経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「迷惑」

「私の存在自体迷惑」
自分の存在が迷惑だとやっと気づいたのは、中学生の時。
生徒数のかなり少ない学校の中で、クラスメイトにも、先輩や後輩、先生達にも迷惑がられいてた。
空気や雰囲気、態度、投げかけられる言葉…全てから、わたしは「迷惑な存在」(迷惑をかけてしまっている)という事を知った。

親にハッキリ、「迷惑だから学校行かなくていいよ」と言われたこともあった。
学校にいても家にいても、私は迷惑な存在でしかなくて、どうしていいかわからなくて、ただただ申し訳なかった。
家でも学校でもそんな状態だったから、辛いと思ったことは正直あった。でも、悲しいけど迷惑をかけてしまう原因は全部自分にあるのだからそれは仕方のないことで。
むしろこちらに非があるのに、改善できないからこうなってしまっている。
その事実を自分でも本当はわかっているのにわかりたくなくて、しんどい、とか誰かわかってよ。なんて思ってしまっていた。
そんなダメな自分を変えられず、どうしたら迷惑をかけずにすむのかわからないまま私は大人になってしまった。

だから、大人になった今でも人と関わりを持つ時、話す時、同じ空間にいる時など、あらゆる時に必死に考える。「迷惑」かけてないか、不快にさせてないかなど。
また、相手と距離が近くなれば、私の汚い部分を知られる前に、迷惑をもっとかける前に離れなきゃ。そう必死で考え、関係性が深まるのが怖くなり突然遠くに引っ越す。それを繰り返す。
そうやって逃げているからダメなんだと思う。

でも一方で、本当は、「迷惑じゃないよ」って言われたいのかもしれない。私の存在を認められたいのかもしれない。最近、そう思う瞬間が時々ある。
そこに気づきはじめた今、すごく苦しい。
周りに、どんなに迷惑じゃないと言われても、どんなに安心出来る相手であっても、「自分が迷惑をかけてないか」の視点で常に考える。それはもう無意識的行動。
迷惑じゃないと言われても、優しさで言ってくれてるのでは?社交辞令かもしれない…とどうしても疑ってしまう。そんな人ではない事は分かっているはずなのに…

ここ数年は、私の事を迷惑だと言う人がない環境に居ても、自宅に1人でいても、頭の中で急に「自分の存在自体迷惑」という考えが浮かぶ。そこからはもう自責の念が湯水のように溢れ出る。
そして、それでも生きてしまっている自分への罰と全てを消したいという気持ちから、ODをし、自分を黙らせる。
でも目覚めても、自分が迷惑って事実はどうやっても変わらなくて、変わってなくて、自分をちゃんとした人に変えることも出来なくて。
存在するだけで迷惑なんだから、生きてる意味も価値もない。またそう気づいて自分に罰を与える。そんな繰り返し。
最近は、自分が何がしたいのかもわからなくなっていて、常に「迷惑」と考えてしまっている事も正直つらくて生きている限界を感じる。

そんな時、匿名で利用できる相談窓口に何度か、自分の存在自体迷惑だと思っていて、死にたいことを相談した。
しかし相談したことで、「迷惑かけてる明確な理由もエピソードもないのに?そんなのあなたの考えすぎでしょ?」って周りは思ってるって気づいた。
相談しても理解してもらえないこと、私がおかしいだけなこと、苦しかったとしてもしんどかったとしてもそれは私が受けるべき罰だったのだから、仕方のないことだったんだってこと、思い出した。
それを分かっているはずなのにそれでもどこかで、助けを求めてしまう弱い自分がいて。
そんな自分に悲しくなる。
迷惑だってことに向き合っても向き合っても、悩んでも自分に罰を与えてもなんの変化もなくて。ただただ辛い毎日しかない。

私はもう、死ぬことでしか変われないのかもしれないけど、もしも、常に、「迷惑をかけてないか」を考えずに生きれる世界があったとしたらどんな世界なのか。
そしてその世界に生きてみたら私は少しはマシな人間になれているのか。
わからないけど、生まれ変わったらそんな世界に生きてみたい。

でももしもあの頃、あの時もっとちゃんと頑張れてたら…
迷惑をかけないように努力できていたら…
そしたら、迷惑をかけないで生きる明るい未来があったかな?

