経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

心の傷

大人になって心に傷をつくるなんて思わなかった。幼い頃は友達に嫌なことをされたし、自分もしてしまったことがある。だけど、大人になってある程度世間の良い悪いも理解し、こういう大人でありたいという像ができているから、人に嫌なことをしたり言ったりすることはダサいと思うようになった。
だから社会に出て、嫌なことをしてくる大人がいることに驚いたと同時に傷つけられたことが悔しい。この傷を一生背負って生きていくなんて辛い。前に進もうとしたときにいつもこの言葉が邪魔をして、自信をなくし、最大限に自分を発揮できない。その言葉を言った人に仕返ししたいと思うほど悔しい。仕返ししたって自分に得はないからしないけど、せめてわたしがこんなにも苦しんでいることを知ってほしい。

それは二つの言葉。
「他の仕事もあったんじゃない?」
自分なりに努力し、たりてない力を模索し、その中で自分にしかできないことは考え、自分の良さを見つけながら仕事を頑張ってきた。それなのに、そんな言葉で全てを否定された。仕事がうまく行かない時いつも、「わたしって向いてないのかな」と必要以上に思い詰めるのはこの言葉が頭を離れないせい。

「それ偽善だね」
わたしは幼い頃から障害のある子に関わる仕事がしたかった。毎年希望を出しているが、その希望は、叶わず。でも、諦めていない。いつか、その日がくるまで希望を出し続けている。それを話したとたん、一言「偽善」。その人曰く障害のあるないを選んでいるところが偽善なのらしい。わたしの夢を一瞬にして蹴落とした。それからわたしは自問自答の日々。

この二つを言った上司は同じ人。悔しさと驚きと悲しみで何も言い返せなかった自分も悔しい。なんて返せばよかった?わたし何か悪いことあなたにした?幼い頃から努力して、あと少しで手が届くところまでやっときたのに、そこから落とされた。この傷は一生消えない。友達に話したこともある。友達は味方になってくれる。でも人の痛みなんてしばらくすると忘れてる。友達が悪いんじゃなくて、きっとわたしもそう。だから、ふと思い出して辛くなるたびに相談するのも気がひける。でも、私の中からは、一生消えない。つらい。このようなトラウマどのように乗り越えていますか。

感想1

この社会は傷であふれている。
そんな風に感じながら生きてきたので、タイトルに惹かれ、感想を書きに来ました。
読みながら、あなたの「心の傷」をしっかりと受け止めたい気持ちになったことをまずはじめにお伝えさせていただきます。書きに来てくれたこと(私はこの行為を傷を開き共有する行為だと理解しています)に敬意を表したいです。

あなたを深く傷つけた「二つの言葉」には、「否定」のニュアンスが込められているように感じました。正直「二つの言葉」を単体で見ると、社会にありふれた“何気ない言葉”のように感じられる気もします(私も何度となくかけられ、耳にしてきた言葉であるため、余計にそう感じたのかと思います)。しかし、「他の仕事もあったんじゃない?」という言葉には、「仕事がうまくいかないのは、あなたの能力や努力が足りないからではないか。あなたが仕事選びを間違えたからじゃないか」といった自己責任のまなざしと他人事といった無関心が見えるように私は感じました。「それは偽善だね」という言葉は、あなたの「希望」や「夢」、もしかしたらアイデンティティそのものを「否定」する力があったのではないかとも感じています。どちらの言葉も「同じ人」「上司」が言ったとのことで、「上司」と部下という立場性やその方との関係性が、ニュアンスを強めたのではないかとも想像します。「一生消えない」ほどにえぐられたあなたの傷を思い、胸を痛め、言葉の持つ力について考えさせられました(気をつけたいと思うばかりです)。同時に「上司」の言葉の背景には、自己責任論で私たちを容赦なく抑圧してくる社会の姿も見える気がしたので、傷を生み出し続ける構造について改めて考えたい気持ちに私はなりました。

最後に私はあなたの文章から、傷をめぐって表現される世界にある種の豊かさを感じました(失礼な表現でしたら申し訳ありません)。「人の痛みなんてしばらくすると忘れてる。友達が悪いんじゃなくて、きっとわたしもそう」という言葉からは、人間のどうしようもなさとそこにある愛おしさのようなものを。あなたが傷つきを「悔しい」「辛い」「驚きと悲しみ」「仕返ししたいと思うほど」「こんなにも苦しんでいることを知ってほしい」などと表現していることには、傷を負いながらそれでも生き続けているあなたの力を私は感じたような気がします。乗り越え方は私にはわかりかねますが、あなたの投稿を読むと、傷は乗り越える以外にも、耕すものなのかもしれないなどと感じます(そんな話が書いてあった本を読んだ記憶もあります)。あなたが傷を耕す過程にここで触れられたように感じ、勝手ながら感謝の言葉をお伝えして、感想としたいと思います。投稿ありがとうございました。

感想2

私自身、人の言葉や感情を読むとそれらをぐっと心に取り入れるタイプのため、投稿者さんの思いを横取りしてしまわないだろうかと心配しながら、この感想を書いています。合わないと感じた場合は、サッと読み流してもらえたらありがたいです。

投稿者さんが上司からかけられた二つの言葉を反芻していく中で、「どうしてそんなこと言われなきゃならないんだろう」という怒りと、「どうしてそんなことを言えてしまうんだろう…」という虚しさのようなものが襲ってきました(当人ではないという意味で、勝手な感情ではあるのですが)。
言葉の内容自体に、投稿者さんの仕事ぶりや考え方・意思を汲み取ろうとする思いやりが全く感じられないですし、攻撃的と言っていい表現を使っていると私は感じます。それを上下関係がある(少なくともこちらから見れば対等に何でもいえるわけではない)相手に放つことの暴力性を理解していないようにしか思えず、虚しいやらムカつくやら整理できない感情に駆られています。実際に言われた投稿者さんの感情の揺らぎは何十倍も大きなものだと思いますし、日々顔を合わせ、異動願いもその人に出すとなると、「気にしない」なんて到底難しい話だよな…と感じました。

私は投稿者さんの話を聞いて「怒り」が先立ってしまったのですが、一方で自分を傷つけた相手に対して怒り続けるのは、とてもしんどくて疲れてしまうな…と思うことも(自分のトラウマが蘇ったときには特に)よくあります。(文末の問いかけをふまえて、自分の話を少しさせてもらうとすると)そんなとき私は、同じ人にでも違う人にでも、繰り返し同じ話をしているかもしれないなと思いました。投稿者さんが書いてくれていたように、人の痛みを同じだけ痛がって覚えている人はきっとほとんどいなくて、だからこそ繰り返し話したっていいじゃないかと、ある意味開き直っているのかもしれません。そして、過去の私にとっても今の私にとっても「この傷なくして自分はない(良くも悪くも)」ということは、確かに存在すると思うので、話す時点での自分の感情に「傷の話(要素)」が含まれないのはむしろ不自然だと感じるからです。
こう書いてみると私はトラウマに対して「薄める」「代替する」という対処を取っているような気がしてきました。外に吐き出して、自分だけで引き受けない、そしてどんな形でもいいから「報われた」と思える道を探しているのかもしれません。
(やり方は他にも色々あるかと思いますし、参考にしてくださいね、という意図はないです)。

死にトリもまた、投稿者さんにとっての傷をいつでも受け止められる場だったらいいなと思います。投稿ありがとうございました。

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