小学1年生の時に頭の上から「危険だけどこっちに進むと後ですごく幸せになれるよ」っていう声が聞こえてきて。進みたい!って思った。それでその後学年のいじめっ子にいじめを受けて、けど、その子が元々自分の友達だったから何も出来なくて、けど頭の上で聞こえた声があったから、なんとか死なずに生きていた。
それで小学校卒業でいじめが終わって、中学校卒業して、高校入学くらいでこのままつまらない日々を送っていかなければいけないこと、自分には何も無いことに気づいて、何も無い自分はまたいじめにあうんじゃないかって、すごく不安になった。それで、もう虐められないくらい凄い人になろうと思って、「私、天才になりたい。」と思った。それで風呂場で土下座して、神様に(天才にしてください。)って祈った。そしたら頭の上から声が聞こえてきて、「いいけど、凄く辛いよ?」と言うようなことを言われた。私は「お願いします。」って言った。それから家庭のストレスから精神病にかかり、高校と大学7年間学業と並行して病気を治していた。けど治っても天才にはなれなかった。
今は就労移行支援施設に通っているけれども、自己肯定感は凄く低くて、その代わり自信は凄くある。周りは私より価値がない、私は素晴らしい人間だ、神に選ばれた凄い人で、ピンチの時は神様に助けてもらえるって心の奥底で思ってる。昔はこのおかげで辛いことを乗り越えてきたけど、今はただ孤立感を抱えています。明日いじめに会うんじゃないかとか不安でしょうがなくて、スタッフさんが話していること全部私への悪口に聞こえてしまうし、心の底で他人を小馬鹿にしている自分がいつかバレるんじゃないかと不安です。人の気持ちやどんな評価をされているかが不安でしょうがないです。
もうどうしていいか分からないので、ご意見、ご感想お待ちしております。
感想1
経験談の投稿ありがとうございます。今まで誰にも言わずにいたことをこうして投稿しようと思ったのには何かきっかけがあったのかなと気になりながら読ませてもらいました。小学校1年生のときに聞こえた声を信じて前に進んだことは、あなたがその年齢でいかに必死に“何かに希望を託して”生きようとしていたかが含まれているように感じました。ただ、その希望の先に待っていたのがいじめで、しかもそれが「元々友達だった子」からだったこと…信じていたものに裏切られる痛みは、きっと長く深く、傷として残ったのではないかと感じます。
「天才になりたい」と願い、祈り、声と対話するような経験、それはもしかするととても深い孤独の中で、届かないけれど気づいてもらいたかった心の思いを表に出そうとする行為だったのではないでしょうか。”神様に選ばれた”と思うことで、これまで乗り越えてこられた苦しみが確かにあって、でもその一方で、その“選ばれた感覚”が、今は逆に自分を周囲から浮かび上がらせ、孤立させてしまっていること。その矛盾と不安が、今のあなたを強く揺さぶっているように私は思いました。
自己肯定感が低くて、自信はあるという状態は、傍から見ると矛盾しているように思われがちかもしれませんが、自分の価値が他者との比較や特別な根拠の上にしか保てないとき、内心では常に「バレるかもしれない」と不安になってしまうのではないかと思います。他人の目や評価が怖いのも、誰かに見放されたくない、孤立したくないという切実な願いの裏返しなのだと感じました。
就労移行支援の場でも、「そこにいていい」と感じられず、「周囲が悪口を言っているように聞こえる」というのは、あなたが過去に何度も他人の言葉で傷つけられてきた結果生まれた、心のセンサーのようなものなのかなと想像し、だとすると決しておかしなことではないと思います。あなたの中にある「声」や「天才になりたいと願った過去」は、もしかすると心の防衛だったり、願望の形だったりするのかなと思いながら、そこには一貫して「生きていたい」「認められたい」「信じていたい」という思いから生まれているように私は感じました。
あなたの経験から、個人の問題にとどまらない、大きく見て社会的な課題もあると思いました。例えば、子どもの頃のいじめや家庭内のストレスをどうケアしていくのか、支援の場で、「孤立」を生まないような繋がりをどう作るのか、そして「強くなりたい」「凄い人になりたい」という思いが生まれる背景にある、社会の「弱さへの許容のなさ」についても、改めて考えさせられる機会となりました。自分の中にとどめておいたものを言葉にすることでちょっとでも何かあなたの役に立つようであれば、またいつでも死にトリを訪れてほしいです。