか」に敏感な感性を育てがちだなと…。そうした土台で、“自分は何者なのか”という問いを育むことが難しくなるのは、むしろ自然なことだと私は思います。
知識や検定、評価を積み重ねながらも、「今の自分を認められない」というねじれた構造があってそれは、ただの自己否定ではなく、自己効力感と自己否定が交互に押し寄せる状態で「自分を保つための仮面」と「仮面の下で息をしている自分」とのあいだで引き裂かれるような感覚もあるのかなと想像していました。“成果や能力によってしか自分の価値を証明できない”とこの社会が暗黙に強いてきたものも大きく影響しているように感じ、改めてこの社会の生きづらさを痛感させられています。
また、あなたが「子供であること」をどこかで自覚し、それを誰かに気づいてほしいと思う一方で、厚くなった鎧がそのサインを覆い隠してしまう、というところが印象的でした。人はしばしば「強さ」や「優秀さ」のイメージに自分を押し込めることでしか、脆さを守れないことがあると私は思っています。そうして守られた内面は、誰にも触れられない場所に置かれてしまい、結果的に孤独や理解のされなさへの不安などが深まっていくのだと思います。
「独りよがりの演劇」「観客はいない」という比喩には、自分をどこか俯瞰で嘲笑うような思いが滲んでいるようにも感じましたが、ここまで自分を客観視できていること自体が、あなたの内面が完全に閉ざされていない証のようにも私には映りましたし、文章を通して、あなたが自分を正直に見つめ、言葉にできる強さを持っているのだろうなと感じています。自分を俯瞰して見れてしまうがゆえに、自分の脆さや弱さを突きつけられる苦しさもあったりするのかなと感じながら(私もそういった節はあります…)、外から見て自分はどうかではなく、自分は本当はどう感じているのかといった視点で、また機会があればあなたのお話を聞いてみたい気持ちになっています。良ければまた死にトリに声を届けてください。お待ちしています。
感想1
興味深く読ませていただきました。自分……というのはどこで見出すものなのでしょうね。私たちは集団の中で「それぞれ」の個人でありながら、周囲に合わせたり、慣習を取り入れたりしながら生活するいきものです。だけど、個人として在ることと集団に適応することのバランスはとてもむずかしいと思います。
あなたの冷静さと自分自身への皮肉をも感じさせるような筆致が印象に残っています。この書き手であるあなたは、ずっと自分を観察し、制御することで生きてきた人なのだろうと感じました。
子どもの頃から嫌われる経験をしたこと、周囲の眼差しを感じ取る必要がある環境にいたこと、検定や大人びていることなど、大人から評価される要素を身につけていく力があること……それら一つ一つが重なる中で、あなたはとにかく周囲に自己を合わせていくスタイルの生存戦略を身につけてきたのだと思いました。
評価に懐疑的という部分を読んで、たしかに評価というのは時代や文化で優先度合いが大きく異なる、かなり相対的なものだと私は感じました。ただ、逆に言えば、あなたは本質的に揺るがない評価や価値を求めたい思いも持っているのかなと思いました。
ただ、そのこと自体にも、つまり「鎧」となる部分と、その中のあなた自身の状態の解離にも、あなたは痛いほど気づいているのだろうと想像しています。だけどその鎧を脱げるわけでもないのにどうにかできる気もしない……という中での「わはは!」なのかなぁと思ったりしました。
それにしても、弱さ、もろさ、脆弱性、攻撃誘発性といった言葉が、英語だと同じvulnerabilityという語で表されるというのは不思議な感じがします。弱いということは、攻撃されやすいということ、とイコールなのでしょうか。人はもともと弱い存在だと思います。そうしたら、傷つきから守るための鎧や武器をまとうしかないのでしょうか。私自身も、鎧を身にまとって生きてきた部分があると思うし、多くの人はそうだと思います。
ただ、周りに合わせたり、能力的に評価されたりすることが鎧になるとき、その鎧をつくっていくのが得意な人もいれば苦手な人もいて、私はそれがそんなに得意な方ではなかったと思うのですが、あなたの場合はそれがある意味でとてもうまくできたからこその、しんどさ…という部分もあるのかなと思いました。たぶん武士とかも、家に帰ったら鎧を脱いでいたはずですが、評価によって作られた鎧は自分でも脱ぎ方がわからなくなってしまうことがある気がします。
自分がどういう人間かに関心が薄いとありましたが、私は自分がどういう人間かということについて、子ども時代から大人になった今でもよく考えていて、さらに、他の人がどんな人間で自分とどんなふうに違うのか……ということを聞いたり、知ったりするのがとても好きです。ある意味で、私はすごい自己中心的な人間なのかなと思います。
あなた自身についていろいろと勝手に思いをめぐらせていると、この経験談では、あなた自身について語るときでも、あなたが主語ではないことが多いように感じました(まったくないというわけでもないのですが)。これまでの経験を考えれば、人からの評価を自分としてきたなら「わたしは」という発信がしっくりこなかったり、むずかしかったりするのも自然なのではないかと思います。だからそれが悪いということではまったくないのです。ただ、これも私のわがままですが、できれば私はあなた自身を主語にした言葉を、もっと聞いてみたい…と思ってしまいました。人についてでも、食べ物でも、音楽でも、天気でも、なにについてのことでも、あなた自身が感じたことをもう少し聞いてみたいです。私はごろごろしながら歌うのが好きで、雨の日は疲れるのですが、雨の風景はけっこういいなと思っています。あなたの言葉を、また聞かせてください。