ヨーロッパ系のハーフとして生まれて。
小さい時は目立ちたくないのに見た目だけ注目されて。
苗字がカタカナでいじられて。
そのせいでやってたサッカーもやめて何ひとつ自信持てなくなって。
中学、高校、大学(中退)、今に至るまで
・何人?
・何語話せる?
・父と母どっちがどこの国?
・住んでたの?
とテンプレ質問の嵐。
それに加えて
見知らぬ調子に乗ってる小中学生にハローといきなり英語で言われたり
電車の中で突然何人ですか?と聞かれたり
英語しか使えないと思い込まれて英語で話しかけられたり
働く度に日本語大丈夫?と確認されたり
気にしすぎ?
そう言うなら1時間に1回強制的にYouTubeを見なければならないと仮定してその度に1分くらいかなる全く同じ質問しかされないスキップできないアンケートをしなければならないと考えてみてよ。
そういう事情を知らない人はそんなアンケートすぐ終わるじゃんw
ってなるけど
当の本人は
いやこれ、何千、何万回目なんだけど……ってなるよ?
本当にそういう思いをしてこなくて良かったね
羨ましい
そんなことずーっと日常的にされたら人間に対して興味も失せていって、相手の気持ちを考えられなくなる迷惑人間の爆誕。
しかも見た目がやっぱり純日本人じゃないから警戒されるし、私たちとは違うってあからさまな態度を取られることもある。
1番面白かったのは福祉系の仕事に就こうとしたらそこの面接担当者にあなたのお国柄はそうかもしれないけど
と決めつけられたこと
ほんっとうに日本人なのに日本人として受け入れて貰えない
この先も誰にもどこにも何にも受け入れてくれるところはないのだろうね
心の底から生まれたくなかった
感想1
投稿ありがとうございます。
書いていただいた内容からは、投稿者さんが相手から乱暴に線を引かれて距離を取られたりと、意図しない経験を重ねてきた様子がうかがえました。対人コミュニケーションのきっかけは相手への興味関心からなのかなと思いますが、投稿者さんが向けられてきた言葉や態度は「自分への興味関心からのものではない」と感じられてきたからこそ、嫌な気持ちになったり、逆に相手への感情が持てなくなったりしてきたのかなと想像しました。
私自身は特に、自分の「人を見るまなざし」について振り返りながら読みました。ハーフなのかなと感じる人に出会った時に自分は何か思っているのだろうか、「そう見えない」人に向けるのとは違うコミュニケーションを取ろうとしていないだろうか…など、あれこれ考えました。
考えてみて気づいたのは、自分含め、「”自分と違う”と感じる人に対してのコミュニケーションのバリエーション」がとても乏しいのかもしれないということでした(それが日本に限った話なのかはわかりませんが…)。それがテンプレ的な質問に会話を終始させたり、「受け入れるor受け入れない」といった二者択一を作り上げてしまっているように感じました。
「類は友を呼ぶ」という言葉になぞらえてその”乏しさ”について考えてみると、(私が日本での暮らししか知らないのであえてこの主語を使いますが)日本の社会は偏った「類」を信じているような気がしました。大きくてざっくりとした「流れ」を「類(≒仲間)」として受け入れることで「みんな一緒」と安心してまとまろうとする反面、「それ以外(その流れに乗ろうとしない人や、逸れたように見える人など)」を排除したり批判したりすることが容易に起こっているような…。本当は別に誰と誰も「類」じゃないのかも、と思ったりもしました。
なんだか抽象的な話になってしまいすみません。上手く言えないのですが、死にトリは誰にとっても「ほどよく居られる場」でありたいなと、改めて感じました。