中学生になる前の春休み、唾石症を患いました。今の医学、本来なら1週間で治るような病気。母の信頼するヤブ医者のせいで水もろくに飲めない時が2ヶ月。耳鼻科に自ら逃げ込み見てもらった結果、治った先で何も食べてなかった胃にお祝いだからと唐揚げ天ぷら、逆流性食道炎になるのは待ったナシ。
同時期に幼い頃からやっていたバレエの準主役が決まるも祖母からは主役ではないと怒鳴られビデオを投げつけられ家族はみんな大笑い。
兄が暴力沙汰の事件に被害者として巻き込まれ毎晩警察か怖いお兄さん達が来る日々。証拠があっても捕まえられた人達は少年法で今も懲りずに楽しく詐欺を繰り返してるそう。
ボロボロの体を引きずる私を見て大笑いする「先月まで親友を名乗ってたヤツら」。
高校一年生の時、共働きの両親の代わりに私の面倒を見てくれた祖父母が交通事故に遭って他界。一日中泣く母を置いて仕事と大学に行ったまま帰ってこない人たちとちょうどいいと介護に呼び寄せる父方の祖母。
往復二時間以上かけて学校帰りに介護される身、既に体はボロボロ心もボロボロ、死んで欲しいと生まれて来なければよかったと叫ぶ母親の声を聞く日々、全て押しのけて必死になったのに、ある日、歩けなくなり、原因を探してるうちに心臓を患ってることを知りました。
死ぬような病気ではありません。それでも心臓病だったと伝えた家族の一言目が「良かった」と嬉しそうな文の数々。原因不明の寝たきりの娘はさぞ自慢できず邪魔だったでしょうが、心臓病なら仕方ないもんね。と。
それでも何とか治療を続け歩き始めようとした矢先、父が不貞旅行中に脳梗塞で倒れ半身不随。今は父の会社の残務処理と不貞相手に盗まれた貴重品類の回収のための弁護士さんとのやり取り。様々なことをしてバイトを休まざるを得ないほど体が弱ったのに「あんたのせいで」。
私のせいでしょうか?26になってもちゃんとした仕事をできないこと申し訳ないと思ってます。でも、私だけのせいでしょうか。
祖父母の死を悲しむ暇もないまま走ってきたのに?心臓病を受け入れる前に不貞した父の介護を受け入れたのに?我儘な兄の為に頭も下げてきた。重たい体を引き摺って今も家族のお金を死守しようとしてる。
なのに私が悪いのでしょうか。
発作が出る度に薬を飲まなければ死ねるのではと思えるのは不自然でしょうか。自由になれると思ってしまうのはおかしいでしょうか。
この時間まで明日が怖くて寝れない日々はおかしいでしょうか。私が自慢できるアクセサリーじゃないから、周りの人はみな、私を切りつけるような言葉を言うのでしょうか。
私が死んだら、家族は喜んでくれるのなら、悲劇のスポットを浴びて皆から優しくされて幸せなら、私を自害できる道を指し示して欲しいと神に祈るのは悪いことでしょうか。
発作が出た夜はこう考えてしまうのは悪いことでしょうか?
日々、弱っていくのを感じます。でも自分の病院には気軽に行けません。父の介護があるしお金もかかるし。
私も有り余るほどのお金が欲しい。お酒も柑橘類も1日でいいから好きなだけ食べれる体が欲しい。友達と旅行に行ってみたい。1人でカラオケに行きたい。親に恨まれ事を言われないで外に出かけたい。10代20代前半全て家族と病気と介護に捧げてきた。
私の何が、悪かったのか、誰か教えて欲しい。
経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
私にとって家族は他人
感想2
経験談への投稿ありがとうございます。感覚的な「家族は他人」という言葉とあなたが綴ってくださった文章の中に、冷たさとは違うあなたの真理を感じました。
また、「答えを探し続ける」姿勢の中に、「私は私、私は私を愛している」ということには、きっと揺らいでも揺らがない確信を感じます。
最近、とある曲の「孤独を知るための私と、愛を知るためのあなた」という歌詞をよくぼんやり咀嚼しています。それは、家族や恋人みたいな分かりやすい形じゃなくて、見えも、触れられもしない本当の何かを言っているようで、なんだか好きです。
抽象的な感想になってしまいましたが、何か大切な話ができたようで、嬉しい気持ちでいます。投稿ありがとうございました。
感想1
あなたの意思を感じる文章で、決意表明のようだと感じながら、興味深く読みました。読んでいてまず考えざるを得なかったのは、家族神話とも呼べるような、世の中の「家族」という小さなコミュニティへの特別視です。あなたの友人にとっては「家族は大切」という価値観が「普通」なのだろうと思ったのですが、時代や地域によってもなにを「家族」とするか、なにを身近なコミュニティとするかということは異なっていて、普遍的なものではないと私は感じています。あなたが「家族とは何か」を探していると書かれているのを読んで、私の場合は「なぜ世の中は、家族の連帯を強く求めるのか、それにはどんな背景があるのか」を考えているのかも、と思いました。
友人が言っていたという「世の中には色々な人がいる」はまさにその通りだと思います。そして、その誰が悪いわけでもなく、ただ違うということなのに、多数派ではないかもしれないというだけで「何かが欠けた人間なのではないか」と思わせるような「普通」は暴力的とも言えると感じました。あなたが「欠けている」と考える必要はないと思いました。「このままの自分でいいと思っている。」という言葉に賛同したいです。
個人的には世の中で「愛」が重視されることにもかなり違和感があります。「愛せない」ことも別に問題はないのではないかと思います。(恋愛感情を抱かない人のことを「アロマンティック」というそうですが、そういう言葉が必要になるのも、多数派と違うことで困ってしまう人がいるからで、その背景には「愛」を重視しすぎている世の中があるように感じています。)
もちろん、無闇に他者を傷つけたり、尊厳を損なったり、排除・抑圧したり…ということは望ましくないと私は思います。というのも、人が社会から完全に孤立して生きられない中で生きていくには、ある程度他者との協力が必要になるし、そもそもそういう生き物である以上、誰しも社会における責任の一端を負っていると考えているからです。ただそれは愛とか感情の話ではなく、認識や実際の行動の話だと考えています。私は、あなたが持つ感じ方を尊重されるべきだと思いますし、同時に、周りの人もその人の感じ方を否定されることなく尊重されるべきだと思っています。
そういう尊重のためには別に「愛」が必要なわけではないと思います。むしろ「愛」があっても他者を尊重できていないような状況はとても多くて、私はそちらの方が問題なのではないか…と思ったりもします。(それもその人の問題ということではなくて、一方だけを重視する社会の歪さの現れのように感じます。)
話がどんどん広がっちゃってすみません。家族は他人でいいと思うというか、家族だろうと好きだろうと好きではなかろうと、関係が良くても悪くても、実際のところ他人ではないかと私は思います。家族かどうか、好きかどうかということより、近くにいる人の行動は物理的にも影響が大きいので、生活する上でそれを蔑ろにしていいわけではない、というだけのことなのかなと思っています。
「やっぱり私は、私のことを愛してる。」と最後に確かめるように(噛み締めるように?)書いていたのが印象的でした。よかったらあなたの「愛」の感覚をもう少し聞いてみたいなと思いました。あなたの文章から、ついあれやれこれやと考えて、長くなってしまいすみません。あなたの感覚を投稿してくださってありがとうございました。