感想1

私も知らないうちに「人に迷惑をかけてはいけない」と教えられ、そういうものだと思っている頃がありました。ただ、大人になってからいろいろな人に出会ったり、様々な経験をするうちに「迷惑って何なんだ?」と思うようになりました。そして、どうしてあまり考えることなく「迷惑をかけてはいけない」という教えがここまで普及したり、気にすべきこととして意識させられるのか考えています。

私は、あなたの経験談を読み、実際に迷惑をかけたかどうかということが苦しいのではなく、迷惑をかけてしまっているという申し訳ない気持ちや罪悪感のようなもの、あるいは迷惑をかけてしまうのではないかと恐れる気持ちがとても苦しく、それについて匿名の相談に話をしたのではないかと感じました。あなた自身は、「いや、実際に迷惑をかけているんです」と反論されてしまうかもしれませんが、「迷惑」というのは、とても主観的なものなので、それを突き詰めても、あなたの悩みにはたどり着かないと感じました。しかも、単に主観的なことだけではなく「迷惑をかけてしまった」という行為をした側の経験や心の動き、価値観と「迷惑をかけられた」と行為を受けた側の経験や心の動き、価値観が関係してくることから、とても複雑なことなのだろうと思います。ただ、そう考えてみて思い返したのは、実は「迷惑」ということを考えても、あなたの苦しみや悩みについて理解することが難しいのかもしれないということです。あなたが「迷惑」と表現していることを別の言葉で表現すると何なのか、「迷惑」という言葉に含まれる何かについて、探っていくとあなたの苦しみの中身が見えてくるのかもしれないと思ったのです。
ひょっとしたら、迷惑という言葉を周囲から何度も言われているからそうなんだろうと理解はしたのだろうと思いますが、実際には迷惑が何なのかよくわからない、わからないからどうしようもないという絶望感なのかもしれないとも思えました。あなたが具体的に何がどう迷惑なのかについて知る機会や、どうしたら迷惑だと思われなくなるのかについてもまた理解する機会があったのだろうかというのも考えました。自分に降りかかるよくわからないマイナスの評価、否定的なメッセージはマイナスの評価や否定的なメッセージであるというだけでもダメージですが、それが何なのか分からない、教えてもらえない、そのもどかしさや八方ふさがり感はそれはとてもつらいことだろうと想像しています。(違っていたら、すみません)
私は別の人間同士が一緒に過ごしたり、何かをすると少なからずお互いに迷惑だと思ったり思われたり、ストレスになったりなられたりとお互い様だと思っています。そうしたストレスや利害関係の不一致のようなものが迷惑という形になるとしたら、そこに不平等な力関係があったり、敬意や尊重が少なかったり、対話の余地がないような空間や時間なのかなと思います。あなたの例でも書かれていた家や学校は残念なことに、不平等な力関係があり、敬意や尊重が少なくなり、対話の余地がないことが実はデフォルトなのかもしれないと思うこともあります。それは大きな私たちの課題だと思いますし、その現実についてあなたの経験談は考えるためのヒントをくれたように感じました。
あなたの迷惑をめぐる話から一人で想像や思考を大きく巡らせてしまいました。書いてくれたあなたを置いてけぼりにしてしまったらすみません。きっかけをくれたことに感謝します。また、よかったら感じることを書きに来てくれたらと思います。

