経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

救いとは何だろう

高校に入学後少し経ってから、生きるための心の支えみたいなものが何もないような気持ちが急にして、それからその内実は少しずつ変化しつつも希死念慮にずっと苛まれてきました。
今思えば、中学校でいわゆる優等生であったから「新しい環境でも人より勉強ができなければいけない」みたいな強迫的な考え方が自分を息苦しくさせていたのかもしれないし、きっかけだったのかもしれない。
それから、幼い頃からピアノの練習を毎日長い時間やっていたけれど、すごく母が厳しかったから(よくトイレやピアノの下で泣いて誰かに助けてもらいたい気持ちに毎日耐えていたような気がする)その傷が形を変えて苦しさを生み出したのかもしれない。今振り返ってみると、上手く演奏できるように(先生や母に怒られないように)全く意味がないのに、同じ場所で同じ行動(儀式?)をしたり、同じ持ち物を持ったりする、というような強迫行為を毎日やっていたように記憶しているので、強いストレスには晒されていたのだと思います。
だけど今切実に苦しんでいるのは、過去の記憶に対してではなくて、ただただ理由もないのに街を歩いていて不意に、悲劇的な方法や状況で全てから解放されたい気持ちになること。それから、希死念慮に確かに苛まれているのに、それを追い求めるような気持ちが同時にあるところ。あまりに長く自分に苦しさが棲みついているせいで、自分のアイデンティティにそれが深く刻み込まれているような、それなしでは生きていけないような気がするんです。実際、苦しさがないと落ち着かない不安な気持ちにもなるから、破壊的な、或いは、悲劇的なストーリーに自分が侵食されているようにも思います。
また、これまでに誰かに相談して自分が生きやすくなるようなことは結局なかったし、心理士の人だって守秘義務を守っていなかった。私がこれまでに学んだのは、あまり人を信用したり頼りにしたりしない方が最終的に自分が傷つかなくて済むということで、もう誰かとの関係性の中に助けを求めてもどうにもならないだろう、という気がしています。それに、薬を飲んでも根本的に解決する訳でもないし、何年か前の同じ日にも同じ苦しさでもがいていたように思える。
意識があるときにはずっと同じ苦しさに悩んでいて、もはや意識があるということ自体が苦痛で、ここから逃れたいとよく思います。
ただ、亡くなると苦しさから逃れた状態を経験できない(自分の死については経験不可能)訳だから死んでも解決策にはならないんじゃないか、結局生きたまま自分で全部引き受けるしかないよな、とか考えを巡らせ、いややっぱりもう意識があるだけで…みたいなこのループで日々悪戦苦闘しています。
私は、生死や善、というような、人間の根源的なものを追究したいと思って(というか、生きるためにはそうしなければいけないような気がして)自死念慮に悶えながらどうにか頑張って勉強して、志望の大学に入りました。そういうことを追究することを救いして、ここまでやってきたような気がします。でもそんな自分の専門分野への興味の背後にあるのは、結局重い痛み、希死念慮で、救いと苦しさが密接に結びついている。なんだか今はがんじがらめになっています。
本当に私に必要だったのは、非常にプライベートな部分を全部話しても大丈夫だと思える相手に苦しさを受け止めてもらったり語り合ったりする、時間や継続的な関わりだったのかもしれない、とも思います。(でも相手への心理的な依存にもなりかねないし、存在全部を受け止めてもらう、というのは人間同士の関係性での話ではないようにも思えます。どこか一神教の思想みたいなものを感じますね。)
そのように書きつつ、人に説明し開示するにはあまりに複雑な痛みになってしまい、もう遅いように思います(苦笑)
どうにか、生きようとしているけれど、難しいですね、本当に。もう疲れたなあ。

感想1

悩んでいることを率直に丁寧に語ってくれる姿に(こちらへの気遣いから、落ち着いたトーンで書いてくれている側面もありそう…とちょっと後ろめたさも感じつつ)、私も丁寧に自分の思考をアウトプットしたいと、姿勢を正す気持ちで感想を書き始めています。
死にたい気持ちについての自己分析は、これまであなた自身でかなり突き詰めてきたものだと感じていますし、「本当に私に必要だったのは、非常にプライベートな部分を全部話しても大丈夫だと思える相手に苦しさを受け止めてもらったり語り合ったりする、時間や継続的な関わりだったのかもしれない」という考えには、私自身の苦しかった経験と重ねてみても、全面的に同意です。それを100%叶えることが現実問題できるかは別として、そういうものがあれば、希死念慮と強く結びついた生にはならないのでは…?と私は思います。

私自身、今はひりひりと心が痛むピークは過ぎましたが、希死念慮と10年以上ともに生きてきています。そして、もう自分が望むレベルで救われることはないと確信しながらも、自分が描く救いのイメージにすがって生きている感覚はあります。「私の苦しみはこういうもので、私はこの救済がほしいのだ」という、強烈な観念みたいなものがあって、ここ数年は小説の形でそれをアウトプットする試みをずっとしています。
それは人間の根源的なものを追及する行為ともいえると、あなたの表現を見て思いました。(あなたの言っているニュアンスとどこまで一致しているかはわかりませんが…)
「人に説明し開示するにはあまりに複雑な痛みになってしまった」という感覚も私にあり、もう自分の痛みを事実ベースで伝えるのは無理だと思っているからこそ、小説という形で出そうとしているのだとも思います。

