経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自業自得の抑鬱

拙い文章なので理解しづらい点がありましたら申し訳ありません。

私は課題を提出することがとても苦手です。課題のみならず、やりたくないことからは徹底的に逃げてしまいます。
当然社会に生きる中でそんな行動は許されるはずもなく、小さい頃から先生や親に毎回怒られてきました。
親には「結果が伴わなくても、精一杯努力した結果ならそれで良いんだよ」「ただし頑張らずに酷い結果を取ってくるのはダメだ」と毎回言われてきました。今思うとまだ優しい教えだなと思います。
結果もだせないどころか頑張る気すら見受けられない、言われたことも満足にできない、そんな迷惑をかけてばかりな人間は社会の荷物にしかなれない。
そうずっと考えています。
「自分は努力が”できない”んだ」と思いたい私と、周りからのサボるなよという至極真っ当な声にずっと悩み込み、結局今も変わらず何も出来ない無能、という自分の姿だけが残っています。
自分が課題を出せない原因はなんなのか、あれだけ言われて怒られても勉強しないのはなぜなのか、考えても「やる気が出ないから」という答えしか出ず、「やる気なんて皆は自分でちゃんと出して頑張ってるじゃん」と思いますが、ではなぜ自分は皆と同じようにやる気を湧かせられないのかは分かりません。

今は毎日を無気力に過ごしています。
もう数年前からずっとこうなのかもしれませんが、何かする気も起きずやりたいことも特になく、言われたこともやる気が出ず、行動に必要なモチベーションが軒並み欠落しています。
授業も集中できなくて毎日保健室に通ってしまい、そうやってまた逃げている自分に嫌気が差して自分を責めることを繰り返しています。
早く死んだらいいのに、誰にも迷惑をかけず消えられればいいのに、生まれてこなかったことになればいいのに、といった願いをずっと考えて、叶わないという事実に苦しくなるだけ、とても無駄な時間を過ごしてるように思います。
もう「幸せになりたい」とか「努力できる自分になりたい」とか「認められる自分になりたい」といった思いも湧きません。
ただ生きることに疲れました。自分を責めて周りに怒られて、生きていても価値のない人間だと分かって、それでもまだ頑張って真っ当に生きようと思えるような理由は見当たりませんでした。
周りに迷惑がかかるから、痛そうだから、失敗するのが怖いからという理由で自殺を実行していないだけで、毎日の一瞬一瞬を普通に過ごすのがもう精一杯です。
もう何もしたくないしすべて投げ出してしまいたいです。1日中何も考えず、ただベッドでゆっくり寝て休むことが許される状況にいたいです。何にも追われず急かされず「できない私でも良い」と誰かに言ってほしい。
それは迷惑な怠け者のダメ人間の存在を肯定してくれと言っているのと同じ意味で、同時にとてつもない我儘であることも分かっています。
でももう疲れてしまった。