感想2

読めば読むほど、「迷惑」っていったいなんなんだろう…?という気持ちになっています。あるいは、「迷惑をかけてはいけない」ってなんなんだろう、ということかもしれません。
直接「迷惑」という言葉をあなたに言った親がどういう意図、どういう意味でそれを使ったのかもわからないし、その背景にどういう考えや親自身の状況などがあったのかも、私にはわかりません。ただ、少なくとも、あなたが「迷惑な存在」だと自分を認識せざるをえなくさせた「空気や雰囲気、態度、投げかけられる言葉」に、私は、なんだかすごく抵抗したい、歯向かいたいような気持ちになりました。

私は、自分が「迷惑な存在」とは今はあまり思っていないですが、これまでの経験からかなり「迷惑」と人に思われがちなタイプであるなぁとは思っています。それは、発達障害の特性などを含めた私のさまざまな性質も関わってくるでしょうし、育った上で身につけたことや身につけられなかったこと、自分自身の感覚などが多数派と違う部分が多いということもかなり関係していると思います。その中で、なるべくなら他の人とうまくやりたいとは思いつつ、うまくいかないこと、周りの人たちのようにできなくて途方にくれることもとても多いです。でも、たとえば私ではない誰かがそうやって困っていて、周囲から迷惑だと思われているとしたら、それって、その人の問題じゃないんじゃない?という気持ちでもいます。

たとえば10人のうち9人が1つの共通する言語(たとえば英語とか)を話しているとき、1人だけ、その言語が使えない人だったとき、その1人は「なぜあなたは私たちに言葉を合わせないの?」「そんな言葉でわかってもらおうなんて、図々しい」「配慮が必要なんて迷惑だ」などと思われてしまうかもしれません。あるいは、体格がいい人たちのなかに1人だけ小柄な人がいるとき、同じ数の重いものを運ぶのは難しいと思うのですが、それが小柄な人の個人のせいにされてしまうということがあります。コミュニケーションの場合でも、たとえばチームワークを重視したい人が多い場所で、自分のペースで取り組みたい人がいると「迷惑」と判断されてしまうことがあります。でも逆に、自分のペースで取り組みたい人が多い場所なら、それは「迷惑」にはならないし、「それぞれ、得意なコミュニケーション方法や取り組みたいやり方が違うことがある」とみんなが知っていたら、もっといろんな人が「迷惑」と思われずに、もっといろんな人がだれかを「迷惑」と思わずに「違い」と感じるだけで済むかもしれません。……長々と例え話をしてすみません。ようは「迷惑」ということ自体が、「迷惑」と思われてしまいう人の問題ではなく、その状況やその中にいる人たちの認識や力関係の問題である可能性が高いと私は感じています。

ただ、そうは言っても、あなたからしたら、「存在自体が迷惑」だと直感的に感じてしまう日々で、そのこと自体にとても苦しんでいるということが伝わってきました。それはある意味で強固な確信のように、いろいろな出来事の理由や原因が「迷惑」という言葉に帰結するような形で、何度も何度もあなたが感じて捉えてきたことなのかなと想像しています。「迷惑」という観点で(あるいは「迷惑」という結論で)あなたはあなたを常に監視して、ジャッジしないといけないと感じているのかもしれないとも思いました。
私は迷惑をかけてもいいと思います。というか生きているだけで、私たちは一人残らず、とてもたくさんの他者の行動や作ったものに依存して生きていて、言い方を変えれば「迷惑をかけあっている」と思います。道路も水道も、食べ物も、すべてだれか一人の力では成り立たないものです。ただその中で優遇されやすい人はすでに優遇されていることを「迷惑」だと思うこともなく活用していますが、優遇されにくい人、周りから理解されにくい人はその人に合ったものが少ないために「迷惑」とジャッジされてしまうことが多いのだと思います。

