経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死にたがりな僕のお馬鹿な願い

僭越ながら、僕自身の悩みを投稿させていただきます。僕が自分のことを整理するためにメモしたものを使わせていただくのでわかりづらく、申し訳ないです。まず僕の悩みや特徴を8つ紹介していただきます。率直な感想をいただけると嬉しく思います。

①中学の時、僕は人の優しさの脆さを知りました。それより以前は自分が見返りを求めずに親切なことをする性格であったため(自分で言うなよと思うかもしれませんが、、、)人の優しさはその人を思いやったものだと無意識のうちに信じていました。でも残念ながら人の思いやりは自分を守るための優しさであることが大半であり,相手にとって必要な存在であるときはチヤホヤされ、不必要であればいないものとされることを体感しました。僕の場合は主に見た目でそれを体感しましたが,僕が色々勘ぐってしまうこともあり、違う要素でも簡単に手のひら返しは起こり得ることだと感じてしまいました。正直理不尽ではあると思いますが同時に仕方のないことだとも思います。もともと人は自分の欲望に忠実な生き物であるからです。(子供の頃なんかはその傾向が顕著に表れますよね、僕はそれを正直で可愛いと思いますが。)

②僕を苦しめた原因には無意識に誰かを責めることを避けて自分ばかり責めていたこともあったように感じています。起こり得る不都合をほとんど自分のせいにしてしまいました。そのせいで自分のことがものすごく嫌いになってしまいました。他の人にはそんなこと思いもしないのに、自分に対しては苦しんだ挙句無惨に死ねばいいと思うほどになってしまいました。無条件に自分を否定するようになってしまったということですね。

③ほとんど楽しいと思えなくなってしまいました。相手を安心させたくてよく笑っているけど、本当に笑っているのかは僕自身にもわかりません。それからずっと人のことが信じれなくなりました。一見思いやりからくるものだと思われる行動も、心からの思いやりであると信じることができなくなってしまいました。そのせいか、なにも特別嫌なことなんてないはずなのに毎日泣いてしまいます。ふとしたところで人の心無い行動や言動を見ると辛いです。

④それから人の思いやりを探してしまいます。その中で人は赤の他人には優しくなれないとしても家族、友達、親子、恋人、ペットなどに対してなら思いやりを持てるのではないかと少し期待してしまっています。そうだといいなって思います。もしそうなら世の中は少し明るい気さえします。

⑤人を受け入れて自分を落ち着けるために、人が身勝手なのは仕方ないと思うことを助長する考え方が増えました。無意識に増やすようにしたのかもしれません。でも実際仕方ないよなとも思います。僕だって今この瞬間苦しかったり痛かったりしている人の痛みが直接は伝わってきません。たとえ想像して心を痛めることはできても。

⑥僕のつらさには僕の選択肢の幅が狭いことも影響している気がします。見て見ぬふりができるならそれでいいのに、相手を手伝うか、手伝わない自分に苦しむかそういう2択が多い気がします。やっぱり手を抜けるところでは抜いた方が結果的にいいのかもしれませんね。まぁそう思っても自分を変えることなんてできませんが笑。

⑦でも高校2,3年(現在高3です)ではクラスの子に恵まれました。心配になるぐらいいい子達ばかりです。その記憶を胸に大学以降もなんとか人と関わろうと今は思っています。

⑧初対面の人と関わるとすごく疲れます。警戒しているからかもしれません。逆に好きな人とはずっと一緒にいたいなと思います。(実際そういう人がいるわけではありません)ある意味、僕にとって人間に見えるのは好きな子だけなのかもしれません。おかしな話してすみません。

⑨自己嫌悪にも結構苦しみました。原因は二つ。一つは勉強のこと。というよりリアルの生活がうまくいっていないこと。僕は今苦しんでいる誰かのために自分が強くなろうということを念頭に置いてしまったから(このサイトの投稿もその気持ちを強めるためにとても有用で助かっております)、自分の怠惰による実力不足が誰かを見捨てたと感じてしまいました。それによる自己嫌悪に関して今はほとんど意識が改善された。2つ目はこっちのつらさの方が強いなですが、僕に希死念慮があること。というよりそれで母親を深く悲しませたこと。それでも母親は僕に寄り添ってくれました。そんなこと言わないで,お願い生きてって言っていいぐらい大事に育ててきたのに、それなのに弟の学費を払い終わったら(8年後に)一緒に死のうとまで言ってくれました。ここまで子供を思いやれる母親はいないんじゃないかと思います。だからこそ家族や周りの人を大事に思えば思うほど、自分が爆弾のように感じられます。いつ自殺して悲しみを与えるかわからない爆弾です。だから最初から存在しないのがベストだったと思ってしまいます。

