私はいま現在、大学に通わせてもらっている者です。
この10年程、やりたいことがなくて、誰とも交れなくて、居場所がなくて、消えたい、死にたいと思う毎日を過ごしてきました。
昔からあまり、生きてることに現実感がありませんでした。 子供の頃から、身体を動かして、スポーツをしたりして競争すること、自転車に乗って遊びにでかけている友達のみんながよく分からず… 時が過ぎて、恋愛であったり、進路のことであったり、バイトを始めたり、お酒が飲めるようになったり… 歳を重ねても、そういうイベントが実感が持てないままで、ずっと居心地の悪さがあります。その潜在意識からか、まず小学校で不登校になりました。そこから、自分に自信が無くなって、人の目が怖くなりました。 何もできない自分は無価値だと考えた私はなんとかいい偏差値の学校に入れば変わるかもしれないと勉強をすることにしました。中学受験に落ちてますます高校受験に向けて勉強し、必死に追い込んだ果てに、なんでこんな事やってるんだろうと鬱になり 追い求めていたいい偏差値の高校は受かったものの、そこから唯一の指針だった、拠り所だった勉強にも手がつかなくなり 高校も転校して、空っぽのまま今まで生きています。 落ち切った時よりはメンタルが回復して、大学には行けているのですが、何をしたらいいのか、ずっと分かっていないまま生きているフリをしている気持ちで居ます。
今の私は、よくよく客観的に見たら、私の周りには昔からのも含めてよくしてくれるお友達もいる、彼女もいる、音楽やお笑い、自分を癒してくれる趣味も色々あるのです。 親もお金を出して大学まで行かせてくれています、本当にありがたい、恵まれていると思うんです。 側から見たら私が日々鬱々としている事に誰も気づかないかもしれない。すぐ死にたいと思っている、簡単なバイトをするのも怖い 人と関わるのが怖い、助けを求めるのが怖い、将来が怖いし、全てをやめたいと思っている… そんなわがままな子供のような、小学生の頃の不安な気持ちに未だに支配されている自分。取り繕って、隠してきて…最近はもう、これまで不安を感じ過ぎたのか、頭も回らなくなってきて 情けないことにぼーっとしていることが増えてきました。何をしたいのか、よりもやがかかってきたのです。私はこれを書いてどうしたいのか 分かってほしいのか、叱ってほしいのか、そんな自分の気持ちも含めて、わからないままでいるのです。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
わからないまま
感想2
映画のように膝を床に着き頭を抱えるあなた、そして画面いっぱいのもう一人のあなたの顔が下から照らされ「そうだろ、そうだろと」大きな手でうなだれるあなたを覆うそんなワンシーンが浮かびました。書かれているように、「小学生の頃の不安な気持ちに未だに支配されている自分」が、その時々のあなたのコンディションで、大きくなったり気にならなくなったりしているような様子を想像しました。
事情や状況は違えど、わかるなぁと心で何度もうなずきました。学生時代の私は「空虚感」そんな言葉が常にグルグルと渦巻き、コンビニバイトの「いらっしゃいませ」がどうしても言えず二日で辞め、一層雨雲がかかったような状態となっていました。
幼少期のあなたは「何もできない自分は無価値だ」という気持ちを燃料に、中学そして高校受験に挑んでこられたかと思います。自分の出来不出来を都度チェックし息が切れそうになると手を離す、自分自身に翻弄され実はすごく疲れ切っているのではとも思いました。そして「何か乗り越えた訳でもなく、成長をした訳でもなく、やり過ごしているだけなのです。」この一文に私自身ぎくりとしながら、それでもここまでやってきたあなたを労わずにはいられないと率直に思う自分がいました。一人で生ききるのが、なんとなく心細いような瞬間もあり肩を組むように、「自分にとって自分は価値がある」と小さな声で言い合えるそんな場面があってもいいのではといつも考えていたりします。そんなことを共有させてもらいたくなりました、投稿いただきありがとうございました。
感想1
投稿読みました。「自分がこの世界に馴染めない」という感覚をずっと抱えながら過ごしきた時間の長さが伝わってきました。表面的には進学し、友だちもいて、趣味もあるといういわゆる“普通”の枠に収まっているように見えても、内側ではその枠に自分の心がついていっていないそのギャップこそが、日々の「居心地の悪さ」や「現実感のなさ」につながっているのだろうと感じました。
“何かをしたい”という衝動が育たないまま時間だけが過ぎていく感覚というのか…、成長や何かを成し遂げることを重ねても、自分が空っぽのままであるという感覚が消えないことは、目には見えない分、周りからはその苦しさや辛さがなかなか理解されないし分かりづらいのだろうと感じますし、「助けを求めるのが怖い」という気持ちも、“自分なんかがこんな風に苦しいとか辛いとか思ってはいけない”などという思いをどこか感じてしまっているがゆえのことなのではないかなと想像していました。自分だけが周囲から置いていかれているような、心がずっと迷子な状態であるイメージを抱いていて、孤独感も含めて想像以上にしんどいことだと私は思います。「恵まれている」「ありがたい」という自覚も、自分を何とか保つためには今の苦しさや辛さを否定する必要があるからなのかなと思いつつ、でも実際はそうした環境や状況だからといって、気持ちまでも必ず比例しているとは限らないと私は感じます。
また、「わがままな子供のような、小学生の頃の不安な気持ちに未だに支配されている」感覚からいまだに抜けず、自分でもどうしたいのかわからないという言葉の中には、安心して甘えたり、迷ったりすることを許されてこなかった過去があったのではないかなと考えていました。(全然違っていたらすみません)そうではなかったにしても、社会は「成長」や「自立」を求める一方で、その過程にある「立ち止まること」や「戸惑うこと」の正当性をあまり認めてくれないものだよな…と本当に生きづらい社会だなと改めて痛感しているところです。
“生きているフリ”をしているという言葉には、息をすることすら演技のようなどこか空虚感が滲んでいるように感じますが、こうして自分の内側の揺れや曖昧さを、まっすぐな言葉で書き表せていること自体が、何かしら変化を求める(何とかしたいと思った)ためにとった一つの行動だと思いますし、あなたの中にある力を私は感じました。「わからない」状態の自分を許せるようになるまで、時間がかかるのかもしれませんが、わからないまま立ち止まることもまた、生きることの一部だと私は思います。「わからなさ」を抱えたまま過ごすのは苦しさを伴うものだとも思いますが、今は無理に整理する必要はないのではないかなと感じながら、あなたの抱えているものそのままを私はまず受け止めたいなと思いました。また死にトリが必要に感じられたら声を届けてもらって、一緒にぐるぐる考えてこうしてあなたと言葉を交わせたら…とも思っています。経験談の投稿ありがとうございました。