経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

暴力の過去と将来への葛藤

小さい頃、怒られる時によく暴力を受けて育った。怒る=暴力のイメージが今も頭の中に蔓延っている。果たしてこんな自分が保育士を目指していいのだろうか。
中学2年生の夏、職場体験で保育園に行った。その時には、「自分が保育士になった時子どもに手をあげることはない、絶対にない!」と自信をもって言えた。でも、改めて考えてみるとその自信は薄れていった。すごく昔のイメージを今でも引きずっている。今は優しい親のことを許せていない自分もいる。ちょっとしたことですぐに凹んだり、どうしようもなく死にたくなることがある。保育士はストレスの多い仕事だ。ストレスが溜まっている時、手をあげかけてしまうことがあるかもしれない。そんな事を考えているうちにこんな自分が保育士になっていいのかと疑い始めるようになった。(きっと保育士になるべきではないのだろう)
こんな中途半端なやつが保育士になったところで安心して預けたいと思う親はいない。だったら今からでも違う夢を探したほうがいい気がする。諦めたくないと、諦めるべきだの間で揺れ続けている。手をあげてしまう恐れがある、そんな自分が大嫌いで、すごく憎い。
そうやって悩んでいるうちにいつしか親を恨むようになった。あの時暴力を受けなければこんな悩まなくて済んだのではないか。ずっと保育士の夢を追い続けていられたのではないか。こんな苦しい思いしなくて済んだのではないか。なんで親のせいで夢を諦めなければいけないのか。(怒らせたのは自分だし、殴られたのも自業自得なので親のせいというのは完全に間違っているし、親は悪くない。他責思考になっている自分も腹立たしい。)そんなことばかり考えてしまうようになった。親だって人間だ。育児をしているとストレスだってある。その捌け口が欲しくなる。暴力だって躾だったのかもしれない。第一、今はもう優しくなって暴力を受けていない。自分は親の事情を何も知らない。知らずに酷いことばかり考えている。そんな自分が嫌になる。
自分一人いなくなっても世界は回るし、消えてしまいたい。この世で1番嫌いな自分という存在を消し去ってしまいたい。死ね、と罵られてみんなに嫌われて楽に死にたい。でも死ぬ勇気すらもない。きっと心のどこかで誰かに生きる事を認めてもらいたいと思っているんだろう。「生きてていいよ」とただその一言が欲しいと思ってしまう。そう思ってしまう自分を見て、醜い人間だなとしみじみと感じる。もっと辛い経験をしてる人が沢山いて、その人たちと比べると自分なんか全然なんだろうな。まあ、比べるのも失礼な話だが。

思った事を思ったまま書き連ねていったせいで読み辛い文章だったと思う。申し訳ないです。

感想1

保育士という将来のお仕事について、あなたなりに過去を振り返って葛藤している様子を経験談から感じ取りました。
「怒る」ことへのイメージの話がまず書かれていたと思います。「怒る=暴力」というイメージがつくほどには、あなたにとって幼少期の出来事が印象的だったのかなと思います。暴力を振るわれて、小さいあなたは「辛い」「怖い」と思っていたのかな…と勝手ながら想像していました。

自分は幼稚園に行って教育実習を一か月したことがあるのですが、何かあったときに「怒る」のではなく「意見を表明し合う」と思っていました。保育士という仕事はストレスが多いのかは私は分からないですが、少なくとも私は幼稚園に行ったときにあまりストレスを感じませんでした。子どもと接する仕事もあれば、事務的な仕事、教材をつくる仕事など、いろんなことを実習期間中にやっていて、一日の中でリフレッシュできたからかもしれません。また、私は指導教員や園の雰囲気との相性もよく、居心地が良かったです。
ただ、保育の現場におけるストレスというのは、子どもからダイレクトにくるものでもない場合もあると思います。例えば、騒がしい場所が苦手な人はその場所自体にストレスを感じるかもしれません。でも、その点がクリアできていれば、少なくともその点では保育の現場との相性は良いのかもしれません。育ちとかの問題ではなく、単に仕事との相性というものは存在していると私は思います。
まだ諦めるか迷っているみたいですが、ボランティアで子どもと接する経験は積めないのかなぁと思いました。実際にやってみて分かることもあると思います。諦めたくない気持ちがあるのなら、諦めないために今あなたにできることはなんだろう、と一緒に考えたい気持ちになりました。

