経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

つらいけど何もしたくないしできない

親がメンタルダメになった時。私は自分のメンタルもダメだったけど、それを放置して親を支えた。私の考えでなく、親の望む対処方法で問題に対応するように、親に寄り添った。親は私が親のそばから離れるのを嫌がった。トイレにいくのすらしぶしぶだった。外を歩く時は私の腕にしがみついて離れなかった。その後問題に対して一応の対処がすんで。ある日突然ぱっと平常の親に戻った。けろっとした顔で私に「どうしたの?」と心底不思議そうにいった。私を精神的つっかえ棒にしたことは自覚も記憶もなかった。わたしが無職になって数年以上たった。親は私のメンタルが回復したと決定づけ確信して疑わない。そして高齢になった親は親の基準でやさしくしてくれない私に見切りをつけた。「あなたとはうまくやっていけないと感じてる」といわれた。
退職に追い込まれた時もそうだった。よくて傍観、訴えを無視する、一番ひどかったのは最初味方側にいたと思った人二人が最後には相手側についたこと。
いろんなことがあって。がんばって。限界こえて頑張り続けて。それで今があります。ちょっとしたことでもすぐにキレるくらいになってしまいました。過去の自分のケアなんてしたくないです。ケアするってことは頑張るってことだから。自己を見つめなおすなんてしたくないです。今までさんざんやったしそれも凄く頑張るってことだから。これからの人生(将来とか社会復帰とか)なんて考えたくないです。頑張るってことだから。助けを求めたくないです。だってそれは自分の状態を相手にわかるように話すことだから。そうじゃなくても己の状態を見るってことは頑張るってことだから。
これまで私が頑張ってきたことの中には、はたから見たら見当違いな頑張りもあったかもしれない。だから頑張りを認めてほしいってずうずうしいのかって思ったりします。
なんで誰かに自分が望むように自分を認めてほしいと思ってしまうのか。
前は帰りたいとか思ってたんですけど。いまは思いません。どこにもないから。
誰にも相談できません。きっと私のつらいよっていう訴えの内容ってその通りにはとられないから。回復したんじゃないかなとか。少し良くなったねとか。それは今の私には助けじゃないので。よくなったなら○○してみようとか、あなたがすこしでもよくなるように○○してみようとか、いわれる準備でしかない。そしてそれは頑張るってことだから。
母は昔からお祝いとかのメッセージカードに『結婚して』と書いてきた。当人はひたすら耐える結婚生活を送ったくせに。私を人間として見ていない気がして嫌だ。
 なにもしたくない。かんがえたくない。でも今後の人生を生きるにはそうはいかない。生きたくない。苦しいけどもうこれ以上なにかすることはできない。

