もう人生を終わらせたい。
人生の中でそれを一番最初に思ったのは高校卒業後、始めての就職先のことでした。
憧れであり目標だった職業だったのですが私自身の至らない点、今までと違いすぎる環境との理想のギャップ。
辞めたい思いと親身になってくれた上司への恩という感情の板挟み。
そうした諸々から気がついたら心が壊れて、「生きていたくない」「ここに居たくない」としか思えなくなっっていました。
そんな思いの堂々巡りで、最後は死ぬのに良い場所求めて逃避するように彷徨い歩いていました。
その後は退職して地元に帰ったのですが、仕事に就いても長続きせず、
逃げるように様々な会社を転々として今に至ります。
楽しめること、没頭できることもあるのですが、ふと振り返っていつも思うのです
もう人生に明確な目標はない。目指しても失敗する。
果たしてこの世に必死に足掻いてしがみつく価値があるのか?
心療内科を受診して処方箋を服用すると気持ちは楽になったのですが、
それによって副作用に苦しみ、服用量を減らせば離脱症状に苦しみました。
気がつけば何も築けた物は何もなく、意地を張るだけの気力も消え、動力失った車輪みたくクルクル回るように惰性で生きているだけ。
しまいにはいくらかの借金も抱えて、経済的にもドン詰まり。
何か嫌なことがある度、失敗する度に生きているのが辛くなる。
単なる逃げだと言われましたし、自覚もあります。
でももう無理です。頑張ればいつか報われて明るい未来があるとしても、報われる時まで頑張り続けていられる自信がない。
目先にある趣味や楽しみのために今日一日、今週、今月と走れても、人生を好転させるために走れそうにない。
産まれるのを自分で選ぶことは出来ないが、終わり時は自分で選べる。それは今ではなかろうか。そう思うのです。
どうしようもない軟弱者の逃避の繰り返し。自分自身にもう疲れました。
もうこれ以上、自分自身に惨めな思いを抱きながら足掻くだけの価値を見出だせない。
終わらせてしまいたい。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
逃避と価値
感想2
経験談を読ませてもらいました。初めての就職まで、あなたは憧れて、目標に向かって進んできた学校生活だったのかなと想像しました。だけど、実際その環境に身を置いてみると、たくさんの苦労や困難があったのだと思います。初めての就職までのあいだは明確な目標があったのだとしたら、「目標に向かう」という以外のやりかたで、どういうふうに生活を続けていいかわからなくなるのももっともなのかな、と思いました。私はあまり明確に目標を目指し続けたことがなくて(短期的に目指そうかなと思ったことはあっても長続きせず)、目的のために日々を過ごすということがとても苦手なタイプなのですが、あなたは目標がある状態のほうが居心地がいいというか、自分的にすっきりしている感じだったのかなぁと思いました。過去・現在・未来とあったときに、未来志向が中心になるタイプだったのか、それとも周囲の環境や、あなたの希望から、未来志向の考え方が当たり前だと感じてきたのか、などと考えていました。
「楽しめること、没頭できること」というのはある意味で「現在」の楽しさのことかなと思いますが、それを逃避だとも感じている、ということなのかなと思います。逃避というのは、生存戦略の一つで、いろいろな動物が、自分の生存のために逃避をしています。逃げることもできない状況というのが一番選択肢がない状況で、逃げることができるというのはとても大切であるようにも感じます。ちなみに私もこれまでずっと仕事を転々としまくっていて履歴書の欄がたりなくなるタイプだし、気づいたらスマホばかり見続けているし、「逃げる」をずっとやってきているなぁと思います。それは自分の人生を困難にしている面もあるとも思いつつ、もしこういうふうに逃げられなかったらもっとひどい状況になっていただろう、という気もするので、むずかしいなと思っています。
価値というのは、あなたにとってはどういう意味をもつものなのだろうか…と考えながら読んでいました。考えてみたのは、それは周囲からの評価というよりは、あなた自身にとって、あなたを承認したり、「いいね」と思えたり……という意味なのかな、ということです。逆にいうと、せめて意味や価値を見出せるならば持ち堪えられるかもしれなくても、それが見出せない中では、自分の現在感じているしんどさとの折り合いをどうつけていいかわからない、ということでもあるのかなと思いました。(違っていたら、すみません。)
精神症状も、副作用や離脱症状も、気力のない状況も、日々苦しさが降り積もっていくのに、なかなか他の人に理解されないことも多かったり、自分でもどうとらえていいかわからないことがあったりして、抜け出したいけど抜け出せない、という感じもあるのかなと思いました。「目先にある趣味や楽しみのために今日一日、今週、今月と走れても、人生を好転させるために走れそうにない。」という一文からも、日々「走る」こと自体にたえがたい苦痛があるのだと感じています。だけど、「走る」以外の生き方をだれも教えてくれなかったし、自分でもわからない…ということでもあるのかな、とも思いました。走らなくても、たとえば歩くとか、転がるとか、動かないでいるとか、スキップするとか、あるいは自転車に乗ってみるとか、いろいろな過ごし方があるように思います。それを日々の生活と考え直した時に、具体的にどのようであれば、あなたにとって走り続ける以外の選択肢になるのかなぁ、と思いました。投稿してくれてありがとうございました。
感想1
「終わらせてしまいたい。」この最後の言葉に心境のすべてがギュッと詰め込まれているように感じられました。
最初に勤めた会社でどんな環境と理想のギャップがあったのか、そして動力を失うきっかけになったのはどんな環境だったのか…聞いてみたくなりました。
「気づいたら心が壊れて…」とありました。気づくまで必死に上司の恩にも応え続けていたら限界を迎えたのかな…そんな想像もしました。その後にも似たような経験を重ねたことで、しんどいことがあると“終わりにしたい”と思う思考回路ができあがったのかもしれませんね。人はしんどい経験をすると無意識に自分を守ろうと回避行動をとると思います。それでも理想や社会の常識みたいなものに板挟みになってどうしていいかわからなくなって自分を見失い彷徨うのかもしれません。その上で、タイトル「逃避と価値」について私なりに考えてみました。あなたが“逃避”と表現したことはリスクからの“回避”だと思いました。そしてあなたが表現した“価値”は、社会もしくは会社組織から“求められる価値“とも言えるのかもしれません。それに対してあなたは確かなものを掴もうと現状に抗い続けて気力が枯渇したようなイメージを持ちました。その結果たどり着いた一つの答えかもしれませんが「果たしてこの世に必死に足掻いてしがみつく価値があるのか?」 という言葉に目が止まりました。あなたの感覚が真っ当だということを表しているように私には思えます。あなたに価値が無いのではなくて、社会に価値がないと私は言いたくなりました。
一方で生活を考えるとその社会に向き合わなきゃならない場面も出てくるのが現実なのだと思います。死にトリは今の社会に生きづらさを感じているひとがその思いを共有する場でもあります。こうやって経験談を投稿してくれて誰かとつながることは、今までとちょっと違う社会への参加や惰性で回ってきた車輪に動力を得るきっかけになるかもしれません。
生活に悩みは匿名の電話やSNS相談、お住まいの地域の自立相談窓口というところにお話してみることで生活費のことや借金のことが解決に向かうこともあります。
自分の楽しめる時間や趣味を持っていることにあなたは少し自責感を感じているように思えましたが、誰とも比べられることのできないあなただけの大事な時間なんだと思いました。引き続きその時間を大切にしながら、今の社会からの「回避」と「自分の価値」を大切にして欲しいって私は思いました。よかったらまた死にトリを活用してくださいね。