また、自分の過去に対して綺麗に精算しないといけない、という意識があるのかなと感じました。でも、過去のことを全く切り離して過ごせる人は少数派なのではないかなと私は感じています。親のことを許せなくてもいいし、親に対して微妙な気持ちを持っていてもいいと思います。時には親に対して恨めしい気持ちにもなるかもしれません。親にも事情があったのかもしれませんが、だからといってあなたが暴力を受けるいわれはないと思います。

「生きてていいよ」と言われたいという気持ちは、私は醜いと思いませんでした。私もそう言われたいです。仮に自分が醜い人間だったとしても、それも自分なのかもしれません。未熟なのも自分かもしれません。だからこれからどうしていくか、縁を紡ぎながら考えていってもいいのかなと思いました。

感想2

投稿を読み、個人的にとても共感する気持ちになりました。そして暴力を「絶対にない!」と自信を持っていたときからの変化は、あなたが成長し自分を見つめるまなざしを持ったということではないかと思いました。個人的には「絶対にない」と断言できる人のほうが、私には怖い感じがします。私たち人間は、つねにさまざまな刺激と影響の中にいて、自分自身の知らない部分をたくさん持っています。だから、私たちに必要なのは、望ましくない可能性を端から否定するのではなく、「もしかしたら」と自分を見つめる視点をゼロにしないでいることのほうだと私は思っています。
とくに子どもに関わる人には、そういう視点をなくさないでいてほしいと私は願っています。そう考えると、「自分は暴力を振るってしまうかもしれない」という視点があることは、むしろ保育士に必要な資質の一つとも言えるのではないかと私は思いました。保育などの仕事にもくわしくない、一般人の意見にすぎませんが……。

私も暴言や暴力のある家庭で育った中で、暴力を嫌っていますが、同時に自分が暴力的になることも知っていて、そんな自分を嫌いだし怖くて憎いと感じています。暴力を全部切り離してしまえたらいいのにと思うのですが、そんなつるつるぴかぴかな存在にはなれそうもありません。
ただ、いまも私は親への怒りや憎しみがある一方で、暴力や加害ではない形で他者と生きていきたいと私が思えたことも、その育ちは関係しているだろうと思います。もちろん「だから暴力の経験はあってよかった」と暴力を肯定する気持ちはまったくありません。ただ自分の経験をどのように解釈するかという点では、いくらかの余地があるようにも感じています。

たしかにあなたの親にも事情はあったかもしれませんが、それは子どもが捌け口になっていいということではありませんし、躾も教育も暴力の理由にはまったくなりません。あなたの親にもサポートが必要だったかもしれませんが、同時に、あなたにももっとサポートがあったり、暴力から逃げられる場所があったなら、と思わずにはいられません。そう考えると、サポートをする仕事のひとはこの世の中にもっとたくさん増えていくべきなのだろうなと思います。保育士もそのひとつだと思いますし、そういう世の中の比重が変わっていけば、少しは生きやすい世の中になるのかなと思っています。
あなたは暴力の中を生き延び、さらに過去の苦しさや葛藤の困難の中で生き延びて、いまにいるのだと思います。お疲れ様、よく頑張ってきたねと、あなたを労いたい気持ちでいっぱいになります。その中でとりぱーくに辿り着いてくれて、あなたの率直な心のうちを教えてくれてうれしいです。機会があれば、あなたともうすこし言葉を交わしてみたいです。

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