わたしは、幼い頃からずっと父親から虐待を受けていた。
学校の先生やカウンセラー、児童相談所などに相談をしたが、結局、何も変わることはなく、無理やり家を出るしかなかった。
わたしは、誰かに相談をすることで、何かが変わると信じていた。状況が変わると信じていた。
しかし、現実は厳しく、結局は自分でどうにかするしかない、ということを思い知った。
今までいろんなサイトに、いろんな悩みを相談してきた。
けれども、具体的な解決策は見いだせなかった。
ある時、友人が「もう死ぬしかない」と悩んでいた。内容はとても辛いものだった。
わたしは何もできなかった。
話を聞くことと、あてになるかわからないアドバイスしかできず、とても歯痒かった。
きっと自殺していく人たちは、問題が解決しないから死んでいくんだと思う。
もし完全に問題がなくなったとして、「生きたい」と願う人はどれだけいるのだろうか。
今日も救えないし救われない…この世界が憎い。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
救えないし救われない
感想2
相談をしても解決に結びつかない経験があなたに諦めや虚しさ、失望、絶望、そして憎しみをもたらしたのだろうと感じました。私はこれまで相談や支援に携わってきたので、あなたの心からの訴えに真摯に耳を傾ける気持ちです。現状の相談における限界は私自身感じることが多いので、この現状をどうしたらいいのか?と考えを巡らせています。そして、あなたにもう少し意見を聞いて、どんな相談や支援があればいいのか一緒に考えたいと思いました。
そして最後の方に書かれていた「もし完全に問題がなくなったとして、「生きたい」と願う人はどれだけいるのだろうか。」という問いかけについて、考えています。あなたが考える「完全に問題がなくなった」というのはどういう状態をイメージしているのかなと考えながら、私は問題が完全になくなることはないのではないかと考えています。ただ、それは悲観的な意味ではなく、人の力には限界があるし、生きている限りは日々何らかの問題は起こりうるし、問題が起こるからこそ学んだり、解決の中で生み出されるプロセスがあると思うから、問題があることは自然であり、あってもいいと思う気持ちがあるからです。そう考えると、あなたの思う「完全に問題がなくなった」というのは問題が起こらないというより、問題があっても何らかの解決のために人が支えあえる世の中のことなのかもしれないと思いました。一人ひとりが生きる中で悩んだり、困ったり、問題はあるけれど、それを放置しない、何とかする…そんな世の中であれば、「生きたい」と思う人が増えるかはわかりませんが、少なくとも「死にたい」「消えたい」と思う人は少なくなるように思いました。
誰かを救うこと、誰かに救われることはその時のタイミングや組み合わせによって結果が出ないことがあるかもしれませんが、私は問題を抱えてそれを訴える人の存在によって、ともに考えて学ぶことはできると思っています。人はつながること学ぶことによって解決する力を高めると思っています。あなたの経験談にも学びの要素があると感じました。それが私たちにとって何かしらの力になると信じています。
感想1
投稿ありがとうございます。救いということ、救われる、ということについてじんわりと頭の中に思考を広げながら読みました。私もしんどい状況に対して解決志向が強いほうで、これまでもSNSや電話相談、病院などのさまざまな場所で、状況の解決を求めて相談をしてきました。だけど話したところで具体的な解決方法が見つかるわけでもなく、絶望的な気持ちになったこともあります。
状況が変わらない中でも何度も相談をしたこと、家を出るべきだと思って、「無理やり」家を出ることができたことは、あなたの力だし、すごいことだとも思いつつ、「結局は自分でどうにかするしかない」ということをあなたに突きつけ続けてきた世の中の、そのあまりにも大きな不足には、くやしい気持ちになります。
「問題が解決しないから死んでいく」という言葉に、亡くなった方や、私も含めて、死にたいと思うたくさんの人たちの周囲をとりまく、それぞれの絡みあった「問題」に思いを馳せています。
私自身、解決したい、どうにかしたいという気持ちがかなりあるほうなので、カウンセラーに「傾聴」されても無意味と感じてしまうことが多いタイプなのですが、でも最近、大きな解決ではなく、大きな救いでもないけれど、すこしだけ糸がゆるむような瞬間にも意味があることも感じたりします。
そんなことを考えていると、「解決」と「救い」は、まったく同じことでもないのかもしれない……とも思いました。あなたにとっては「救い」というのは「解決」とほぼイコールの言葉なのでしょうか。それとも、違う部分や要素もあったりするのでしょうか。ちょっと聞いてみたくなりました。
「もし完全に問題がなくなったとして、」という仮定についても興味深く読んだのですが、「完全に問題がなくなる」ということ自体のイメージのむずかしさを感じています。
それから、私は「生きたい」という能動性はあまり必要ではない気もしています。ただ、「生きている」という事実と実感が苦痛と絡みあっていることのむずかしさを、すこしずつでも解いてゆく、剥がしてゆくことが必要なのかなぁと思ったりもしました。いや、それがとてもむずかしいのですが……。
あなたが友人の話を聞いて、心をいためながら、なにかしたかったという思いもまっとうなものだと思いました。そして「何もできなかった」ということはないようにも思いました。「この世界が憎い」という言葉の中には、自分を救ってくれなかったものへの憎しみと同時に、自分がそれを変えられない悔しさやもどかしさみたいな感覚もあるのだろうか…と思いました。
私はこの「社会」と地球や宇宙を含む「世界」は全然別のものというか、「世界」のほんの一部の「社会」で生きていると思っています。この社会は人間が試行錯誤し、たくさん間違えながら改良し、現在でもとても不十分でたくさんの問題があり、発展途上ですが、絶対的なものではないからこそ変化していけるものだとも思っています。
私は社会には失望することも多いですが、この世界には人間だけではなく多くの存在があり、その中にいることはとても興味深いと思っています。もちろんその感覚を押し付けるつもりもないのですが、あなたの文章を読んでいて、そんなことを思ったので書いてみました。