経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死ぬほど頑張ったが脳力不足による解雇。生きる希望への悪影響

9年前、部活の仕事を覚えられずできなかったことがきっかけで先輩からパワハラを受けたこと、はじめての一人暮らしや失恋等が重なりうつ病を発症しました。
その後は5年ほど寝たきり状態になり、大学は何とか教授のご厚意で卒論は免除、卒業できましたが、大学院は進学できず、1年間院試浪人を挟んで大学院に進学しました。

幸いにもかなり恵まれた家庭で育ったため、お金の心配はなく大学院まで行かせてもらいましたが、社会復帰をするためにバイトから始め、
週5ジムに通うなど、努力を継続してまいりました。

寝たきりだったのでジムは死ぬほど苦痛でしたが、何とか3年ほど頑張っています。
ところが、この度新卒で入社した会社から能力不足による解雇になりました。
無職。また振り出しに戻りました。

会社員は健康でいること、メンタルは自分で機嫌を取ることが当然のこととされ、その上で自己研鑽も求められました。
なのでそれに応えようと必死で努力して参りました。

会社は利益を生み出す場所なので、上記は何も間違っていないですし、正論ですね。
でもだからこそ、もう頑張れないし、もう就職活動にも生きていくことにも希望が持てなくなりました。

業界業種すら決められず転職サイトを見るだけで苦痛の状態で転職活動ができない。
彼氏とも別れたので、ここで頑張らないと人生が詰みそうだとわかっていても動けそうにないです。

今は両親と生活していますが、母からこの先どうするの?と事あるごとに言われます。
この先経済的にも精神的にも自立もできそうにないので、毎日死のうかと思っています。

コミュニケーションに問題はないと言われたが、愛嬌や振る舞いで能力不足は誤魔化せず。
お金があるかどうかはメンタルに大きな影響を及ぼし、健康に必須なものなのかと理解しました。

感想1

あなたが本当に死ぬほど頑張ったことがひしひしと伝わってきました。そして、死ぬほど頑張っても、その努力が報われないことをとても理不尽に感じています。その背景には能力主義というものがあるのだろうと思います。あなたが書いてくれた「会社は利益を生み出す場所なので、上記は何も間違っていないですし、正論ですね」という一文が私に重く響きました。確かに正論なのかもしれないですが、それでいいのか?いや、違うだろうと思う自分がいます。利益を生み出すことが悪いわけではないと思うのですが、それだけが価値となっていることが、あなたの苦しみを生み出しているように思います。人が働くのは利益を生み出すためだけではなく、他にもいろいろな価値があると私は思っています。それが何かといわれると、人によっていろいろありすぎて「これだ」とは言えませんが、働くことの多様な価値について私たちは考えていく必要がある…とあなたの経験談から痛感しています。
あなたが好きなことや得意なこと、生き生きとできる瞬間がきっとあったのではないかと感じました。それが、社会の強い能力主義の中に潜んでしまったような気がして、もどかしく思います。死ぬほどの努力したことが、生きる希望を失わせるような世の中は悲しすぎます。個人の能力だけが問われるのではなく、いろいろな力量の人たちが支えあって生きられる世の中になるためにはどうしたらいいのか一緒に考えたいと思いました。

感想2

投稿読みました。長い時間、病と共に過ごしながら、それでも大学を卒業し、大学院に進学し、さらには身体を動かすことを続けてきたという大きな努力の積み重ねをあなたの文章から感じました。けれど、その努力が“正しく評価される場”に出会えなかった苦しさや、社会という枠組みが求める「当然」が自分の身体や心の状態に対してあまりに過酷であったことが、深い無力感となっているのだと私は感じています。
会社にとって利益を生み出す人材であることが「前提」になるのは事実ですが、その一方で、人が心身を整えて働くまでにどれほどの個人差があるか、その幅を受け止める余白はまだまだ狭いと感じます。「もう頑張れない」と書かれた言葉の背景には、すでに長い時間をそれこそ“死ぬほど”必死に頑張り続けてきたことが伝わってきますし、能力不足と判断されたこと自体が、努力を重ねてきた過程を否定されたかのように響いてしまうのも無理のないことだと思いました。
また、経済的な自立や仕事の有無が、心の安定に直結していることも文章から強く伝わってきました。お金は単なる生活の道具ではなく、安心感や未来を描く力の土台にもなるものです。だからこそ、働くことや収入を得ることに向き合うときに、精神的な重荷が一層増してしまうのだと思います。そして「この先どうするの?」という言葉が、現実的には必要な問いかけであると同時に、弱っている心にはさらに追い詰めてしまうものなのかな…と想像しています。お金がなくても得られる大切なものがたくさんあることは私自身これまで生きてきた経験の中で感覚としてありますが、生活をしていると結局のところお金があるに越したことはないよね…という場面が多いのも確かなので、何ともやるせない気持ちになってしまいます。
読み進めながら、「動けない自分」を責めながらも、「本当は動きたい」「希望を持ちたい」という気持ちが微かに見え隠れしているように思いました。社会がもっと多様な人の在り方を受け入れる仕組みがあれば、あなたのように努力を続けてきた人が、努力を「報われないもの」として抱え込まずに済むはずなのにな…と改めて考えさせられています。
これまでの年月の重みと、いま直面している苦しさを思うと、軽々しく言葉をかけられないと感じたのが正直なところですが、ただ、あなたがここまで自分の状況を言葉にして書き出していること自体が、まだ自分を諦めきっていない証のように私には思えました。社会の理不尽さや限界に押し潰されそうになりながらも、“生きている自分”をこうして言葉という形で残すことができている、それは、誰かが下す「能力不足」という一言に比べて、ずっと大きな意味や価値を持っていると私は思いました。あなたにとって死にトリがこれからも役に立つようであれば、また訪れてほしいです。投稿、ありがとうございました。

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