経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
「終わりにしよう」を胸に抱き
暗闇に迷い込んだ当初このサイトに出会い、それからあっという間に半年以上が経ちました。
私は未だ暗闇の中にいます。
あの後、ありがたくも支援相談の窓口と繋がることができました。
しかし、「一方的に連絡を取ってくる」「疎遠になっていない」「生きている」親がいる限り、私は支援を受けられないそうです。
実家に戻ったところで私は休めないのに。
心身ともに休めるような環境がないから、頑張るしかないから、頑張っているだけなのに。
私のようなケースで支援の網に引っかからない人は沢山いるのでしょう。
ですから、どうして私だけが、という言葉を使うのははばかられます。
ただ、このやるせない気持ちのやり場がわからない。
もう気力などとうに枯れ果てて、惰性で生きているにすぎません。
最近は、返すものを全て返してしまったら、もう何もかも終わりにしようと考えています。
生まれてこのかた、人生というものに振り回されてきました。
疲れました。
明るい未来を話してくれる友人はいますが、その未来に進む気力も意欲も今の私にはありません。
できる限り他者に迷惑をかけずに終わるための事柄を調べ、準備を粛々と進めるほうが、よほど気持ちが楽になるのです。
こんなことを周囲の人間や友人に言ったって、冗談だと取られるんだろうなと思いながら文章を書いています。
仕方ありません。
誰かといても、私は孤独です。
ずっとそうです。
胸の内を語り合い受け止め合える存在など、きっと生きているうちには出会えないのでしょう。
…こうやって考えている時間すら苦しい私は、終わりにすがるしかもう生きるすべがないのです。
生きなければ、返すものも返せませんから。
感想1
今年の初めに投稿してくださったものと併せて、経験談を読ませていただきました。
いずれもタイトルが印象的で、投稿者さんが「人生を閉じる」ということについてずっと考え続けていること、それを考えることがかろうじて「今も生きていることへの説明」を可能にしているような感覚があるのかなと想像していました。「人生というものに振り回されてきた」という言葉が私の胸を貫いていき、この感想を書き出した今も、その意味を考え続けています。「人生」は他者から見ればその人が握っているものに見える、だからこそ「自己責任」という言葉がここまで定着しているのだと思いますが、投稿者さんの言葉でいうならば、自分のものではないような感覚、「人生」という乗り物から降りられないような感覚が強いのかなと解釈しています。もしこの解釈が大きくは外れていないとしたら、そんな乗り物を「あなたのものなんだから自分でコントロールしてね」と言われることはどうしようもなく苦痛だと思いました。
「死ぬときは皆独り」とはたびたび聞く表現ですが、それに励まされるには「独りではない日々の記憶」が必要な気がしていて、投稿者さんの抱えてきた深い孤独と並ぶと、むしろ身勝手な社会の言い草にも聞こえる表現だったのだなと悲しい気持ちになっています。
「きっと周りに言っても冗談と受け取られるのだろう」という思いについて、そういった反応をされるたび、社会や支援からNOを突きつけられるたび、「相手と自分が見てきたもの、味わってきたことの違い」を痛いほど感じてきたのだろうかとイメージしています。世の中にある救いになりそうな言葉や支援、人の存在も、違い(という呼び方が適切か迷いますが)を超える想像力やコミュニケーション、明確な策が無い限りは、むしろ「救われない」という失望感や孤独感を増幅させるのではないでしょうか。投稿者さんの文章からは、必死に目の前の生を繋いできたことを感じる一方で、世の中にある個々の事情や感情にフィットしない枠組みや、前向きさを支持する風潮、生きることへのハードルなど、さまざまな「普通」や「一般論」「マジョリティ」等々に晒されてきたからこその苦しみも強いように感じました。「人は居るのに手を差し伸べる人が居ない」ような社会との距離感が、投稿者さんの孤独感を増しているように思えます。
書いているうちに、自分の中で消化しきれないものを無理やり言語化したようなところもあり、表現がわかりにくい部分も多くなってしまったかと思います…すみません。勝手ながら、投稿者さんと、生きることを巡るどうしようもない虚しさについてやりとりさせてもらったような感覚になったことをお伝えして、感想を終えたいと思います。投稿ありがとうございました。