8つ紹介させていただきました。どう感じましたでしょうか?おそらくですがこんなことで悩んでんじゃねーよって感じる人は大勢いるでしょう。確かにその通りです。特にいじめられているわけでも、身体的な機能に問題があるわけでも、生活が不自由なわけでもありません。でも僕はこんなことを5年間ずっと悩んできています。馬鹿みたいですね笑。この感覚を伝えるために、ある例えをさせていただきます。仮に生きている人のほとんどが犯罪者であると考えてみてください。(僕の感覚を少しでも共有してもらうために少し誇張しています。みんな犯罪者だと思っているわけではありません。)それは倫理観に乏しい人ばかりの世界ですね。その中で生きていくのは多くの人にとって苦しいのではないでしょうか?はい!ただの僕のぼやきです。すみません。ここで①でも少し話しましたが僕が昔、世の中をどんなものだと思っていたのか紹介させていただきます。

・優しい世界
誰も傷つかなくて寂しくない、みんなが認められていて満たされていて、思いっきり人のことを思いやれる。そして思いやりが連鎖する。誰も痛くなくて死にたくない、みんなが楽しくて無邪気でいれて、愛されている。
誰も取り残されない、誰もずるしない。
人がまた別の人の幸せを願い,その別の人もまたそれとは別の人の幸せを願う。そして幸せの永久機関が出来上がる。また犯罪がない。なぜならみんな満たされているから。
病気や事故で早死にすることもない。みんな最後は笑顔で悔いなく満たされて死んでいける。心の底から生きていてよかったって思える。みんながその人の取り柄を認め合える。思いやりがあれば、誰しも別の誰かであった可能性があったと考えられれば、一見取り柄のない人の凄さにも気づける。だからこそ認め合える

こんな感じです。さすがに中学以前に(僕が辛いなんて考える前です)、犯罪がないとは全く思っていませんでした。なのでこれは今の僕が求めてしまっている世界という側面もあります。なんて僕は強欲なんでしょうね。ここまで僕の話を読んでいただきありがとうございます。次にこの文章を読む人がいる可能性があるので僕自身の思想を紹介させていただきます。(このサイトの運営者さんは読み飛ばしてもらって結構です)

・人への敬意
僕は生きている全ての人を尊重しています。生きているだけですごいと本当に思っています。恵まれているはずなのに自分にはとても難しいことだから。理不尽に死んでいった人にも敬意を払います。そんな理不尽な目に遭ってしまったから。理不尽を受けたその人へせめて僕は敬意を持っていたいと思うからです。(わかりづらくてすみません)また自分で死を選んだ人も尊重しています。なぜなら1度は死にたいという辛さと戦ったから。結局ほぼ全ての人を尊重しているということになりますね。

次に僕が最近少し希望を見出せた考え方を紹介させていただきます。

・生き甲斐を見つけたかもしれない
誰かが悲しむから死なないとかそんな受動的なものでもなく、僕自身の願望が,,,
それはこの世から悲しみがなくなること。というより世の中がそれに近づいていくこと。
その世界は実現はしません。でもだからこそ僕が長く生きてその世界に少しでも近づけてみせます。長く生きることに意義があります。そしてどこまでも強くなることに意義があります。それが実現できるほど強くなりすぎることはできないのだから。また、世の中丸ごと優しく世界にはできなくても、今が辛い人、一人に映る世界だったらその人のつらい状況を改善できれば、その人にとって世界を優しいものにはできるかもしれません。僕に映る世界が優しくなくても、どこかの誰かに優しい世界が存在したなら充分嬉しくおもいます。そのためだったら人の身勝手な心も受け入れられる気がします。とりあえず今はその考えをもとに様子を見ることにします。

こんな感じです。結局のところ、世の中を受け入れられてないのでしょうね。だから死にたいとか辛いとか思うのでしょうね。最後にこのサイトを運営してくださり、誠に感謝しています。辛い誰かを思いやって動いてくれる人がいるというだけでも少し救われる気がします。具体性に欠けたとりとめのない文章を送ってしまいすみません。これでも短くまとめたつもりです。この話を知らない誰かにしてみたらどう感じるのだろうと思ったので投稿させていただきました。

感想1

感覚的に共感できると思える点がわりとある経験談でした。
紹介してくれたそれぞれに対して、私も感想を書いてみたいと思います。

①私も似たような感覚を経験したことがあると思います。私の場合は、「多くの人が、自分の信念や良心に従うのではなく、周りからどう評価されるかを軸に行動している(そもそも自分の信念や良心がそこまで確立していない)」というのが衝撃を受けたことです。
私は良くも悪くも自分なりの信念が強く、もともと周りの反応にあまり気づけないタイプでしたし、環境的にも大人に恵まれて顔色をうかがう必要なく育ちました。たまたま身近な大人が自分軸の強いタイプばかりだったのもあり、人間は自主自立の精神で動くものだと思っていましたし、人が相手の評価を気にして時と場合によって態度を変えるというのを理解できず、裏切られたようにも感じました。今は、生まれ育った環境によって顔色をうかがうしかなくなる人がいるのも知っているし、人にはそれぞれ個性があるのも解像度高くわかってきたので、何があってもあまりショックを受けなくなりましたが、自分が信じてた世界が実はそうじゃなかったとわかったときの衝撃、受け止めきれなさは、まだどこかに残っているようにも感じています。

