経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

ボーッと生きてきました

現在、半年以上休職中です。何の為に働いているのか分からなくなった結果、仕事をサボるようになりました。仕事内容は楽しくないし、稼いだ金の使う宛も特になかったのです。抑うつの診断書を貰ってはいますが、生きる軸がなかっただけなんです。

これまで自分とちゃんと向き合わなかった結果、自分の感じた感情に価値を感じられなくなっていました。自分が楽しいと感じたところで、だから何?、となるのです。

周囲の環境に問題があったとは特に思えないのです。ただ、主観的な記憶があまりないのです。

実家の関係は良好、お金の心配もありませんでした。客観的にいい両親と言われるものだと思います。

田舎の中学校まで、頑張らなくても良い成績をとれました。市で有名な進学校に入れそうと聞いたので入りました。やりたいことは特になかったので、将来の選択の幅が広くなる方がいいだろうと考えたのだと思います。

高校はみんな頑張ってて、成績は下の方でした。受験勉強も不真面目でしたが、何故か地元の国立大に受かりました。やりたいことは特になかったので、とりあえず職に困らないように工学部にしたのだと思います。

院進が一般的みたいなので院進しましたが、研究内容には最後まで興味が湧きませんでした。OB訪問で説明された企業は一部上場で首都圏、研究分野と近かったので、それでいいかと就職しました。やりたいことは特になかったので、稼げて立地がよければ後々何か別のこともできるかと考えたのだと思います。

職場の雰囲気も悪くなく、残業が多いわけでもありません。業務内容は専門的で難しいですが、上司や先輩のフォローがありました。ただ、その仕事をできるようになれるとも、なりたいとも思えず、責任感がどうにも感じられませんでした。

貯金は増えていきましたが、自分に金を使うメリットがわかりませんでした。ただ、モチベ無しにやれる仕事量でもなかったのでしょう、ガタがきたので休職です。あっさりと受け入れて貰えたので、ホワイトな職場なんだろうと思います。

ただ、家族も、職場も、どこか居心地が悪いです。感謝すべきことばかりですが、感謝の気持ちが湧いてこないのです。

何となくで人生を進めた結果、路頭に迷っています。興味がないので今の職場は離れそうな気がしますが、結局何も軸は無いままです。

今はほぼ、引きこもりのような生活をしています。自分と向き合う時間を貰ったのに、怠惰にも、時間を食い潰しています。貯金も減り、自分には勿体ないと、食費もエアコン代もケチっています。

もうすぐ30歳になります。まだ若いと言われる年齢だと思いますが、それは夢のある人の話だと、他人事に感じます。人生全てが他人事で、死にたいというよりは、何か事故に巻き込まれないかな、最初から無かったことにならないかな、という方が近いです。

自分の人生の中心に、自分を取り戻したかったはずなのですが、それができるほどの体力は自分にはなかったのかもしれません。

こうしてここに書き込めたことに、どうか価値を感じられますように。

感想1

過ぎてゆく時間と、あなたの気持ちと、あなた自身がどこか切り離されて、バラバラに浮遊しているような印象を受けました。最近バラバラになったというよりも、ずっと前から自分の気持ちや意思決定から、切り離されてこられた様子を文章全体から感じ取っています。

主観的な記憶をあまり持たず、工学部や大学院での学生生活をよくやりきったなあという気持ちに私はなったりしたのですが、職場で何のために働いているのか分からなくなり、時間もお金も持て余すようになるまで、目の前のことに取り組んでこられたのかなと想像すると、ある種その状態を維持できたのはどんなところからなのかと興味深くもあります。

有名な進学校、国立大、院進、稼げて立地の良い職場・・基本的な能力が高く、自分のやりたいことがないからこそ後々困らなそうだと思える選択ができたとも言えるのかなとも思いました。

わたし自身どちらかというと進路や進学を考える際、毎度やりたいことがわからない、ない人間だったのですが、勉強はあまり得意ではなかったばかりに「やりたいことはないが強いて言えば自分の得意なこと」を伸ばす選択肢しかないと思って選択してきた(させられてきた)節があります。もしも勉強ができて、お金の心配がなかったらあなたと同じ選択をしていたかも知れないなあ・・と運命の分かれ道を見たような気もしています。

学校に通っていれば、知らず知らずのうちに良い成績を取ることが良いこととされるいわゆる「成績至上主義」みたいな価値観を植え付けられることが多いと思うのですが、きっと私もその一人で私の場合「点が取れたらホッとする」「勉強ができない自分を責める」ことが度々あったなあと思い出しています。

少し話が錯綜するかも知れませんが、日本の子どもは「勉強の点数は取れるのに、心は疲れている」という逆説に直面しているそうです。それらが心を蝕む主な要因は「条件付きの価値観」と「外発的動機への過剰依存」だと言われているそうですが、どこかあなたの悩みの中核とも重なるような気がしました。

文章全体から、本当にあなたが求めているものは内面から湧き出るモチベーションや、結果と切り離されてあなたの存在そのものに価値があるということなのではないかなとしみじみ思ってしまったりしたのでした。(お金というのも外発的動機だと思うので、その辺りにもあなたは辟易しきっていたのではないかなとも想像しましたが違っていたらすみません。)

軸を見つけたり得ることよりも、まずは今持っている価値観や外発的につくられてきた動機を少しずつ手放すことも必要なのかも知れないなとそんなことをぼんやり思いながら、自分と向き合うことの苦痛たるやも思い出しています。

自分と向き合うことの大半は、自分を否定することのような気がします。だからこそ暇な時間が人は怖いのではないかなと思ったり。そう思うと、あなたが浪費していると感じる時間の中でさえも、あなた自身があなたと向き合っている時間のようにわたしは感じました。人生において一度時間が止まったように、なかったように時間を過ごすことも必要だと、わたし自身引きこもっていた時間を思い出してそう思います。その時の感情や感覚は、経験した人にしかわかりません。

