「私にとって家族は他人だ」
これは私が高校1年生の時に、できたばかりの友人に自分の考えを語ってみたことがある。
私にとって家族は他人で、血の繋がっている本当に他人みたいなものだ。私は人間関係の面においてはとてもめぐまれているとおもう。父も母も普通に優しいし、暴言暴力なんて振るわれたことはない。5歳離れた弟との関係も悪くない。一般的ななに不自由ない家庭だ。両親も私のことを大切に考えてくれていることは私もわかるし、大事な娘だと思ってくれていることも知っている。それなのに、私は家族をただ一緒に住んでいる同居人で他人だという、どうでもいいという感情しかわいたことがなかった。
こんな考えを友人に話したところ、
「普通なら家族は他人じゃないし、大切な人たちだと思う。私は家族がとても大事で愛してる。それが普通だと思う。世の中には色々な人がいるんだね」
と、とても驚かれた。その日から私は自分の感覚が、普通の人とは違うんじゃないか、自分は何かが欠けた人間なのではないかと考えるようになった。おかしい。家族は私を愛してくれたのに、私は彼らを好きでもないし、嫌いでもない。一切の何の感情もわかない。どうだっていい。どうでもいい。
ネットで、家族は他人と調べても虐待を受け、家族を愛せなくなった人の体験談を見ることがあったが、私のような愛されているのに家族を愛せないという人はいなかった。
でも、私は家族を愛せない、何かが欠けたこんな自分でも私は、私のことを愛している。自分のことは嫌いではないといえる。ネットで見た人たちは家族を愛そうと何かしら努力をしたり、もし自分が家族を作るときが来たら絶対に虐待なんてしない、子供にそんな思いはさせないと思っている人たちがほとんどだった。私はこんな自分を変えたいとも思わないし、このままの自分でいいと思っている。でも、時々みんなが普通に感じている感情が自分だけわからないということをとても不思議に思ったり、なぜなんだろうと考えたりする。考えても考えてもいつだって、こたえは出ないままだ。ちなみに人を好きになったこともない。きっとこれから長い人生のなかで愛とは何か、家族とは何か、その答えを探し続けていくんだと思う。
それでいい。答えが見つかっても見つからなくても私は私のまま、生きていければいいと思った。
最後に、やっぱり私は、私のことを愛してる。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私にとって家族は他人
感想2
経験談への投稿ありがとうございます。感覚的な「家族は他人」という言葉とあなたが綴ってくださった文章の中に、冷たさとは違うあなたの真理を感じました。
また、「答えを探し続ける」姿勢の中に、「私は私、私は私を愛している」ということには、きっと揺らいでも揺らがない確信を感じます。
最近、とある曲の「孤独を知るための私と、愛を知るためのあなた」という歌詞をよくぼんやり咀嚼しています。それは、家族や恋人みたいな分かりやすい形じゃなくて、見えも、触れられもしない本当の何かを言っているようで、なんだか好きです。
抽象的な感想になってしまいましたが、何か大切な話ができたようで、嬉しい気持ちでいます。投稿ありがとうございました。
感想1
あなたの意思を感じる文章で、決意表明のようだと感じながら、興味深く読みました。読んでいてまず考えざるを得なかったのは、家族神話とも呼べるような、世の中の「家族」という小さなコミュニティへの特別視です。あなたの友人にとっては「家族は大切」という価値観が「普通」なのだろうと思ったのですが、時代や地域によってもなにを「家族」とするか、なにを身近なコミュニティとするかということは異なっていて、普遍的なものではないと私は感じています。あなたが「家族とは何か」を探していると書かれているのを読んで、私の場合は「なぜ世の中は、家族の連帯を強く求めるのか、それにはどんな背景があるのか」を考えているのかも、と思いました。
友人が言っていたという「世の中には色々な人がいる」はまさにその通りだと思います。そして、その誰が悪いわけでもなく、ただ違うということなのに、多数派ではないかもしれないというだけで「何かが欠けた人間なのではないか」と思わせるような「普通」は暴力的とも言えると感じました。あなたが「欠けている」と考える必要はないと思いました。「このままの自分でいいと思っている。」という言葉に賛同したいです。
個人的には世の中で「愛」が重視されることにもかなり違和感があります。「愛せない」ことも別に問題はないのではないかと思います。(恋愛感情を抱かない人のことを「アロマンティック」というそうですが、そういう言葉が必要になるのも、多数派と違うことで困ってしまう人がいるからで、その背景には「愛」を重視しすぎている世の中があるように感じています。)
もちろん、無闇に他者を傷つけたり、尊厳を損なったり、排除・抑圧したり…ということは望ましくないと私は思います。というのも、人が社会から完全に孤立して生きられない中で生きていくには、ある程度他者との協力が必要になるし、そもそもそういう生き物である以上、誰しも社会における責任の一端を負っていると考えているからです。ただそれは愛とか感情の話ではなく、認識や実際の行動の話だと考えています。私は、あなたが持つ感じ方を尊重されるべきだと思いますし、同時に、周りの人もその人の感じ方を否定されることなく尊重されるべきだと思っています。
そういう尊重のためには別に「愛」が必要なわけではないと思います。むしろ「愛」があっても他者を尊重できていないような状況はとても多くて、私はそちらの方が問題なのではないか…と思ったりもします。(それもその人の問題ということではなくて、一方だけを重視する社会の歪さの現れのように感じます。)
話がどんどん広がっちゃってすみません。家族は他人でいいと思うというか、家族だろうと好きだろうと好きではなかろうと、関係が良くても悪くても、実際のところ他人ではないかと私は思います。家族かどうか、好きかどうかということより、近くにいる人の行動は物理的にも影響が大きいので、生活する上でそれを蔑ろにしていいわけではない、というだけのことなのかなと思っています。
「やっぱり私は、私のことを愛してる。」と最後に確かめるように(噛み締めるように?)書いていたのが印象的でした。よかったらあなたの「愛」の感覚をもう少し聞いてみたいなと思いました。あなたの文章から、ついあれやれこれやと考えて、長くなってしまいすみません。あなたの感覚を投稿してくださってありがとうございました。