「迷惑だってことに向き合っても向き合っても、悩んでも自分に罰を与えてもなんの変化もなくて。」という日々の中で、別の方法を見出したいという気持ちがあなたの中にあることを私は受け取りました。相談窓口に連絡したのも、あなたが、その状況をなんとかしたいという思いがあるからだと思います。「助けを求めてしまう」と書いてありましたがそれは弱さというより、むしろ強みや力であるように思います。そしてその中で死にトリに送ってくれたことも私はとてもうれしいです。こうやって考える機会を与えてくれたことに感謝しています。
あなたの現在の具体的な生活はあまりわからないですが、常に「迷惑をかけてないか」を考えることの負荷はとても高いと思います。そうじゃない瞬間が1秒、10秒、1分でも、あなたの生活の中に増えていくには、どんなことがあるといいんだろう…と思います。私も「迷惑」かどうかをジャッジし合わなければならないような世の中の状況やコミュニティのあり方を少しでも変えていきたいと思います。生まれ変わらなくても、この社会自体を「そんな世界」にしたいです。文章が長くなってしまいすみません。投稿してくれてありがとうございました。

お返事1

読んでくださりありがとうございます。

「具体的に何がどう迷惑なのかについて知る機会や、どうしたら迷惑だと思われなくなるのかについてもまた理解する機会があったのだろうか」
ということについて書いてくださり、ハッとしました。
私には「どうしたら迷惑だと思われなくなるか」
という考えが全くなかったからです。
私の考えでは、何度考えても思考を巡らせても「私が居なくなればいいのだ」という考えにしか至りませんでした。
自分がいなくなる以外の選択肢があったのだと知り、驚きとともにその視点で考えるといつもとはまた違った答えが出るのか、それとも結局自分がいらないのだと思い知らされるのか、自分なりに考えてみたいと思いました。
前後しますが、「具体的に何がどう迷惑なのかについて知る機会」という所について。
知る機会、というよりは「迷惑」と言われるきっかけになった事があり、きっとそれが原因なのだろうと思ってきたし、今でも思っています。なので、私にとってはその出来事そのものが知る機会であった気がします。
しかしこの感想を読んで、もし知る機会をつくっていたら?と考えてみた時、私は「怖い」と思っていました。それは、周りからも「迷惑」だと改めてハッキリと突きつけられることだ。
と思うからです。
自分自身でも「迷惑」なのだと思って、それで相手からも迷惑だとハッキリ突きつけられるとする。ということは私を含む全員がそう思っているということ。つまり私はいらないということが確定するということだ。と私は思うのです。
それを怖いと思う、弱い自分に悲しくもなりました。
感想にも書いてくださったように、迷惑をかけるのはお互い様なのだと私も良く耳にします。
その考えや根拠、思いはとても伝わるし、言っている内容は理解できます。
ですが、どうしても私はそう思えないのです。
実際にはありえない事、私が周りを見えていないだけなのかもしれませんが、私には、私以外の人が迷惑だと、迷惑をかけているのだと感じないんです。みんな、すっごく頑張って努力して迷惑かけている人なんてどこにもいない。
そう見えるんです。だから、同士に凄く焦ります。誰でも出来ていることが私には出来ないのだと。
私はこのような思考なので、「お互い様」という感覚がどうしてもぴんと来ず、、感想を書いてくれたあなたの思考を覗いてみたいと思いました。
わたしのこんな拙い文書に思いを巡らせてくださり、そしてこんな素敵な感想までありがとうございました。

読んでくださりありがとうございます。

「助けを求めることは弱さというより強み、力」そして送ってくれた事もとても嬉しい。
と言ってくださったこと、とてもとても嬉しく、久しぶりに心があったかくなりました。
まずはそのお礼を言いたかったです。ありがとう。
力を持つことは、あまりいいイメージがないのですが、このような「力」はすごくいいですね。私にそんな力があると、、自分でも知らなかった私を少し知れた気がしました。
また、「迷惑ではないと思える瞬間」を1秒、10秒と増やしていけたら、なにかこんな私でも変わることがあるのかな?と思いを巡らせました。
わたしのこんな拙い文書に思いを巡らせてくださり、そしてこんな素敵な感想までありがとうございました。

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