本当にむなしいな、と思うのは、私にとって一生背負う重みである父も、家や時代の犠牲者でしかないと思えることです。
最も憎んだ父さえも、押しつぶされ荒れて子供をおかしくしてしまった人でしかない。
私は、祖父母4人に会っています。
父の父は働きながら酒を飲む人で、その点では父と共通しており、家に帰りたがらないのが違ったと。
父は、家にいる=良い父と思っていたようで、信じて疑わない様子に口を挟めず、私ばかりが父の機嫌取りをする立場になってしまいました。
家族全員、父と仲が悪かったため。
自身のことを大きく重い石につぶされた染みのように感じて何十年と生きてきましたが。
今は少し元気になったので、せめて記したり話したりしたくなっています。
同居していた父方祖母は、何だか中身がからっぽになってしまった人のように、本当に学歴や肩書きなどの話しかしなかった。
嫁としての母がとても気にくわなかったようだ。
父はその祖母(父の実母)と全く折り合いが悪かった。
毎年遊びに行っていた母方の家は、普段より自由でいられて好きだった。
が、ここでも、祖母を使用人扱いしてこき使う祖父を見せられた。
目の前でのそんな扱いに、当然、私は何もできなかった。
普段は、父が母をけなすのをさんざん聞いた。
私は逆らわずにうなずいていた。
自分の心が行方不明になった。
私は、その悪口に、同意してたんだろうか?
今となっては信じられない。
人は、立場によってどこまでも偽る。
「なぜ言わなかったの?」
言えるなら誰もが言うでしょう。
偽った私が嘘つきなのでも弱かったのでも愚かだったのでもない。
人間なんて、選ぶ自由がなければ何でもしてしまうのだ。
私の経験した”家族”は、重苦しく悲しいものだったのに、TVでは過剰に”幸せ”の象徴になっていた。
…それを目指して父は狂っていた気がする。
その妄想で、より私たちは苦しめられている気がする。
そんなあり得ないようなイメージがなければ、「人と人はなかなかうまくいかないね。悲しいね。不幸が連鎖しちゃったね」と認めて、「生きるの苦しい!」と、言うことくらいできたんじゃないのか。
そのイメージのために、自分たちがそれをやれているという願望を守るために、”幸せなふり”みたいなことを、わけもわからずやっていた。
それほど不幸なことはなかったと思う。
言うことも、認めることも、許されないなら。
本当に死んでいるのと同じだ。
言えば救われるわけじゃない。
それでも言いたい。
言わせなかった全てに激しい怒りがあるし、今、「今さら言って何になる?」と冷笑してくる声へも、「うるさい!言わせろ!意味なんか知るか!!」と言いたい。
なぜ、そんなに、意味や成果を問うのか。
この内側の否定的な声。
なぜ、幻の(私が知らない)”幸せ”と比べて、私を否定するのか。
私が不幸せでみじめなんだったら、いくらでもそうじゃないようにしてくれたらよかったじゃないか?
誰でも助ければよかったじゃないか。
私はもう幸福なんか望まないから(マジで何のことを差すのかわからないんで)、ただ言わせてほしい。
言えるやり方で言いたい。
もちろん、場は選んで。
ほとんどの場所ではいっさい言う気はないし。
それは、どれだけ否定されても、本来、どんな人にも、私にだって、ある権利なはずだった。
私がそう思えない時でさえも、奪われているだけで、本来ならあるはずだったんだと、思います。
感想1
あなたの経験談を読んで、あなたが存在していること、あなたの心がそこにあって、苦しくなりながら、憤りながらも生きていることを強く叫んでいる言葉のようだと感じました。タイトルが印象的で、とくに「のに」というタイトルの末尾2文字のその続きにあなたが感じていることが知りたいと思いながら読みました。
その言葉は直接的には「TVでは過剰に”幸せ”の象徴になっていた。」という部分にもつながっていくのかなと思うのですが、読んでいて、むしろテレビやその他のメディア、流布する言葉、人々の認識の中で「家族」という概念が「過剰に”幸せ”の象徴になって」いることによって「いいもの」ではない個々人の「家族」が覆い隠されてしまったり、むしろ、「家族」関係の問題を重篤化したりしてきたのではないかと私は思いました。というのも「家族が大切」「家族でいることこそ幸福」といったイメージは、「家族のことは家族で対処すべき」「家族を優先するべき」「家族ならば一心同体のようにあるべき」というような価値観を強めてしまうものでもあると常々感じているからです。
「私にとって一生背負う重みである父も、家や時代の犠牲者でしかない」ということの虚しさは、個人的なことですが、私自身が私の父親に対して感じていることにとても近いと思いました。たしかに、あなたの父親さんも、「家族」というイメージや、さまざまな社会の中の価値観に振り回されてきた人でもあるのだろうと思います。もっと言えば、人間社会の構築の歴史は、そういうさまざまな価値観や集団の中で描かれた「こうあるべき」という像に振り回されながらも少しずつ改良されてきてもいる、発展途上のものだというふうにも感じます。
「本当に学歴や肩書きなどの話しかしなかった」という同居していた父方祖母さんをあなたが「何だか中身がからっぽになってしまった人のよう」と感じているのも、父方の祖母さん自身がなにを大切にするか、どんな感性を持ち、なにを願うか……という本来個人的な部分が、世の中の「学歴や肩書き」という価値観にあまりにも侵食されて見えたということなのかなぁと想像しています。
翻ってあなたは、自分自身の感じていることや、自他の感性を大切にしたいという感覚を持って生きている人なのかなぁと思いました。
私もそういう感覚に共感しつつ、あなたが過去に「悪口」に同意していた自分を信じられないと感じるように、私も、周囲のいう価値観に逆らうことも難しくて、自分でもそれらの価値観を内面化して生きてきているとも思います。
「自分の心が行方不明」という言葉も印象的で、もしかすると少なくない人は心が行方不明のままそれに気づかずにいることもあるのかなぁと思ったりしました。自分の心を知り、感じていることは、情報があまりにも多い世の中では難しいなぁとも思います。「人間なんて、選ぶ自由がなければ何でもしてしまう」と書かれていましたが、学校でも家庭でも、「選ぶ」ということができることすら、その権利や力があることすら、知らされず気づかずに生きている場合がとても多いようにも思います。どうしたら多くの人が、自分の心を見失わず、自分や他者を大切にするために「選ぶ」ことができるのでしょうか…。
「言う」ということは、最初にも書きましたが自分が「ここにいる」ことの表明でもあるように思います。死にトリの経験談では、そういう世の中で奪われてきたたくさんの「言う」が少しでもできる場だったらいいなぁと思いながら、経験談を読んだり書いたりしています。
「うるさい!言わせろ!意味なんか知るか!!」というあなたの言葉を、私は支持したいです。言ってほしいです。そしてよりいろいろな人が、自分の言葉を言える状況、言っても大丈夫だと感じられる世の中を社会に生きる人間の一人として作っていきたいです。そのためにも、あなたともっと話してみたいと思いました。
死にトリに投稿することを選んでくれてありがとうございます。