②これにはもう完全に共感しました。あらゆることは自分のせいで、自分は早く消えた方がいいゴミだ(本当はもっと強い言葉で否定していますがここでは控えます)と心から私も思っています。
誰かを責めるのは嫌だったので、どうしてだろうと分析したり、自分が変わればいいと自分を追い込んできたことによって、自己否定の毒が溜まってしまったのかな…と自分については理解しています。

③これは私には経験したことがないものです。だから、①②では安易に「私も」と書いてきましたが、私には想像しきれない、経験していない心の傷があなたにあるのだと感じました。
「手のひら返し」という表現が①にあったので、私が体感した自分の信じてたものとのギャップというレベルではなく、人の残酷さを知ってしまった、その恐怖が刻まれてしまった、というほどのものだったのだろうと想像しています。

④自分にとって優しいもの、心地いいもの、信じたいもの・・・そういったものを探すのは自然な反応だと思います。これだけ苦しいことも理不尽も多い世なら、なおさら。
期待すべきじゃない相手に期待を抱くとしんどいですし、いいニュースより残念なニュースの多い世の中ですが、まだまだ世界は捨てたものじゃないと思うことも私は時々あります。

⑤自分の心を守り、この世界を生き抜いていくための対策をしているのだなと理解しました。
身勝手なのが「仕方ない」のかまではわかりませんが、心には防衛機制という働きもありますし、心の余裕がなく学ぶ機会も乏しかったなら、保身のような行動に出てしまうのはわりと必然なのだろうと思います。

⑥いわゆる白黒思考に近いもの、でしょうかね。これは生きづらさの要素になるとよく言われている気がしますが、私も極端な思考の持ち主ですし、そう簡単に変えられるものじゃないよ…とも思っています。ただ、「今は手伝えないけど、手伝える自分になるようにこれから長期計画で○○をしていこう」みたいなビジョンがあれば、3択くらいにはなるのかも…?とはちょっと思いました。

⑦人に恵まれたことには、勝手ながらほっとしました。
自信がない・元気がないと自分を過小評価し周りを過大評価する傾向があるように私は思っているので、クラスの子たちはいい子だけど心配するほどではないかも?とか、あなたもクラスの子と同じくらいいい子かもしれない、とかの想像が浮かびました。

⑧安心に飢えている、ということなのかな…?と読み取りました。自分のフィーリングと合わない相手をどう受け入れていいかわからない苦悩の中、好きだと思えない相手をどこか人間じゃないと思うことで、自分の心を守っているようにも感じました。
ちなみに私は、リスペクトして丁寧に関わる相手と、ビジネスライクに関わる相手、疎通は諦めてなるべく低コストでやりすごす相手・・・等々、人や立場によってマインドを変えます。全員を人間としてリスペクトするには、まだ元気と力が足りないです、ごめんなさい、という気持ちです。

⑨「誰かのため」というのが、あなたが心のバランスをとるための支えみたいなものなのかな、と想像しました。
少し自分語りをさせてもらうと、私は10年以上希死念慮を抱えながら生きており、今は落ち着いていますが、かなり危うい時期もありました。その間ずっと支えは復讐心で、復讐のためには死ぬしかないという方向になるときもありましたが、今は「本当に復讐するためには自分が死ぬのではなく、貴方たちの(私を傷つけた)行いが間違いだったことを、論理的にも感情的にもこの世に知らしめて、不公正のない社会にしなくては」と思って生きています。だからあなたの「誰かのため」も、そのマインドは変わらないながらも、解釈が深まったり意味が拡大されたり、そのためにどう生きるかが変化していったりするのかも・・・?と思ったりしました。

自分語りの多い感想になってしまい、失礼しました。
何かを受け入れるというのは、全然簡単じゃないことだと私は思います。そのためには、考えを受け止め合える相手と言葉を交わしたり、世の中の優しさを感じる機会を実際に重ねたり、時間やいろんな経験が必要なのかもしれません。だから、あなたの感性や気持ちが尊重される機会が、今後なるべくたくさんありますように…と、勝手ながら願いたい気持ちになりました。いろいろと振り返ったり、考えることができたので、あなたの経験談を読んで感想を書けたのは私にはいい機会になりました、というのも伝えたいです。
経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