強迫的な考えが自分の中に根づいてしまうと、意識のある間はずっと自分で自分を追いつめることになってしまうので、受けるダメージやストレスは非常に強いものになると私は感じます。
外部的なストレスについても、すごく母が厳しかった、という表現じゃ十分に伝えられないほどに、その厳しさは過酷で過剰なものだったのではと想像しています。「心理士の人だって守秘義務を守っていなかった」というのも、描写はさらっとしたものでしたが、裏切られた、もう何も信じられない、というようなショックは大きかったのではないか…?と私は思いました。

「存在全部を受け止めてもらう、というのは人間同士の関係性での話ではないように思えます」という考えが、今私の中を巡っていて、そうかもなあ…と同意7割、そうなのかなあ…?と疑問が3割みたいな感覚です。
存在全部を受け止めてもらうのは不可能だとは私は思います。自分は小学生中学生(正確にいうと年齢限定せず、自我はしっかり芽生えているのにもかかわらず、行動力と思考力を十分に獲得できていない弱き者)に対しては、存在全部を受け止めたいと心から思うし、「存在全部を受け止めてもらえている!」と相手に信じさせることは可能なのかなと思っています。そしてその安心感や世界への信頼がその子に根づいてしまえば、人間に存在全部を受け止めてもらうことはできないといつか自然に気づき、それに折り合いをつけて生きられるのではないか…?と、思っています。(というかそう信じたいだけかな…)
痛みでがんじがらめになる前に、部分的にでも、不器用に出してちょっと新たに傷ついてしまっても、自分の心のやわらかいところを開示できる人がいたら・・・と、自分については思います。

・・・自分の話ばかりの感想で、すみません。
とりあえず、私はあなたの経験談に出会えて、触発されて語れるよい機会をもらえたので、ありがとうございました、という気持ちでいます。また何か語りたいことがあれば、死にトリの利用をご検討ください。

感想2

あなたが巡らせてきた思考の過程とともに、あなたの苦痛と問いかけを共有してくれてありがとうございます。私もその問いを頭に置きながら、文章を読みました。思いを巡らせながら書いたら、感想がとても長くなってしまい、すみません。私なりに「救いとは何だろう」を考えてみたくて、つらつらと書いてみました。

「意識があるということ自体が苦痛」「ここから逃れたい」という感覚は私もとても覚えのあるもので、永遠でなくても、せめて気絶するだけでもいいから、この瞬間に意識を消滅させたいのに、それができなくて逃げ惑うような感覚になることが今もよくあります。
希死念慮と生きてきた中で、生きることとは、存在することとはなにか、死はどのようなものか、人間とはどのようなものなのか、考えてきました。私の場合は、それらを哲学思想、心理学、精神医学、人類学などの本も読みつつも、主には美術と文学の領域に求めてきたように思います。その中で人はさまざまな動機を持ち、喜び、絶望し、生きて死にます。そういうものの中から、この世界で生きることとはなんなのかということを私は私なりに学んできたような気がしています。

あなたは、あなたが知りたいと思ってきたことをひたむきに追究する中で、あなた自身についても、俯瞰するように理解を試みてきたのかなと想像しています。タイトルにあるように「救い」を求める中で、(あるいは求めようにもなにをどう求めるべきなのかすらわからない中で、)人間の在り方や他者との関係性について、考えてきたのだろうと思いました。

救いとはなんだろう、救われるとはどのようなことをいうのだろう。私もいまも考えることがあります。ここ数年で思うようになったのは、私たちが、いくら言葉により、思考により理解しようとも、それを分かち合おうと試みようとも、言葉という不自由なものの中ではすべてを表すことはほとんど不可能であるということです。それは言語以外のあらゆる方法でもそうで、どれだけ言葉を尽くしても半分ほども表せないのではないかと感じています。だけど、それはむしろすごいことなのではないかとも思います。表現し切ることも、それどころか自分自身で理解し切ることすらできない実存がすでにここにあり、この世界の中に、他者とともにすでに生きていることは、それらすべてが、どんなに私が把握しようとも把握しきれてしまうことのあり得ない途方もないものだと確定しているということだと言えると思うからです。
ぺらぺらと自分の思いを語ってしまってすみません。救いがなにかはわからないし、いまも救いを求める気持ちはあるのですが、言葉でばかり考えてきた私にとって、それを越える実存を心身で感じること自体が救いなのかもしれないと感じることがあり、その思考を書いてみました。
それから、私は人のいる場所で眠ることが苦手なのですが、昔実家にいた犬のいるソファではむしろ安心して眠ることができました。それは言語的な部分での相互理解ではなかったけれど、なにかを分かち合うような時間であったと私は感じています。

と、考えていて、あなたの経験談も私の感想も、そのすべてではなく断片にすぎないけれど、同時に、この文章自体が、なにかまたひとつの存在とも言えるのかなと思いました。あなたの言葉からの連想や思考により、こうやって出てきた言葉は整理もされておらず荒唐無稽かもしれませんが、このように考える機会を与えてくれてうれしいです。

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