感想1

あなたがこれまでどれだけ親のために尽くし、自己犠牲を払ってきたか…背負ってきたものの重さを考えるとタイトルにある「つらいけど何もしたくないしできない」という気持ちになるのも当然なことだと私は感じています。自分の抱える苦しみは脇において親を支え続けたのに、ある日突然あなたの支えがまるでなかったかのように振る舞われてしまうのは、自分の存在意義を見失ってしまいそうですし、虚しさというのかなんとも表現しがたい感情に私ならずっとモヤモヤを抱えてしまうなと、こうして感想を書いている今もすでにそうした気持ちに勝手ながらなってしまっているので、当の本人であるあなたの苦しさは計り知れないものだと思います。そこに「あなたとはうまくやっていけないと感じてる」なんて言われてしまっては、これまで積み上げてきた努力とかあらゆる犠牲が音を立てて一気に崩れ去ってしまう感覚になったのではないでしょうか。それでも、どこにもぶつけようのない感情(例えば怒りである憎しみとか)を何とか抑え込んで日々過ごしているのではないかと想像しています。今に至るまでよく生き抜いてきたと、上から目線に聞こえてしまったら申し訳ないのですが私はあなたに労いの言葉を送りたいです。
あなたが限界を超えてまで頑張ってきたことはとても伝わってきました。親のことだけではなく、職場でも人間関係に対する信頼を根本から揺るがすことを経験し、「頑張り」も報われないどころか理解すらされない状況は、さらに心の疲弊が深まってしまっただろうと思います。文章の後半に書かれていた、過去の自分をケアすることや自分を見つめなすこと、将来のことを考えること、誰かに相談したり助けを求めることなど、そのどれもが「頑張ること」で成り立つものでどれもしたくないと思うのは、頑張り続けてきたあなたにとってこれ以上の頑張りを求められるのはとてもじゃないですが酷なことだと感じるでしょうし、真っ当な感覚だと私は思いました。自分の望むような報われ方とか理解のされ方をされないことで生じる心の動きって本当に厄介というか自分を苦しめてしまうものだなと私も身をもって感じることではありますが、誰かに認められることで人って安心感を得たり、パワーに繋がるのも事実で、“頑張りを認めてほしい”と思うのはずうずうしいことだと私は思いませんでしたし、むしろそう思うのが自然なことだと感じます。
恐らくですが、どんな場面でも“本当の自分”を見ようとしてくれたり気にかけてくれる人が身近にはいなかったのかなと。あくまで相手の理想(あなたにはこうあってほしい、こうあるべきといったような)越しにしか自分が見られていない感覚もありますかね…。あなたの文章を読んでいると親からの「結婚して」というメッセージもそうですが、自己犠牲が当然である(むしろそれが美徳的な)ことや個人の努力の問題とされてしまう社会的な風潮や価値観が押し付けられることによって、あなたも含めて多くの人が苦しめられていることを痛感させられます。「なにもしたくない」「かんがえたくない」「生きたくない」という言葉には「もう頑張りたくない」という心の叫びが込められているように私は感じます。これまで蓄積されたダメージや傷が回復していくのには、個人の頑張りや努力ではなく、そのままの自分を受け入れてくれる場に身を置くことが必要だと私は感じていますが、残念ながらまだこの社会にはそういった場が足りないです。そうした社会的な問題への深い問いかけでもあると私は読んでいて感じ、すぐに何か大きく変わることは難しいとしても、せめて死にトリはこれからもそうした問題について考え続けていきたいと思いましたし、あなたにとって頑張らなくてもいい場所の一つとして死にトリが存在できるといいなと思っています。もし、こうして自分の思いを言葉にすることで多少でも心のつっかえが取れたり、苦しさが軽減するのであればまたいつでも書きにきてください。お待ちしています。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

投稿読みました。一人の人間として親に尊重される機会が乏しく(ちょっとストレートすぎる表現をすると、道具のように扱われたとさえ言いたくなりました…)、心が削れる限界まで削られてしまったイメージを抱きました。

頑張る、についての話が印象に残りました。「ケアするってことは頑張るってことだから」「助けを求めたくないです。だってそれは自分の状態を相手にわかるように話すことだから」というのは、自分に対しても、相談職をやっている全ての人に対しても心に刻みたいと思いました。多くの人は、さして自分と向き合って生きるわけでも、自分のことを丁寧に説明するでもないのに、相談者側には当然のようにそれを求めがちであると思います。そして相談者側は、それをわかっても相談員側に迎合してしまうことが多いかと私は思うので、このように伝えてくれるあなたの存在は貴重なものだと感じています。
(そもそも相談員ー相談者みたいに立場が分かれるのも本来なんか間違っていると思いますし、あなたが言っているのがそういった専門職的な相談支援を指しているかもわからないですが…。自分もどちらかというと相談する側で生きてきたので、普段からそういった構図にもやもやしていて、書いてしまいました)

また、「なんで誰かに自分が望むように自分を認めてほしいと思ってしまうのか」という問いも印象的で、それは「自分があまりに望まない方に、自分を都合よく切り取られた」反動のような気が私はしています。
トイレにいくのすらしぶしぶといった依存状態から、けろっと自覚も記憶もなく最終的には「うまくやっていけない」とまで言えること、あなたのメンタルが回復したと疑わないこと、『結婚して』の押しつけなどは、唖然としてしまうくらいに身勝手だと私は思いました。それだけ身勝手な関わりをされてきたのだとしたら、人と関わること自体イヤになるのではないかと思ったし、相手の少しの身勝手さにも拒否反応が出るのではないかと想像しています。

「回復した」は、自分で言ったり思う分にはいいですが、周りが勝手に言っていいことではない(少なくとも私は絶対言われたくない)と思います。
世の中では相談やらケアがちょっともてはやされている(?)けど、何かしたくないときは何もしなくても生活できて、回復するもしないも本人の意思次第だと尊重してくれるような、安心安全で押しつけのない世界になるのが大切なのかな・・・と、改めて考えさせられる経験談でした。投稿ありがとうございました。

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