感想2
再びの経験談への投稿ありがとうございます。死にトリを思い出してくれたことを嬉しく思っています。
文章を読み終えて、暗闇の海の上に浮かぶ、寄る辺のない一隻の船をイメージしました。どこへ向かうでもなく静かに佇む姿に、言葉にし難い孤独と寂しさを感じています。
相談支援の窓口へ繋がったことは、当初は安堵しつつも、制度の狭間に置かれてしまったことでかえって傷つく経験になってしまったのかなと感じました。
我慢して無理をしている状態なのに、どれほど苦しいか分かってもらえないことは本当に心が折れる瞬間だと思います。
あなたがおっしゃる通り、いわゆる制度に当てはめようとすると、こぼれ落ちてしまう人はたくさんいると私も感じています。
それは社会問題であり、家族が物理的に「いる」ということとは別に、関係性に悩み苦しんでいる人々が多数いること、状況に応じたサポートや配慮が必要だということを、あらためて訴えていかなければならないと感じています。
どこにも行き場のない気持ちを一人で抱え続けることは、心身ともに気力を削がれることだと思います。
ほとほと疲れ切った今のあなたにとって、未来の兆しを見つけることよりも、終わりに思いを馳せることの方が、心が落ち着くのでしょうかね。
ご自身の気持ちを周囲に伝えても、真剣に受け取ってもらえないように感じることが書かれていましたが、思いがどこにも届かないように感じてしまう無力感もまた、世界に対する絶望を深めていることを感じています。
思ったことをつらつらと書いてしまいましたが、日々のままならなさや絶望に、私も共に連なっていけたらと思っています。
よかったら、あなたの思っていることや考えていることをまた聞かせてほしいなと思っています。
感想1
今年の初めに投稿してくださったものと併せて、経験談を読ませていただきました。
いずれもタイトルが印象的で、投稿者さんが「人生を閉じる」ということについてずっと考え続けていること、それを考えることがかろうじて「今も生きていることへの説明」を可能にしているような感覚があるのかなと想像していました。「人生というものに振り回されてきた」という言葉が私の胸を貫いていき、この感想を書き出した今も、その意味を考え続けています。「人生」は他者から見ればその人が握っているものに見える、だからこそ「自己責任」という言葉がここまで定着しているのだと思いますが、投稿者さんの言葉でいうならば、自分のものではないような感覚、「人生」という乗り物から降りられないような感覚が強いのかなと解釈しています。もしこの解釈が大きくは外れていないとしたら、そんな乗り物を「あなたのものなんだから自分でコントロールしてね」と言われることはどうしようもなく苦痛だと思いました。
「死ぬときは皆独り」とはたびたび聞く表現ですが、それに励まされるには「独りではない日々の記憶」が必要な気がしていて、投稿者さんの抱えてきた深い孤独と並ぶと、むしろ身勝手な社会の言い草にも聞こえる表現だったのだなと悲しい気持ちになっています。
「きっと周りに言っても冗談と受け取られるのだろう」という思いについて、そういった反応をされるたび、社会や支援からNOを突きつけられるたび、「相手と自分が見てきたもの、味わってきたことの違い」を痛いほど感じてきたのだろうかとイメージしています。世の中にある救いになりそうな言葉や支援、人の存在も、違い(という呼び方が適切か迷いますが)を超える想像力やコミュニケーション、明確な策が無い限りは、むしろ「救われない」という失望感や孤独感を増幅させるのではないでしょうか。投稿者さんの文章からは、必死に目の前の生を繋いできたことを感じる一方で、世の中にある個々の事情や感情にフィットしない枠組みや、前向きさを支持する風潮、生きることへのハードルなど、さまざまな「普通」や「一般論」「マジョリティ」等々に晒されてきたからこその苦しみも強いように感じました。「人は居るのに手を差し伸べる人が居ない」ような社会との距離感が、投稿者さんの孤独感を増しているように思えます。
書いているうちに、自分の中で消化しきれないものを無理やり言語化したようなところもあり、表現がわかりにくい部分も多くなってしまったかと思います…すみません。勝手ながら、投稿者さんと、生きることを巡るどうしようもない虚しさについてやりとりさせてもらったような感覚になったことをお伝えして、感想を終えたいと思います。投稿ありがとうございました。