お金を稼ぐことが生きがいの人や、いかに仕事をサボることがモチベーションになっている人もいれば、どれだけ節約できるかを喜ぶ生き方をしている人もいることの不思議を思いながら、それらがあなたにとって苦しいと感じるのは、やっぱり今の自分にしっくりくる自分の生き方や人生を取り戻そうとしている証拠なのではないかなとわたしは思います。

時間があってもお金がない、なのか、お金はないけど時間はある なのか・・。なんとか後者のように生きられないものかなあとわたしは思うので、インターネットの海に漂流しないように、地に足を縄で括り付けるようにしています。ただ、今、何が本当にやりたいかなあとフラフラし続けてはいます。

余計なお節介というのか、いつかお互いの節約術を披露しあってみたいなあと思ったりもして。どんな食費の削り方をしているのか、エアコン代をケチる術はどんなものがあるのか・・、もっとあなたの日々と、これまでを聞いてみたい気持ちになりました。また必要な時には書きにきてほしいです。ありがとうございました。

感想2

経験談を読み、あなたがこれまで人生や選択などのさまざまな要素について思うように価値や意味を見出せない中で、それでも意味を希求し続けてきていることを感じました。まず、「自分の人生の中心に、自分を取り戻したかった」とあって、あなたの感覚としてはもともとは自分の人生の中心にいた感覚があったのだろうか?と気になりました。「主観的な記憶があまりない」ともあるのでわからないかもしれないし、自分の中心は自分であるはずと頭では思っていても、実感としてそうだった記憶はないのかも、とも考えています。
まず、仕事について言えば「生きる軸」がないと、能動的にモチベーションを保ち続けないとガタがくる状況というものについて、いろいろと思いを巡らせていました。
あなたはたぶん、学力やそこから連続性を持つ労働現場で力を発揮することにおいて、あるいはその前提となるさまざまな選択において偶然社会の価値基準からいって問題ない、あるいは優れた結果を出してきたのかなと思います。ただそれはあなた自身のモチベーションから選ばれたわけではなく、ただそれが可能な状況(能力や資質、生まれ育った環境など)があったということで、そこに「自分」を感じられることもなかったのかなと、文章からは思いました。
客観的なデータから言えば、「感謝すべき」で「問題があったとは特に思えない」と思っても、「どこか居心地が悪い」まま、自分ごとにならない生活を送っているというより「運用している」みたいな感覚だったのかもしれないと思います。モチベーションや自発性はある種の報酬を与えてくれますが、それがないまま運用してきたら疲れるのも無理ないことのように思いました。
読んでいると、その感覚(あるいは感覚されないこと)はいわゆる離人感とか失感情的な状態にも近いのだろうか?と思ったりもしました。
私自身はADHDなのですが、中でも刹那的な物事に生きている感覚を求めがちなタイプだと思います。だからその意味で言えば確固たる「生きる軸」はない気もするのですが生きる実感は強く感じているかもしれません。でもそれも逆説的に言えば、そもそもが感覚鈍麻なところがあるから、強い実感や刺激を求めて行動している部分もあるのかも、などとあなたの文章を読み読み考えていました。
ちなみに私は周りにADHD傾向〜診断済みの人も、ASD傾向〜診断済みの人もわりと多い方だと思うのですが、離人感や失感情状態など、ある種の実感に関するむずかしさは、トラウマ由来の場合だけでなく、ASDなどの発達傾向の中にもあるのかなと感じています。
それで思い出したのですが、歌手の米津玄師さんがSNSで、ライブ会場の中で、あるとき雷に打たれるように観客が「ここにいる」のだと実感したのだと書いているのを読みました。「ファンの存在あってこそ」と頭では理解をしていても、それまでは「実感」はしていなかったということが、雷のような実感とともにはじめて理解されたということなのかなと感じ、印象に残っています。米津さんは自身がASDであると公表されているそうなのですが、周りのASDの人からも似た話を聞くことがあり、そういう状態像が存在することを感じています。私自身についても、他者や自分自身の実感はある方なのですが、体の感覚がにぶめなのもあり、自分の体と一致した感覚を持つのがむずかしいことがあります。そんなふうに人生のさまざまな局面で、世の中の多くの人は感じていそうなことを「実感する」ということのむずかしさがあり、一般的にはあまり重視されていないけれど、けっこうな生きづらさではないかと思うのでした。
トラウマにしても発達特性にしてもあまりピンとこないかもだし、全然違うかも……とも思いつつ、あなたの言葉とどこか似た話を記憶から掘り返して、思いついたことを書いてみました。
ただ一方では、トラウマや脳の機能のバランスといったことを超えて、そもそも今の時代は実感を持ちにくい時代であるようにも思います。本当は主体性なんか求められていないのに「あなたが主体的に選んだのでしょう」と突きつけられるような自己責任論は強まっているように感じます。その背景には、高成長の時代はとっくに終わり不況が続く中で育ってきて、「頑張ったら報われる」という神話は終わりを告げ個々人の相対的剥奪感は強まっているような状況があるようのではないかと個人的には思います。本来なら、ボーッと生きたって全然いいし、それで苦しくなければいいはずなのですが、状況がそういう人生を健やかなまま過ごすことを許してくれないということなのかも……と、なんだかくやしく思うのでした。
あなたが自分を理解しようとして積み上げてきた言葉があるように感じ、思いめぐらせていたら長くなってしまいました。思いついたまま書いたので、役に立たない部分が多いかと思うのですが、機会があればまたあなたと意見交換をしてみたいと思いました。

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