投稿を読ませていただきました。文章全体を通して、あなたが、じぶんとは、人間とは、生きるとはどういうものなのかをあなたの感覚と言葉でとらえようとしてきたことが感じられました。なんとなく、不思議な手触りのある経験談だと感じていて、とても興味深く読ませていただきました。私も「死にたがり」の一人として、感想を書いてみたいと思います。

「相手にとって必要な存在であるときはチヤホヤされ、不必要であればいないものとされることを体感しました」という気づきはとても真っ当だなと感じました。
学校にも、そのほかのいろいろな場にも、そういう有用性をベースにした考え方がたくさん入り込んでいて、気づかないうちに自分もその考え方に飲み込まれてしまうことはとても多いと感じています。

私も、優しい世界……というか、もうすこし自分のしっくりくる言葉で言うと、たとえば、ひとりひとりに公正で誠実な社会を願っています。なぜ優しさではなく公正が大事と思うかというと、あなたが書いている通り、優しさには脆い側面があるからです。そして、優しさという心のあり方に頼ると、だれかが優しくいられないとき、それを許せない世の中になってしまうと思うからです。人はたくさんの感情を持っていて、それが自然だと私は思っています。
だから、どんな感情を持つことも責めなくていいくらい、制度や仕組みが一人一人の安全や安心や、つながりを尊重できる世の中を作りたいと思っています。
きれいごとだと自分でも思うのですが、私は私もほかの誰の心も否定しないでいい、それでも安心して生きていける世の中を願います。

「生きているだけですごいと本当に思っています」という感覚にもとても共感しました。この世界に存在していることは、確率論で考えてます、それ自体が奇跡的なことのように思えます。それがほかでもないその人である、ということに、何度もハッとして感動していまいます。私も死にたいと思うことがあるのですが、長年そう思いながらも、さまざまな縁の中で生きています。それは偶然でしかなくて、生きていることも、いまはもう生きていないこと、死んでいっただれかも、みな奇跡的な存在のように思えます。

そしてその一方では、「ある意味、僕にとって人間に見えるのは好きな子だけなのかもしれません」とも書いてあって、それもあなたの実感なのかなと思いましたし、それらの感覚が両立することは、とても自然なことのように感じています。

私の場合、たとえば、とっさにとても怖いと感じてしまうシチュエーションがいくつかあります。そのとき、そこにいる相手を同じ人間とはとらえていないのかもしれない、と振り返ることがあります。
人間に限らず、生命すべてを仲間と感じるときもあるし、一方ではそう思えない瞬間もあるし……それは私の中で共存しているイメージです。自分語りがたくさんですみません。
そういう共存や両立を、無理にひとつに固めようとするとむしろ不自然になってしまうこともあるのかなぁと思います。それをとらえるあなたの感受性はとてもするどいのだろうと思いましたし、そうであるからこそ、苦しんだり、どのようにしたらいいかわからなくなってしまう部分もあるのかなと思いました。

あなたがさまざまなことを感じて想像しようとする中で、なかなか休まるときがないのかもしれないと想像しています。じぶんの体を休ませて、ゆっくりおだやかに呼吸できるような一人の時間はあるのでしょうか。

そういう私自身は、考えごとばかりしてしまうタイプで、心身を休めるのはそんなに得意ではないのですが、それでもなるべくそう言う時間をとってみたり、自分の性質にとって楽なやりかたを模索してみたりしています。

環境問題などで、よく持続可能性という言い方がありますが、私たち一人一人も、無理の少ない、それぞれの自分なりの持続可能な生活をする権利があると私は思っています。大人になっても、私は死にたい、もうやめたいと思うこともあるけれど、持続することで、だれかと関われたり、知る機会を得ることもできるなぁと思っています。あなたの生活の中に、あなたの生きがいや、休息や、願いがまた広がっていくことを願っています。
あなたの言葉を聞かせてくれてありがとうございました。

お返事

ご感想ありがとうございました。こういった話は人にはなかなかできないのでご感想をいただき、とても興味深かったです。面倒なほどの長文であったにも関わらず、親身になって考えてくださったのが伝わってとても嬉しかったです。自分でも内容がわかりづらいなと思っていたのですが、ここまで深く考えられていて正直驚きました。また僕の経験とご自身の経験を照らし合わせて、僕の感じたことを汲み取ろうとしていただいたのが特に印象に残りました。正直まだ、人への不信感は拭えませんし世の中を受け入れられないこともありますが、一応僕には目指していることがあるのでそれに向かって努力し続けようと思います。最後に辛さを抱える誰かのことを思ってこのような活動をしてくださっている方すべてに感謝を伝えたいなと思います。いつもありがとうございます。

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