感想1

投稿読みました。何年もかけてじわじわと積もってきた「無気力」と「自己否定」の重さが、そのままの形で綴られているように感じました。努力ができない自分、やる気の出ない自分、課題を出せない自分…そういった部分に対して、「なぜできないのか分からない」という混乱と、「できないことは許されない」という強い自己批判が交錯していることが伝わってきました。
特に印象的だったのは、「努力が“できない”」という言葉ににじむ、どこか諦めのような、自分への理解を求めるような表現です。これは怠惰ではなくて、むしろ「頑張れなさ」自体が大きな苦しみであって、そこから逃げたいのに逃げられないという葛藤を私は感じました。努力できる人が“正常”とか“評価”される中で、そうではない自分を認められず、自らの存在を責め続けてしまう構造は、この社会の「成果主義」や「自己責任論」とも深く関係しているように思えます。
また、「何もしたくない」と「何もできない」は、似ているようでいてとても違うものだなと、改めて思わされました。前者には拒絶や抗いが、後者には諦めや無力感が含まれていて、あなたの文章には両方が重なって存在しているのかなと私は感じました。そしてそのどちらにも、“休むことの許可”が与えられない社会の冷たさが、間接的に表れているようにも見えました。
本当に何もしたくない、全部投げ出したいという思いは、甘えや我儘ではなく、限界を迎えた心と身体が発している叫びであると私は思います。けれどその声に耳を傾けるよりも先に、「そんな自分を責める」ことのほうが当たり前になってしまっていることが何よりもあなたを苦しめているようにも私は捉えています。
「迷惑な怠け者のダメ人間の存在を肯定してくれと言っているのと同じ意味」とあなたは綴っていますが、それが社会の“普通”なのだとしても、少なくとも書かれたこの言葉は、深い疲労と、願いにも似た痛切な感情の訴えが込められているように感じます。そこには、自分を見放したいけれど見放しきれない、だからこそ誰かに“見てほしい”という思いがあったりするのかもしれないなとも思ったりしました。(全然違っていたらすみません)
「ただ休みたい」「何もせずにいたい」という気持ちは、きっともっと早い段階で認められるべきものだったのではないかと思いますし、本来であれば誰にでもそういったことが許される(そもそも許可なんて必要ないことだとも思いますが)社会であるべきだと私は思います。無理に頑張らなくてもいい日々や、何もしたくない時期を“過ごすこと”自体にも意味はあるはずです。(私自身も努力が苦手で、無気力な自分を責めてしまったり、追い込まれないと取り組めないところがあるので、そう自分にも言い聞かせたいだけなところはあるのかもです…)
この先あなたに、自分が望むようなペースで、少しずつ、自分を責めずにいられる時間がほんの少しでも増えていくことを願っています。何かを成し遂げる前に、“ただここにいてもいい”と感じられることや、心や行動の遅れや滞りが、必ずしも意思の欠如によるものではないということ、それをきちんと共有できる場所の一つとして死にトリは在り続けたいと私は思いました。また、こうして気持ちを言葉にすることがあなたにとって何かしら役に立つようであれば、いつでも訪れてほしいです。経験談の投稿、ありがとうございました。

感想2

「自分が高校生の時に思っていたことと同じだ…」と強い共感を覚えた勢いのまま、感想を書かせてもらっています。
私自身、課題の提出や日々の自宅学習、習い事の練習など「やらなければならない(とされている)こと」「努力すべき(とされている)こと」を何ひとつ自主的に頑張れたことが無く、親に言われても先生に怒られてもまさに「やる気が出ない」以外の何物でもない、という感じの学生時代でした。「私は努力ができない人間なんだ」「このままでは何にもなれず社会で生きていけない」と絶望していて、ずっと死にたいと思っていました。なので、投稿者さんの気持ちを「全部自分と一緒だ、わかる」とは言えないですが、かなり近い思いをしてきた人間だとは思っていて、だからこそ「どれもこれも我儘だとも怠けだとも思わないよ」と、まずはそれを一番に伝えたくなりました。

(ここからはなんとなく聞き流してもらっても大丈夫です)
「大人になったら~」というふんわりした励ましのようなものは、当時の自分が一番されたくなかった声掛けなのでしたくないのですが、やっぱり大人になって視野が広がったところはあるなと思います。なのであえてひとつ言うとしたら、「社会人は学生よりも”あまり頑張らないで何とかする”選択肢を知る機会が多いと思う」ということは伝えてみたいなと私は思いました。
「頑張る」ってすごく定義が曖昧だと思うのですが…(勉強や仕事がすごく好きな人は一旦置いておいて)たとえば「そこまで好きではないけどやっている」人と、「好きではないからやりたくない」人だと、前者の方が「頑張っている」人として評価される気がします。でも私は「好きではないことでもちょっと頑張ったらやれる」のと「好きではないことをやるのがとにかく苦痛」な人は根本的にタイプが違うし、どちらが偉いとか悪いという話ではないんじゃないかな?と思います。私は今20代の社会人ですが、学生時代の制約や求められる努力の量と、社会人になって求められる作業量や行動量はそもそも別のものという感じがします。学生時代に求められるもののほうがより漠然としていて、かつ全員を同じ指標に当てはめて評価する仕組みで「何をどのくらい頑張るか」がすごく限定されている環境だと思います。今の社会が何かをやり遂げる事や目標を持つことにかなり縛られている風潮があるよなと思いつつ、その中でも「自分は主流(という表現が正しいかわかりませんが)からは離脱してマイペースにやっていく」という選択が、学生時代よりも取りやすいという側面はあると思います。
ほとんど持論のようになってしまってすみません…。共感するあまり、自分の思いが先走っているとも思いますし、これが絶対ということももちろんないです。

「努力できて当然」というくらい圧力の強い社会の中で、思うようにできない私のまま、あなたのまま、どうやったらやっていけるのか、一緒に話してみたい気持ちになりました。投稿いただき、ありがとうございました。

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